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執着からの解放と未知の楽しみ
昨夜から立て続けに食器が割れる。
グラス2つとパスタ皿が1枚。
どれも気に入って頻繁に使っていたものたちだ。
こういう現象は私には度々起こる。
そしてそれはある意味明るい知らせに繋がることが多い。
何かが壊れることは、そのものを手放すことでもある。
ここでは修復可能な代物の場合は別の話として捉えてもらいたい。
それは執着からの解放。
10年前に二度目の離婚をする前の1年間のこと。
既に元夫は家に帰ってこなくなっていた。
会社の控え室で寝泊りしていたようだが詳細は定かではない。
その1年の間、何故かうちのありとあらゆる食器が割れた。
それはもう、毎日1〜2個とかいうレベルではなく次々と。
あまりにも割れるので、しまいには「ガチャン!」「 あ〜はいはい、またね 」という具合で驚かなくなっていた。
そして何回買っても部屋に飾る花がことごとくダメになった。
切り花ではない。鉢植えの丈夫なものが買ってきてもあっという間に枯れていく。
それはそれは恐ろしい速さで。
きっとあの空間に漂う異常に歪んだ「気」が作用していたのだろう。
そんなものは迷信だとかそれこそ気のせいだと思うかもしれないが、あの家にあの時漂っていたものは半端じゃない破壊力の「何者か」だったと確信する。
それは紛れもなくこの私の精神から出ていたもので、この生活を一刻も早く壊して一から安全な場所へ、新しい暮らしへ移行したいと願う心の叫びがパワーとなって出ていたのだと思う。
毎日ガチャンガチャンと割れていくお皿やグラスたちには申し訳なかったと思うが、それほど私の「気」が強かったのだろう。
何故かそれらが割れる度にスッキリする自分がいた。
それまでの生活が少しずつ壊れていくのを目の当たりにするようで、それはつまり新しいスタートラインに近づいているような錯覚を覚えた。
昔のそんな感覚を先日久しぶりに思い出したのは、大切にしていたリーデルのワイングラスを2つ、立て続けに割ってしまった時だった。
非常に薄い作りのリーデルは細心の注意を払って扱うように心がけていた。
ちょっと力を入れて洗ったり拭いたりすれば簡単に割れてしまう。
カンパイの時にグラスをカチンと合わせるなんてのはもってのほかだ。
しかるべき所に保管し、洗うのも他の食器を全て洗い終わってから。
洗い終わった後に水を切る場所も専用のスペースを設けていた。
そこまでしてでも毎晩ワインを飲むときにはやはりこのリーデルがよかった。
味わいが全然違う。
唇にあたるリムの部分の感覚もとても繊細で液体がスッと細く入ってくる。
そして何より、気分が違うのだ。
一口ごとにプレート部分に指を沿わせてテーブルに付けたままクルリと1回転。円を描いて中の液体を揺らすとステムの中程を三本の指で摘むように持ち、小さめのリムに鼻を突っ込むように近づけて立ち上った香りを深く吸い込んで味わう。そのまま間を開けずに一口含む。至極のひととき。
大して高いワインでなくてもこのグラスで飲めば何ランクも上の味わいを実現させることができた。
要は気分の問題だ。
もちろん、その形状はブドウの種類によって使い分けするためにたくさんのフォルムがあるのだから実際味も香りも違ってくるのだろうが、まあ家飲みワインに関してはそんな上等なものなど本来は必要ないのかもしれない。
それでも。
背筋が伸びるのだ。
そして本当に美味しく感じる。
全くと言っていい味わいの違いがある。
それが割れたときにはかなりショックだった。
しかも2日続けて割れた。
でも、だからこそ、これは何かの前兆だと思い直した。
心は明るく前向きだった。
10年前を思い出して。
その後、それまで数ヶ月悩み続けていたことからある日突然解放されることになる。そしていろいろなことを何故か新しくしようと思い付く。
それまで鍵をかけていたTwitterを放置し、新しいアカウントを作りnoteと連動させること。アイコンを新しくして名前を変えること。それまで一人でコツコツやってきたが、サークルやイベントに積極的に参加するようにしたこと。
すると一気に人の繋がりの流れが変わってきた。それまでの繋がりが切れたわけではないが、明らかに新しい流れの方向が変わったというか、その川幅が何倍も太くなったような感じだ。
楽しい。
人と人との繋がりはどこでどのように自分の人生に影響を及ぼすかは分からない。いいことばかりでは無いかもしれない。でも、自分の価値観と信念がしっかりとあれば、新しい扉を開くことに尻込みしたり警戒ばかりしていては何も生まれてはこない。
人生は限られている。タイムリミットは刻々と近づいている。
それはどんな人でも同じ条件だ。
だったら私は楽しみたい。気の合った人たちとその楽しみを分かち合いたい。
割れたり傷ついたり破壊したりは悪いことじゃない。
その先の楽しみへと繋がっていると考えると、高価なグラスも一つの通過点として想いを残すこともない。
今日、また立て続けに愛用の食器が割れた。
残念な気持ちよりもその先の楽しみに心躍る私は愉快な変態だ。
何が待っているのかな。
人生は未知の楽しみの連続だ。