見出し画像

病院帰り、バス停にて。

前回の話の続きを。

血液検査結果の食事指導(お高い“特別な”サプリ指導)にモヤモヤしながら、前回処方してもらった寝る前に飲む安定剤だけを再度処方していただき、帰路についた。とりあえず、今の私には必要だと思うこの薬はもう少し飲み続けて睡眠時間の確保をしたいと思う。

食事では摂りきれないと断言されても、今後も自分なりにできるだけ自然な形で無理なくバランスの良い食事を摂りながら健康維持していきたいと思った。というか、これから先にまだまだ続く人生、無理なくできることしか結局は続かないと思うので。それで少々栄養価が足りなくて寿命が縮まったとしてもそれが私に与えられた人生の時間だと思えばそれでいいじゃないかと、プラス思考なんだかマイナス思考なんだかよく分からない結論を自分に言い聞かせて納得した。
いいよね?それで生きられるだけ生きれば。うん、いいよそれで。はい、よし。

気分はまだ少しモヤついていたが、もうこれであのクリニックとはオサラバだと、ある意味せいせいしながら最寄りのバス停へと向かうと、先に一人の男性がバスを待って立っていた。

あと何分で来るかな?
私はバス停の時刻表の小さな文字を目を細めて覗き込むと、男性が「あと2分ぐらいで来ますよ」と遠慮がちに声をかけてきた。

時刻表で確かめると、あと2分で来るバスは私が乗るルートとは違うバスだ。私が乗るバスはあと5分後にやって来る。

「あ、私が乗るのはこっちので、あと5分後のようです」
男性が乗るルートとは違う時刻表を指差して私は言った。

「あぁ、そうなんですね。それは失礼しました!」
男性は申し訳なさそうに私に謝った。

「いえいえ、どうもご親切に。ありがとうございます」
私は親切心で声をかけてくれた男性に悪いことをしたと思い、お礼を言った。

男性はもう一度時刻表の近くまで行って食い入るように小さな数字の羅列を見つめ、独り言のように「そっかそっか、そうなんですね。本当だ」と私が乗るバスの時間を確かめて、 私が間違えてないことに安心した様子だった。その優しい言い方と笑顔に私は好感を持った。

男性はぱっと見で推定60代前半ぐらい。手荷物はなく、外回りの仕事中という感じでもない。平日の昼間にこうしてバスに乗ってどこかへ出掛けるということは、もしかするともう引退されて悠々自適の生活なのかもしれないと勝手な想像をした。

男性の格好は普段着のようだけれど、小綺麗な紺色のシャツとズボンにハンチング帽をかぶっている。私はこのスタイルにどこか既視感があり、ふと気づくと生前の父を彷彿とさせる出立ちだと気づいた。父はよく夏場にハンチング帽をかぶっていた。服装も決して高価なものではないけれど、出かける時はTシャツなどのラフなものではなく、ピシッとプレスの効いた綿や麻のシャツを好んで着ていた。
いつもきちんとしていて品があった父。なんだか私はその男性に勝手に父の面影を映し、親近感を抱いてちょっと話しかけてみたくなった。

「私、普段ここからバスに乗ることはほとんどなくて。時間とか調べてなかったものですから」と言うと、その男性も「あぁ、私もそうなんです。今日はたまたまこれから出かけるものでね」と私の言葉に歩調を合わせてくれた。私はちょっと嬉しくなって話を続けた。

「でもすぐ来るみたいでよかったですね」とマスク越しに笑顔で答えると、男性はにっこりと微笑んで頷いた。男性はマスクをしていなかった。やはり笑顔はマスクなしの方が感情がダイレクトに伝わるなぁ、などと思いながら、私もマスクを外したい衝動に駆られた。

それで会話は終了。のはずだった。

「私ね、実はほとんど目が見えてないんですよ」

え?そうなんだ。そう言えばさっき時刻表のプレートに顔がくっつくほどの至近距離で見ていたっけ。よく見ると男性の左目はグレーに濁っていて、涙で潤んでいるように見える。

「そうなんですか」

「えぇ。つい最近、目の手術をしたばかりなんです。でもあまりよくはならなくて。今でもまるで水の中から、あの、たとえば、深い川底から水面を見ているような感じでね。白く濁ったように全体が光って、ゆらゆら揺れているように見えるんですよ」男性は眩しそうに目を細め、天を仰ぎながら水の中でもがいているような手振りで空中を掻いた。

「まぁ、それは大変ですね。メガネは?メガネかけなくて大丈夫なんですか?」

「それがね、左右の視力が全然違うガチャ目なので、眼鏡をかけると気持ち悪くなっちゃうんですよ」

「あぁ。それ、なんとなくわかります。私も乱視なので」

「そうそう。乱視ね、そうですよね。・・・。私ね、なんだか見えにくいなって思って、病院に行ったらね、目の病気が見つかって『すぐに手術が必要です』と言われてね。おまけに白内障も悪化していて。手術しないとって。でもそれでよくなるならいいけれど、もしかしたら失明の可能性もあります、なんて言われてしまって。もうその夜は怖くて怖くて寝られませんでした」

「そうでしたか。それはお辛かったですね。怖かったでしょうね」

「はい。突然そんなことを言われてね。なんの心の準備もしていなかったものですから。もう心臓がドキドキして、もしもこのまま目が見えなくなってしまったらと思うと、いてもたってもいられませんでした。先生の話が頭に入らなくてね。ぼぉっとなっちゃって。この先どうなるんだろうと思うと……」

私は深く頷きながら先ほどクリニックで聞かされた、落第点の血液検査の結果を聞きながらボーーっとなっている自分を思い出した。わかる。そうだよね。急にそんなこと言われてもね。私は先程までいた診察室を思い出した。今頃次の患者があの腹ペコで不機嫌なドクターにダメ出しされて凹んでいることだろう。気の毒に。

男性は話を続けた。

「でね、一応手術は成功したんですけれど、こうして今でもあまりよくは見えないんです。眼圧が高くて目に穴を開ける手術もしましてね。一旦は下がるんだけれど、またすぐに上がっちゃうんですよ。ええ、怖いですよ。それで特に昼間の強い光が辛くてね。今でも、そう、お姉さん(私)のシルエットはわかりますが、お顔ははっきりとは見えていないんです」そう言って私の身体の外枠のラインを両手で形をなぞって作るようなゼスチャーをした。見えてないんだ、と思うと私は余計にマスクを外したくなった。きっとこの人にはマスクをした人たちの感情はほとんど視覚的には得られないのだろう。私は何とも言えない寂しさを覚えた。そして少しオーバー気味に大きく頷き、マスクを少しずらして無意識に声のトーンを上げて言った。

「じゃあ、陽が落ちて暗くなると余計に見えなくて危ないんじゃないですか?」

私はその時、ある知り合いの女性を思い出していた。その人はちょうどこの男性と同じぐらいの年で、持病の糖尿病が悪化して今ではほとんど目が見えない。昼間の明るいうちはまだいいけれど、陽が落ちると全く見えなくなるので怖くて外を歩くことができない、と言っていた。

「それがね、僕の場合は陽が落ちてきた方が見えるようになるんですよ。不思議でしょう?光でぼやけていた世界が暗くなると焦点が合ってくる感じです」
それは私などには想像もつかないほど、不安で怖くて不自由で大変なことなのだろうけれど、暗くなってくるとほんの少し世界がはっきりとした輪郭を持って見える、と笑顔で話す男性の表情を見て、彼の中だけに起こるその現象に対して僅かな希望を感じた。

「へぇぇ、そうなんですか。不思議です。人によって色々なんですね」

しばらく男性の話を聞きながらバスが来るのを待った。ほんの5、6分ほどの時間だったけれど(男性の乗るバスが遅れていた)、全く見ず知らずの人の、とても個人的でシリアスな人生の一部分を共有したような、濃密で不思議な時間だった。

私が今日、クリニックに来なければ。予約の時刻通りに行ったのに一時間近くも待たされることがなければ。そしてこの男性も、昼間滅多に外に出かけることのない日常の、今日がたまたまの外出の機会でなければ、私たちはそれぞれ行き先の違うこのバス停で出会うことはなかったはずだ。

こういうのをきっと「一期一会」というのだろう。そして私がこの男性に亡き父の面影を見なければきっとこんなに会話は続かなかった気がする。偶然の上の偶然。そしてその人に対する感情の揺れ。人間というのはほんの少しの気に留めた要素の積み重ねで、こうしてなかったはずの出来事が“あること“になっていくのだ。なんというか、面白く感慨深い。でも、その時間が私にはとても癒しになった。私はただ男性の話を聞いていただけだけれど、先ほどまでのモヤモヤしていた気持ちが和らぎ、直前まで抱えていたわだかまりのようなものがふわっと溶けた気がしたのだ。

そうこうしているうちに、男性の乗るバスがやってきた。すぐその後ろには私が乗るバスが続いている。二台の行き先の違うバスが、同時にバス停にたどり着いた。
バス乗り場には二段ほどの段差があって、私は「足元にお気をつけて」と男性に声をかけた。

「なんで僕はこんなくだらない話をあなたにしたんでしょうね。ごめんなさいね」そう言って笑顔で男性はバスに乗り込んだ。

私はただ微笑むばかりで、心の中で「お気をつけて」と繰り返した。ほんのいっときでも男性の身の上話を聞くことで、男性に少し心のゆとりのようなものができたように見えたのは、私の気のせいだろうか。

きっと、誰かに聞いて欲しかったんだと思う。自分のことを。たまたまそこにいたのは私だったけれど、誰かに向かって苦しかった心情を吐き出すことで、確かに何かが男性の中で解けて緩んだように見えたのだ。

人間皆、何かしらの不安や絶望を抱えながら生きている。言葉を交わすことなくすれ違っていくあの人もこの人も。もし何かのきっかけで話をする機会を持ったとしたら、百人いれば百通りの物語を聞かせてもらえるはずだ。

私ももちろん抱えているものがある。今回はたまたま聞く側だったけれど、いつか話す側になることもあるだろう。そんな時は遠慮せず、心の奥底にあるモヤモヤを勇気を持って吐き出してみようと思った。もちろん相手によっては拒否されることもあるだろうけれど、今回の私のように話を聞くだけで、話し終わった男性の表情が柔らかくなったのを見るだけで、自分も癒されていることが分かったから。病院で受けたトゲトゲした言葉でささくれ立った心を、こうして帰りのバス停で見知らぬ男性に癒されて、私は心の中でありがとうとお礼を言いたくなった。

お互い様なんだなと思う。こうして人間はまた前を向いて生きていけるんだな。先ほどまでの心のモヤモヤをその場に置いて、私は穏やかに晴れた気持ちで男性の乗ったバスの後に続いて到着した別ルートのバスへと乗り込んだ。



*アーカイブは下のマガジンからお読み頂けます。

#交換日記   #バス停    #一期一会   #父の面影   #エッセイ   #出会い   #絶望 #希望

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?