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映画「ドライブ・マイ・カー」の中に見る孤独と悲しみと再生という名の希望
私がこの映画を観たいと思ったのは、第74回カンヌ国際映画祭の「脚本賞」(他全4冠)を受賞されたというニュースをラジオで聴いたのがきっかけだった。
カンヌで、しかも「脚本賞」だ。一体どんな内容なのだろうと検索してみると、村上春樹の短編が原作となっている。短編?そして、上映時間はなんと約3時間という。3時間!
その短編小説を3時間かけたという脚本に興味を持ったのは、この三年間ここnoteでエッセイや小説を自分なりに細々書いてきたという、私自身の生活の変化による心境が惹きつけたと言っていい。趣味とはいえ、この禍の中での閉ざされた生活に於いて、明らかに一つの心の支えとなってきた「書くこと」と「読むこと」。それは私にとって前向きに生きるために思いの外、大きな役割を担ってきた。
物語を書けば書くほど、人の心の中に潜む「怒り」「悲しみ」「孤独」「喜び」その他たくさんの心の機微を文字にすることの難しさを身に沁みて感じている。そしてそれを思い通りに表現できたときの充実感や達成感も。それこそ文字にするのはとても難しいけれど、大きな喜びであり楽しみであることは、同じようにここで書くことに携わっている方々には少しは共感して頂けるのではないだろうか。
この映画を観るにあたり、まずは原作を読んでみることにした。というのは、この映画を観た人たちのレビューで読んだ「3回観てやっと理解できた」「三つの物語が複雑に絡まりあっている」「まずは原作となった短編小説を読んでいくことを勧める」といった声が気になり、理解しにくい内容をモヤモヤしながら3時間かけて観るということの不安と、私自身がこの映画を深く理解し、楽しみたいという願望からだ。残念ながら3時間の映画を3回観るほど私は体力的に若くないし、時間もない。現金な理由だが、前評判の高い複雑な作品を、一回で存分に味わいたいという理由からだった。
映画の物語に出てくる舞台劇、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」も先に読んでおいた方がいいという意見もあり、これはかなり難解な映画だと想像がついた。
村上春樹の短編集「女のいない男たち」の中の三つの物語が絡まりあっているというのは正にそうで、それは「ドライブ・マイ・カー」「シェエラザード」「木野」の三作品だ。それらは主人公の家福(かふく)という役者であり演出家の男と、脚本家である妻の音(おと)という女の二人の現実の生活であり、セックスのあとに音が語り出す物語であり、家福の心理描写であり、音の心の闇でもある。至るところに散りばめられたそれら三つの物語たちが、劇中に出てくる家福演じる舞台劇「ワーニャ伯父さん」の多国籍言語の芝居とも重なりあい、象徴的に表現され、見事なシナリオとなって構成されている。なるほど、カンヌで「脚本賞」を受賞した意味が重々理解できた。その素晴らしい脚本を味わうだけでも価値ある映画だと腑に落ちた。そういった意味でも、私は原作である「女のいない男たち」の三作品を読んでから観にいくことをお勧めする。
家福と音の二人の生活は静かでとても美しい。まるで凪いだ湖面のようだ。それぞれに仕事を持ち、余裕のある暮らしぶりは誰もが憧れる。しかし、そこには温度がない。アイスグレーのような冷たいモノトーンの、しんと静まり返った洗練された部屋には、いつも静かにアナログレコードのクラシックが低く流れている。小説の中では家福は車の中でいつも聴いているのはベートーヴェンの弦楽四重奏だとある。それは、家福にとっては癒しの音楽であると共に、仕事に集中できるという名目上の理由はあるが、それよりも、見たくない現実から逃避するためには必要不可欠なツールでもあるのだった。
音が書く脚本の芝居に出演する若い俳優と音との浮気現場を、家福はアクシデント的に知ることになる。しかし、家福は現実を見ようとしない。知らないふりをしてやり過ごす。音との日常に流れる美しい上澄み液だけを味わいながら、凪いだ心を装って過ごす。その美しい上澄み液の下に、長年に渡って積み重なってきたヘドロのような澱の塊は、一旦かき混ぜてしまったら視界はゼロになり、目の前にあったはずのいつでも手の届く幸せを一瞬にして見失わせてしまうことを知っている。
知っているからこそ、心に蓋をして知らないふりをする。そうすることで二人の生活を、愛情を、家福は守ってきた。いや、本当は自分一人を守るのに必死だったのだ。しかし音はそんな夫を愛していた。観て見ぬふりをしてやり過ごしている夫。なぜそんなに冷静でいられるの?私はこんなに枯渇しているのに。この苦しみは二人の共通のものであることは間違いない事実だけれど、この苦しみを、この悲しみを、家福にぶつけることができない。一人孤独を抱え、自分の中の「女」を持て余している。どこにこの慟哭を晒せばいいのか。
音は全てを曝け出せば壊れてしまうことを知っていた。知っていたからこそ、全てを明らかにする必要があることもわかっていた。本当はそうしたいと願っていた。それは時間の問題だった。
だが家福は逃げた。逃げることで守りたかったものは、逃げることで取り返しのつかない現実を招くことになる。それは突然の音の死により、失って初めてその大切さに気づくのだが、もう取り戻すことはできない。全ては心の奥深く、澱のように沈殿したまま、時は流れる。
みさきというドライバーとの出会いは、家福にとって人生を大きく変える。プロとしての仕事を淡々とこなし、余計な口を一切きかないみさきに、家福は少しずつ心を寄せていく。生きていればみさきと同い年だったはずの亡き娘への慕情は、二人の間に独特の安らぎにも似た空気感を育んでいく。みさきの、いつも冷静で凪いだ心の奥底にある悲しみや孤独に、家福は自分と同じ匂いを感じ取っていた。そしてみさきもまた、家福の中の闇を自分のそれと重ね合わせていた。必要最小限の言葉で通じ合う何かをお互いに感じ取っていたのだろう。私にはそんな風に思えてならなかった。
音の突然の死から2年後、妻の浮気相手だった若い俳優を、自分の演出する舞台に起用した家福の心情を思うといたたまれない気持ちになった。それは、今は亡き妻と正面から向き合えなかった弱い自分への後悔がそうさせたのかもしれないし、妻の中の悲しみも含めて、今更ながらその心情を少しでも理解したかったからかもしれない。過去に自分の目の前で裸で抱き合う二人の姿を目の当たりにした時には言えなかった後悔が、今になって押し寄せてくる。高槻はいったい妻の何を知っていたのか。そこには長年連れ添った夫である自分には見せなかった妻のもうひとつの顔があったのではないか。知るのは怖い。でももう音本人の口から本当の気持ちを聞くことは不可能となった今、高槻からの言葉を引き出すしか術はない。知りたくなんかない。しかし、ずっと蓋をしてきたパンドラの箱を開けてしまったのは他でもない、高槻の涙ながらの、訴えにも似た迸る激情を伴った鋭い言葉たちだった。高槻は音の中にある痛みを共有していた。高槻との情事のあと、ベッドで聞かせてもらった音の物語には、家福の知らない続きがあったのだ。それを高槻の口から聞かされた家福の心情は……。表情ひとつ変えず、しかしその心中はヘドロをかき混ぜてしまった泥水の中を、もがきのたうち回るほどの苦しみだったに違いないと想像する。驚き、怒り、憤り、悲しみ……複雑な感情を顔色ひとつ変えずにただ静かに前を見据えて聞いている家福。高槻との感情の対比が胸を打つ。
車内で高槻の言葉を一緒に聴いていたみさきは、その言葉には嘘はなかったと言い放つ。そこでようやく家福は自分の心と向き合う決心をするのだ。それまでは移動中はずっと後部座席のシートに座っていた家福は、みさきの運転する隣の助手席へと位置を変える。家福の決意が表れた瞬間だった。
表面上はクールな演出家を装うが、舞台でワーニャを演じることができなくなるほどに苦しんでいた家福。あまりにもリアルにリンクするワーニャの心情を舞台の上で演じ切るには、ずっと避けてきた自分との対峙が必要不可欠なことだとようやく悟る。そこを乗り越えなければワーニャを演じることはとてもじゃないができない。今回の舞台でワーニャを演じる高槻が暴力事件を起こし、舞台を降板することになった今、自分がワーニャを演じるか、それとも公演を中止するか。選択を迫られた家福はその答えを探す旅へと、みさきと共に出発する。
音と、そして自分自身と向き合うことを避け、澄んだ美しい上澄み液だけを味わう人生を送ることに何の違和感もなかった日々には、いずれ必ずや限界が来ただろう。もしも音が浮気をしなくても、もしも音が突然死をしなくても、きっとパンドラの箱はいつの日か開いていたに違いない。平穏な日常の中に沈殿し、隠されたヘドロの澱は、きっと人間誰しも心の奥底にあるのかもしれない。そっとしておけば美しいままに演じ切ることができる人生を、果たして掻き回す勇気を出すことができるか。その作業は苦しく辛く悲しいけれど、その先にしか本当の姿で自分の人生を歩むことは不可能なのだとしたら。
人生は答えのない旅。その行き先は何処なのか。天国なのか地獄なのか、到達できるかどうかわからないまま、どこまでも続く道を運転し続けるロードムービーのようなものだけれど、運転するのはドライバーでも、目的地を決めるのは自分自身。移動する箱の中に目を瞑って座っているだけでは、いつまでたっても何処へも到達はできないのだ。
誰の心にもある深く埋もれたそれぞれの痛み、苦しみ、悲しみ。それをしっかりと見つめ、曝け出すことによって今の幸せが崩壊するかもしれないと恐れながら、隠し続けてうわべでは良好な関係性を保つ美しい暮らしは果たして自分が本当に望むものなのか。自分の心に蓋をして、気づかないふりをして保ち続けるその先に待ち受けることは何か。自分の心を一番理解しているのは自分だという自負はいつか自らの足元をすくう。本当の自分の心と向き合うことは大きな痛みを伴うけれど、現実と真っ正面から向き合い、埋もれた感情を掘り起こし、声に出すことで爆発させ、言葉にして身体の外側へと曝け出すことができて初めて、人はようやく心からの笑顔を取り戻すことができるのかもしれない。
みさきの故郷である北海道のかの地でようやく心の叫びを表に出すことができた家福。それはそこに到達する途中、車中でみさきの過去の過ちの告白を聞いたからかもしれない。しかしそれは彼女の過ちではないと諭し、二人はお互いの奥深くに沈殿していた苦しみをその地で解き放つ。ようやく自分に向き合うことができた家福。ようやく自分を赦すことができたみさき。家福の心の叫びを聞いたみさきは、思わず家福を抱き締める。そしてそれはこれまで苦しみ続けてきた自分自身を抱き締めることでもあるのだった。
起きたことには理由があり、取り戻すことのできない過去はあるけれど、受け止める勇気を持ち、しっかりと見つめることで少しずつ自分という存在を理解してゆく。それこそが人生であり、自分の人生のハンドルを握るということなのかもしれない。
ラストシーンをどのように解釈するかで少し悩んだ。色んな受け止め方があっていいのだと思う。異国の地に渡り、スーパーマーケットでたくさんの買い物をし、家福の赤いサーブに乗り込むみさき。心を通わせるワンコとの暮らしを穏やかな心で謳歌しているように見えるみさきは、マスクを外すとそれまで見たことのない穏やかな表情をしている。希望に満ち、今を生きるエネルギーが溢れているように見えた。
『ただ、終わるまで生きていきましょう。あちらの世界にいったとき「苦しかった、悲しかった」と言って、神様によくやったねと慰めてもらいましょう。それまではただ前を向いて、生きていきましょう』
手話で終わる台詞。役者たちがそれぞれの母語でそれぞれの感情を曝け出して演じきることができたとき、ようやく家福の舞台劇は完成する。
私はこの映画に出てくる人たち全てに感情移入し、全ての人たちになった。
家福になり、音になり、高槻になり、みさきになった。
それは私の中に、過去にあった確かな感情だった。
それらを思い出したとき、誰のことも責める気にはなれなかったし、誰のことも抱きしめたくなった。
人は皆、見つめなければならないことがある。声に出さなければならないことがある。しかしそのことに気づけない人もいる。気づいた人は幸福なのか?気づけなかった人は不幸なのか?その答えは分からない。どの道を選ぶかは自由だし、どれも正解であり、どれも間違いなのかもしれない。
しかし、気づいてしまったら、そこから後ろへは進めない。覚悟を決めて前に向かって進んだ人だけが、自分なりの正解を見つけ出すことができるのだと、私は思う。
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*これはあくまでも私個人の感想であり、間違った解釈もあると思います。
一個人の感想文として、どうぞご笑納ください。