コルトレーンの囁き Vol.8
『 クレマチスの我欲 』
「 とにかく、奥へどうぞ 」
ヨーコは落ち着いて話さなければと思い、ミサエをギャラリーの奥の商談室へと案内した。店内の照明にミサエの若草色のスーツが美しく浮かび上がる。麻のツイードかと思ったが、よく見るとシルク糸やラメ糸が細かく織り込まれて、ライトに当たってキラキラと煌めいている。艶やかなマロンブラウンの髪とのコントラストが華やかで、まるで花のような人だ、と思った。
つい今朝方、客用の茶器をクレマチスの夏柄に変えておいて良かったと安堵しながら適温に入れた煎茶をミサエに勧める。伊万里の器に視線を落としたまま、ミサエは静かに語り始めた。
「 何故あの子がうちを出ていってしまったのか、私にはさっぱり分かりません。会社を辞めて音楽の道に進みたいと言ったときは猛反対しました。でも、それは親として当然のことだと思うのです。あの子の将来を考えると何故今さら、しかもジャズなんて…… 」
ヨーコは黙って耳を傾ける。
ふと思い付いたように顔を上げて、向かいに座るヨーコを見定めるようにして質問した。
「 あなた、結婚なさってたことがあるんですってね。お子さんは? 」
「 いえ、おりません 」
「 そう、なら仕方ないわね。お分かりにならなくても 」
茶器に描かれたクレマチスと同じ色の薄紫に彩られた美しいネイルの指が、無理に抑えた感情を表すように小さく震えている。お茶をひと口飲んで、ミサエは再び手元に視線を落として話を続けた。
「 親なら誰だって子供の幸せを願うのは当たり前でしょう? 私は間違ってないと思うんです。ユウリは子供の頃から素直で優しい子でした 。それなのに…… 裏切られたんです。あの子は父親のことをずっと恨んでると思ってたのに…… 私の味方だと、ずっと信じてたのに 」
父親を恨んでいたのはユウリからも聞いていた。しかしミサエの言う “ 裏切り” の意味が分からない。父親の浮気に苦しめられ続けた母親を裏切ったとは一体……
「 それはどういう意味なんでしょう。ユウリくんがお母様のことを裏切ったなんて 」
「 ええ、裏切られましたよ。音楽のこともそうですけれど、あの子、父親のことを『 大好きだったのに 』って言ったんです 。私たち夫婦はずっとうまくいっていませんでした。私は、せめてユウリが就職するまではと耐え続けたんです。片親になると受験や就活に影響しますからね。だから、ユウリが就職したのを機にやっと離婚できると思っていました。それなのに勝手に仕事を辞めて、今さら音楽の学校に入り直すだなんて 」
「 ユウリくんはどうしても自分の音楽をやりたいと、ジャズを基礎から学びたいと言っていました。自分のためにもう一度ピアノを弾きたいと 」
「 分かりませんわ、そんなこと。クラシックならともかく、ジャズなんて。そんなもの、将来何の役に立つというんですか? それで食べていける保証なんてどこにもないわ 」
「 確かに仰る通りです。音楽で身を立てるのはとても難しいことだと思います。ただ、ユウリくんには自分の意思で自分の人生を歩みたいという強い願望があるように思います。今まではお母様のためにピアノを弾いてきた。でもこれからは、自分のために弾きたいと言っていました。そして自分の中に培ってきた音楽の枠組みを外してみたら、これまで閉じ込めていた感情をジャズという世界が解放してくれたんだと。ジャズという音楽を表現する上でまた一から学び直すことは、今までできなかった “自分の人生を自分の意思で生き直す” ことなのだと思うんです 」
ヨーコはユウリのことを語りながら、まるで自分のことを話しているようだと思った。ユウリの心を代弁しているようで、これは自分の心の叫びなんだと確信した。そして経験した者にしか分からない感情が、過去の記憶と共に心の奥底から湧き出てくるのを抑えることができなかった。
ヨーコはいつの間にか涙を流していた。それはユウリのためではなく、自分のための涙だった。これまで誰にも話したことがなかった積年の思いを込めて語るうちに、過去から次々と打ち寄せる黒い記憶の波に飲み込まれそうになった。揺さぶられる感情に必死で耐えていると、知らぬ間にその思いは頬を伝う涙となって溢れ出していた。
ヨーコの涙を呆然と見つめていたミサエは、気を取り直すように強い口調で断言した。
「 あの子、父親のことを『 大好きだったのに 』って言ったんですよ。『 大好きだったのにいつのまにかいなくなってしまった 』って。そんなことってありますか? 母親を裏切った父親を、大好きだったなんて。そんなのあり得ないわ 」
激しい言葉に夫への嫌悪が滲む。ヨーコは身につまされる思いで流れる涙を拭いた。
「 ユウリくんの感情はユウリくんにしか分かりません。それは彼だけのものです。他の誰のものでも、誰かに支配されるものでもありません。ユウリくんのお父様への気持ちは、お母様でさえもコントロールすることはできないのだと思います。そして、彼の気持ちを理解できないことも分かります。それはお母様の感情です。でもそれをユウリくんに強要することはできない、いえ、してはいけないことだと思います 」
なるべく気持ちを押さえるように、ゆっくりと静かに話した。その冷静な態度にミサエはたじろいだ。そしてこれ以上は我慢ができないというように、口惜しげに立ち上がった。
「 とにかく、あなたはユウリとは不釣り合いだわ。ご自分が一番分かってらっしゃるでしょうけれどね。ユウリはあなたと一緒になりたいと言ってますけれど、私は許しませんから 」
「 私はユウリくんとの将来は考えていません。ご安心ください。ただ、彼の力になりたいと思っただけです 」
「 そうですか。なら安心だわ。でもね、あなたのような人が側にいたら、あの子は益々依存するだけだと思います。二十五だと言っても中身は子供ですからね。くれぐれも、あなたには大人の認識をもって接して頂きたいですわ 」
「 わかりました。そういたします 」
ミサエが出ていったあと、全身の力が抜けたようになって、ヨーコはひとり、ユウリのことを考え続けていた。茶器についた赤い口紅の跡が、まるでミサエの意思のように強く主張している。母親とはきっとそういうものなのだろう。いくつになっても子供のことが心配なのはよくわかる。まるでミサエはユウリのことを自分の唯一のアイデンティティだと思い込んでいるように思える。それは他人が是非を判断できる問題ではない。母親にとって子供は我が身の一部のような感覚なのかもしれない。ミサエはきっと、自分の人生をユウリに託し、もう一度やり直したいのではないかと想像してみる。もう一度、理想の人生を最初から生き直すために。
それはある意味、自分と同じだとヨーコは気がつく。離婚して自由の身になった今、もう一度自分の人生を思うように生き直したい。本音を言えば、ユウリと一緒にやり直したい。なんて傲慢なんだろう。それでは自分のことしか考えていないではないか。自分さえ幸せになれればいいのか。それは本当にユウリにとって最善なのか。ミサエを苦しめることにはならないのか。自分の幸せと引き換えに、もしも誰かが不幸になるとしたら……
考えれば考えるほど、答えは出ない。自分の中に渦巻く我欲と理性という対極の感情が、激しくせめぎ合いながらヨーコを飲み込んでいった。
・・・・・・・・
今年の梅雨は長引きそうだ。一週間先まで天気予報は全て雨マークが並んでいる。
あれから、いろんな理由を並べてはユウリを避けていた。ある時は体調が優れないと。ある時は今から出掛けると。ベルが鳴っても居留守を使う事もあった。
ヨーコはあの時言われたミサエの言葉を頭の中で幾度となく繰り返していた。
「 あなたはユウリとは不釣り合いだわ 」
それはミサエが言った通り自分が一番よく分かっていた。このままユウリと顔を合わせなければ、もしかしたら自然にユウリの心も離れていくかもしれない。そしてまた元の生活に戻れば何事もなかったようにひとりの暮らしに慣れていくだろう。だれも傷つかない、傷つけたくない。そして自分自身も、もうこれ以上傷つきたくはなかった。
夜の帳が降りて、外の静けさが孤独を際立たせる。今夜のコルトレーンは少し強引に心を煽る。できればもっと穏やかな曲調がいい。ボリュームを落とそうと手を伸ばした時、ドアを叩く音が響いた。
「 はい… 」
「 開けて 」
ドアフォンから懐かしい声が耳元に響く。
ユウリがすぐそこにいる。そう思っただけで身体が熱くなるのを感じる。
でも……
「 ごめんなさい、ちょっと風邪気味なの。移すと悪いから…… 」
「 平気だよ。もう十日も会ってくれないじゃない。顔を見せて。もうこれ以上我慢できない 」
少し悩んだ。切羽詰まったユウリの様子が手に取るように伝わってくる。ヨーコは観念して目を閉じ、ゆっくりと深呼吸した。
このドアを開けると、その先は自分を抑える自信がない。引き返すなら今しかない。さあどうする?今さらユウリに会う前の自分に戻れるのか。ユウリのいない世界で生きていけるのか。どうしたい?何が欲しい?今この決断を誤ると、また以前と同じことを繰り返す人生が待っているのだ……
ヨーコは自分の心に問いかける。もう二度と後悔はしたくない。自分の人生を生きると決めたのだ。
心のままに。魂の求める方向へ。
意を決して静かにドアを開けると、目を潤ませた悲壮な表情のユウリが立っていた。
「 なぜ?」
震える声でユウリは訴えた。
「 ごめんなさい。私も…… 苦しいのよ 」
ユウリはそれ以上何も言わず、ヨーコを優しく包み込むように抱きしめた。
お日さまの匂いがする。ユウリの胸に顔を埋めて深く息を吸い込んだ。
この安心感、この温もり。たった十日間離れていただけなのに、こんなにも懐かしく、愛しい。十三も年下なのにやはりユウリは男なのだった。その逞しい腕にすっぽりと包まれていると全てを預けてしまいたくなる。ヨーコは改めて、こんなにもユウリを愛していると思い知らされるのだった。
ー 続く ー
*この物語はマガジンにまとめています。一話から十話まで全てお読みいただけます。