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椅子が好き 6/8 イタリアモダンの椅子

世界の近代名作椅子を訪ねて   長尾重武
椅子は小さな建築である。これまで、すでに出版したものについて論じてきたが、今回は、まだ出版前の構想に基づいて書いている。「椅子が好き」は モダン名作椅子を巡る旅である。近代運動やアヴァンギャルドが生み出した20世紀の椅子を、時代別、国別に展開する。(写真は武蔵野美術大学美術館・図書館蔵)
 
イタリアモダンの椅子

 イタリアモダンの椅子と言えば、まず第一に想いうかべるのは、その大胆なデザインと緻密な細部の扱いだろうか。その解放的な佇まいが好ましい。
 その出発点に位置するのが、ジュゼッペ・テラーニ(1904-43)の「フォリア」1934-36であろう。それはテラーニ30歳頃の作品で、コモのカーサ・デル・ファッショを完成する時期であった。建築のモダニズム、インターナショナルスタイルをいち早くイタリアに取り入れ、普及させることを望んだテラーニは、ミラノ工科大学卒業の仲間たちと合理主義建築を標榜するグループ「グルッポ7」を結成して活躍した。有力メンバーにアダルベルト・リベラがいる。

 この「フォリア」もまた彼の建築思想を端的に表した椅子と云ってよく、単純な四本足の座面から背もたれを支える金属板が上に伸び、座面と同じ幅の背もたれが、ばねのように力を受ける仕掛けになってる。
 未来派のアントニオ・サンテリア(1888-1916)もまたコモ出身、ミラノ工科大学卒業で、活躍したのも都市コモであり、「新都市」(1914年発表)し、未来派に加わり、「未来派宣言」を著した。サンテリアはテラーニが尊敬した先輩建築家で彼を高く評価していた。サンテリアの名を作品名としていることにそれは表れている。
1935-36年デザインの「ラリアナ・チェア」に続いて、1936年には、「サンテリア・チェア」をデザインしたが、この二つとも、カンティレバー椅子であることに注目したい。ずれも座から背もたれまで、いわば一筆書きに連なっている。フォリアから発展させたことが明らかであり、先述のドイツ工作連盟の試みとは一線を画している。

ジオ・ポンティ(Gio Ponti 1891-1979)
ミラノ工科大学で建築を学び、1921年に卒業。当初はリチャード・ジノリの陶磁器デザイナーとなり、建築も手がけた。1928年、権威あるデザイン雑誌「ドムス」を創刊し、1925年から1979年までモンツァ・ビエンナーレのディレクターを務めた。1936年から1961年までミラノ工科大学で教鞭をとる。1950年代には、ピエロ・フォルナセッティと共同で家具やインテリアのデザインを手がけた。1979年に亡くなるまで、「Domus 」や 「Casabella 」に定期的に寄稿していた。

ジオ・ポンティ「スーパーレッジェーラ」1955-57

アキッレ、ジャコモ・カスティリオーニは二人の兄弟デザイナーである。彼らは椅子からテーブル、照明器具など多彩なデザインで有名だが、ここでは、レデイメイド・デザインの二つの傑作を取り上げよう。トラクターの座席と自転車の座席を利用。
アキッレ・カスティリオーニ
(Achile Castiglione 1918)ミラノに生まれ、ミラノ工科大学で学ぶ。1944年、1952年に脱退したリヴィオとピエール・ジャコモの兄弟とともに、コモにデザイン事務所を設立。1956年、イタリア・デザイン協会の創設者となる。1957年、兄弟はコモのオルモ・ヴィラで 「Forme e Colori nella Casa d'Oggi 」と題した展覧会を開催し、大きな影響力を持つ 「ready-made 」のデザインを取り入れた。1969年以来、トリノ工科大学で工業デザインを教え、1947年以来、ミラノ・トリエンナーレには毎回出展している。コンパス・ソ・ドーロ賞を7度受賞し、イタリアA.D.I.賞の創設にも深く関わっている。
ピエル・ジャコモ・カスティリオーニ (Pier Giacomo Castiglione
1913-88)ジャコモ・カスティリオーニはミラノに生まれ、同地のポリテクニックで学び、博士号を取得。1945年、弟のルと3nオフィスを設立し、照明のほか、家具や技術設備も手掛けた。彼らの有名な「フォノラ」ラジオは1938年にデザインされた。ピエール・オモとアキッレ・カスティリオーニは、家具と工業デザインに大きく貢献し、国際的な称賛を得た。

アキッレ、ジャコモ・カスティリオーニ「メッツァドロ」スツール1970
アキッレ、ジャコモ・カスティリオーニ「セラ」スツール1970

ヴィコ・マジストレッティ(Vico Magistretti 1920-)
ミラノ生まれ。ミラノ工科大学で建築を学び、1945年に卒業。1946年以降、カッシーナ、オー・ルーチェ、アルテミデ、クノール・インターナショナル、オリベッティなどで独立。1960年と1964年のミラノ・トリエンナーレ、1959年と1960年のコンパッソ・ドーロ賞の委員を務める。1980年からはロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートの客員講師を務める。1948年と1954年のミラノ・トリエンナーレで2つのグランプリとゴールドメダル、1967年と1969年のコンパッソ・ドーロ賞など、キャリアを通じて数々の賞を受賞。

ヴィコ・マジストレッティ「セレーネ」1968

ジョエ・コロンボ(Joe Colonbo 1930-71)
ミラノ生まれ。ブレラ・アカデミーで画家としての訓練を受けた後、ミラノ工科大学で建築を学ぶ。1951年から1955年まで、画家、彫刻家として独立し、ヌクレアム・ペインティング・ムーブメントを立ち上げ、後にアート・コンクリート・グループの創設メンバーとなる。1962年にデザイン事務所を開設し、カルテル、オー・ルーチェ、コンフォート、バイエルなどのデザインに携わる。1970年、ピエール・ポーラン、柳宗理と共同で『新しい形の家具』を出版: 日本」を共同執筆。

ジョエ・コロンボ「コロンボチェア」1965

高浜 和秀(Kazuhide Takahama 1930-) 
1963年よりボローニャ在住。1954年の第10回ミラノ・トリエンナーレでディノ・ガヴィーナと出会う。その後、ガヴィーナからモジュラーソファのデザインを依頼される。最初にデザインされたのは苗子ソファだったが、後に発表されたマルセル、レイモンド、スザンヌのソファはさらに成功を収めた。

高浜 和秀「ツル」1968

マリオ・ベリーニ(Mario Bellini 1935-)
ミラノ生まれ。ミラノ工科大学で建築を学び、1959年に卒業。1961年から1963年まで、影響力のある百貨店チェーン、ラ・リナシェンテのデザイン・ディレクターを務める。1963年、マルコ・ロマーノとともに建築事務所を設立し、1973年、ミラノにスタジオ・ベリーニを設立。1963年からはオリベッティのチーフ・デザイン・コンサルタント、1978年からはルノーのリサーチ・デザイン・コンサルタントを務める。1962年から1965年にかけては、ベネチアの工業デザイン専門学校でデザインの教授を務め、それ以降はロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートをはじめ、多くのデザイン専門学校で客員講師を務めている。数々の賞を受賞。
Compassi d'Oroを含む数々の賞を受賞。

マリオ・ベリーニ「サイドチェアNo.412」1972

若者を中心とし、社会的に解放された市場をターゲットにした椅子は、もはや家庭用の耐久性のある製品としてではなく、ファッションという刹那的なデマンドに左右されるライフスタイルのアクセサリーとして捉えられた。このアプローチは、1967年にスコラーリ、ドゥルビーノ、ロマッツィ、デ・パスによってデザインされたインフレータブル・ブローチェア、1968年にガッティ、パオリーニ、テオドーロによってデザインされた「サッコ・ビーンバッグ」、1969年にガエタノ・ペッシェによってデザインされた真空パックの「アップ・シリーズ」など、斬新なシーティング・フォーマットの発表を通じてイタリアで活用された。これらの画期的なイノベーションは、「フラット・パック」「ノック・ダウン」の家具が手に入るようになったことと相まって、購入行為を大幅に簡素化し、文字通り棚から椅子を買うことができるようになった。
 
イタリアでは、家具メーカー各社は、すでに市場内で突出した地位を維持するためには、より多くの資金を投入して研究開発プロジェクトを加速させるしかないことに気づいた。カッシーナ、ザノッタ、ポルトローノヴァ、アルテミデといった家具メーカーが、新しいシーティングの形を創造する目的で「コンセプト・ファクトリー」を設立した。技術的な新しさを追求した結果、特に射出成型プラスチックの分野で大きな進歩がもたらされた。1963年にポリプロピレン、1967年にABSといった熱可塑性プラスチックが家具製造に初めて採用され、モダン家具のメーカーに新たな可能性の世界が開かれた。この時期ヴィコ・マジストレッティ、マルコ・ザヌーソ、ジョエ・コロンボといったデザイナーたちは、洗練されたモダンチェアのデザインを通じて、プラスチックの素材としての品質と高級感を確立した。しかし、決定的な一枚板の構造を実現した最初の椅子は、皮肉にも北欧出身のヴァーナー・パントンがデザインしたものだった。1960年に発表した片持ち梁のスタッキングチェアは、1968年まで完全に製造されることはなかったが、パントンはエーロ・サーリネンが抱いていたトータル・デザイン・ユニットという実現不可能な野望を達成した。

しかし、1970年代の家具業界には保守主義が蔓延していたため、イタリアではユートピアを志向する先鋭的なデザイングループが登場した。Global Tools、Super- studio、Archizoom、Gruppo Strumはいずれもモダニズムの前提に疑問を投げかけ、自発的な創造性と哲学的多元主義に基づくデザイン様式を示した。彼らのデザインの "投影 "は、経済的な制約によって固定化された主流を覆す手段であった。

知的無関心 こうしたカウンター・デザイン・グループは、モダン・デザインの議論を活発にし、1976年のスタジオ・アルキミア設立への道を開いた。アレッサンドロ・メンディーニは、アートとデザインの区別に異議を唱え、大きな影響力を持ったこのデザイングループの代表的なプロパガンディストだった。ジョエ・コロンボの4867チェアに大理石風仕上げを施した「リデザイン」や、ジオ・ポンティのスーパーレッジェーラにヨットのエンブレムをつけた「リデザイン」は、グッドデザインの気取りをあざ笑った。スタジオ・アルキミアは、椅子の物理的な機能性よりも、社会的、政治的なコメントをこれらのデザインに吹き込み、椅子を意図的に象徴的なオブジェへと変貌させた。あからさまに反商業的で、自意識過剰なまでに知的な内容を持つスタジオ・アルキミアは、装飾的な装飾を駆使して、モダニズムの終焉を告げた。

ガエタノ・ペシェ(Gaetano Pesce 1939-)
1959年から1965年までヴェネツィア大学で建築を学び、1961年から1965年までヴェネツィアのインダストリアル・デザイン研究所で研修。以来、フリーランスのデザイナー、アーティスト、映画製作者として活躍。彼の家具デザインは、素材や製造方法において常に革新的である。下の作品は同じ素材の球のオットマンと対である。

ガエタノ・ペシェ「アップ5(女性)」1969

デ・パス、ドゥルビーノ、ロマッツィ(De Pas、D‘Urbino、Lomazzi、Scorali)
ジョナサン・デ・パス、ドナート・ダルビーノ、パオロ・ロマッツィ、カルラ・スコラーリによって1966年にミラノで設立されたデザイン事務所。彼らはいずれも1930年代生まれで、ミラノ工科大学で学んだ。彼らは1960年代から1970年代にかけて、ブローチェアーや後のジョーチェアで高い評価を得た。1970年代、彼らはフレキシブルで、交換可能で、適応性のある家具のデザインに力を注いだ。ドリアデ、BBBボナチーナ、パリナ、ザノッタ、ポルトロノヴァなどの家具をデザイン。

ガッティ、パオローニ&テオドロ(Gatti Paolloni & Teodoro )
イタリアのデザイナー、ピエロ・ガッティ(※1940)、チェーザレ・パオリーニ(1937-83)、フランコ・テオドーロ(※1939)のトリオは、1965年以来、建築、都市計画、製品開発、写真、グラフィックの分野で活躍している。1969年、ガッティ、パオリーニ、テオドーロの3人は、数々の賞を受賞した「サッコ」をデザイン。ポリエステルの粒が詰まったバッグのような革製シートで、身体にぴったりとフィットする。デザイナー・トリオは、国内外で数多くの見本市、コンペティション、展示会に参加した。

ガッティ、パオローニ&テオドロ「サッコ・チェア」1968

アレッサンドロ・メンディーニ (Alessandro Mendini 1931ー)
ミラノ生まれ。1970年までニッツォーリ・アソシエイティに勤務。1970年から1976年まで『Casabella』の編集長を務め、雑誌『Modo』を創刊。1973年、カウンター・アーキテクチャーとデザインの学校Global Toolsの創立メンバーとなる。1970年代後半には、スタジオ・アルキミアのプリマ・デザイナーを務める。1979年、『ドムス』の編集者となり、同年コンパッソ・ドーロ賞を受賞。1983年からは、ウィーンのHochschule für Angewandte Kunstでデザイン講師を務める。「プルーストチェア」1978

アフラ&トビア・スカルパ(Afra&Tobia・Scarpa)
アフラ・ビアンチンは1937年にモンテベッルーナで、トビア・スカルパは1935年にヴェネチアで生まれた。ヴェネツィア建築大学を卒業した彼らは、後にその名を知られることとなるデザインチームを組んだ。

1958年には、ガラスで有名なムラーノ島のヴェニーニ社の工房で制作を始め、1960年にガヴィーナ社とソファ「バスチアーノ」や金属製のベッド「ヴァネッサ」を開発した。これらは彼らの作品で最も成功を収め、現在ではノル・インターナショナル・コレクションの一部となっている。また、カッシーナ社では、住宅用の家具のデザインを行い、アームチェアの「ソリアナ」が1970年にコンパッソ・ドーロ賞を受賞、またアームチェアの「925」がニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションに選定された。

1960年、カスティリオーニ兄弟と共にデザイナーとして照明器具メーカーであるフロス社に参加した。彼らのB&Bの作品の中で最も知られているのは、「コロナド」と「エラスモ」の二つ。「トルチェッロ」システムは、現在でも市場に流通している。彼らがデザインしたプロダクトは世界の主要な美術館に展示されており、あらゆる大規模な国際的展示会でも選ばれている。

アフラ&トビア スカルパ 「ディアゴロ」1966

フランカ・スタージ(Franca Stagi 1937-)
ミラノ工科大学で建築を学び、1962年に卒業。同年、モデナのデザイナー、チェーザレ・レオナルディとのコラボレーションが始まる。1968年と1969年にはミラノ家具見本市で、1970年にはロンドンの 「Design for Living, Italian Style 」展で家具を発表。「リボンチェア」1961

フランカ・スタージ「リボンチェア」1961

ジャンカルロ・ピレッティ(Giancalo Piretti 1940-)
1940年イタリア、ボローニャ生まれ。ボローニャの美術アカデミー卒業後、カステッリ社のデザイナーとして勤務。1970年代後半からエミリオ・アンバースと人間工学に基づいた椅子「バーテブラ」、「ドーサル」を共同制作し、これらのデザインはそれぞれコンパッソ・ドーロ賞とインダストリアルデザイン賞を受賞。代表作である「プリア」はニューヨーク近代美術館のコレクションにもなり、20世紀の折りたたみ椅子の名品と称され、今なお世界中で愛され続けている。

ジャンカルロ・ピレッティ「プリア」1968

エットレ・ソットサス(Ettore Sottsaas 1917-)は1960年代末からはラディカルデザイン運動に傾倒し、1981年には、デザイングループ「メンフィス」を創設、現代の国際的なデザインの最前線において、最も影響力のある人物の一人である。

1917年オーストリア、インスブルグ生まれ。トリノ工科大学卒業。1958年にオリベッティ社のデザインコンサルタントに就任。最初のコンピュータ「エリア9003」のデザインに関わり1959年コンパッソ・ドーロ受賞。1964年にはタイプライター「ヴァレンタイン」をデザインし、1969年ゴールデン・デルタ賞が贈られる。

エットレ・ソットサス「シンセシス45」1971

1981年に設立されたソットサスのメンフィス・デサイン・スタジオは、装飾芸術におけるポスト・モダニズムの推進において中心的な存在であった。反デザインのパラダイムであるスタジオ・アルキミアのもとで、メンフィスはデザインやキュアの通念に反する家具を制作した。
一貫したイデオロギーの宣伝のためではなく、装飾のために。メンフィスは、それまでのスタイルから装飾を引用することで、アンチ・デザインの普及に成功し、家具業界の主流に受け入れられた。

「メンフィス」にはミケーレ・デ・ルッキほかイタリア人が中心だが、日本から、磯崎新、梅田正徳らが加わっている。

メンフィスデザインを集めたインテリア
引用元:ARTnews

メンフィスの特徴として、幾何学的な図形、ラインや波線が多用されていること、またビビッドな配色になっていることが挙げられる。形、色、要素の数が多いので、賑やかで楽しい印象を与えるデザインになる傾向がある。機能性とは相反するような、装飾的なデザインが特徴。

ミケーレ・デ・ルッキ(Michele de Lucchi 1951)
イタイリア、フェラーラ生れ、フィレンツェ大学建築学科卒業。スタジジオ・アルキミアを経て、81年、ソットサスとともにメンフィスを結成、85年には代表作ファーストを発表。84年自身のスタジオ設立後も、多様な活動をしている。メンフィスが使用するプラスチックラミネートに幾何学的モチーフを取り入れた。1979年、イタリアのイヴレアにあるオリベッティ社のコンサルタントに任命される。現在はプロダクトデザインに専念している。
ファースト椅子」1983

ミケーレ・デ・ルッキ「ファースト椅子」1983
『ストーリーのある50の名作椅子案内』2017 より


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