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椅子が好き 8 /8 日本モダンの椅子

世界の近代名作椅子を訪ねて   長尾重武
椅子は小さな建築である。これまで、すでに出版したものについて論じてきたが、今回は、まだ出版前の構想に基づいて書いている。「椅子が好き」は モダン名作椅子を巡る旅である。近代運動やアヴァンギャルドが生み出した20世紀の椅子を、時代別、国別に展開する。(写真は武蔵野美術大学美術館・図書館蔵)

日本のモダン椅子

日本では椅子式の生活が、古代に中国から寺院、宮殿建築の伝来に伴って入ってきた。しかし、平安時代の国風化文化の中で、椅子式ではなく座式の生活に戻り、それが独特の生活文化を生み、それが続いてきた。鎌倉時代に禅宗の伝来によって、再度椅子式の生活が入ってくるが、やはり座式の伝統は強く、禅宗寺院もまた座式へと転換していった。以来、近代になるまで、座式は守られてきた。

地球上では、アラブ世界の生活が座式であるが、それは日本の歴史的展開と全く没交渉に、座式が生まれている。これは興味深いことだ。

明治維新、江戸幕府が滅んで明治時代が始まるが、この時、近代化は西洋化を意味し、椅子式が入ってくる。まず公共建築での立ち居振る舞いが、椅子式になり、支配階級の邸宅が洋風に造られるが、和風の館も同時に作られた。

一般住宅での生活に椅子式が入ってくるのは大戦後ではないだろうか。
したがって、日本の椅子デザインに携わったデザイナーは、1930年代生まれ前後で、大きく二分されると思われる。倉俣史郎が後期の始まりを画するのである。しかし、だからと言って、第一世代のデザインが古く、第二世代のデザインが新しいとは決して言えない。第二世代のデザイナーは、海外でも活躍する人物が出てきて、ますます、国際的になると言いうるかもしれない。

「形而工房」の活動

1928年、東京工業高等学校(現千葉大学)の教員であった蔵田周忠(189-1966)、豊口克平など10名のグループが「形而工房」を立ち上げ、日用品、家具など全般を調査・研究・デザインする活動が開始された。

1928年、東京高等工芸学校(現千葉大学)の教員をしていた建築家の蔵田周忠を中心に、小林登、松本政雄、豊口克平らが参加して結成されたグループが「形而工房」を立ち上げ、日用品、家具など全般を調査・研究・デザインする活動が開始した。蔵田は1931年、ドイツに留学し、ドイツ工作連盟やバウハウスの思想を強く受けており、「形而工房はリアルな大衆生活に結びついて、科学と経済によって吾々の[時代]の生活工芸の研究製作をなすものである。常にそれらは生活事象及材料、構造の調査及研究と、市場とを結び付けた大量生産の具象化を目標とするものである」と述べ、規格化による生産の合理化を目的としたデザインを目ざした。その活動は1940年頃まで続いた。

形而工房アームチェア1934
形而工房サイドチェア1934

豊口克平(1905-91)
秋田市出身。東京高等工芸学校(現千葉大学)卒業後、デザイナー活動を初める。当初は森谷延雄に師事したが、急逝したため蔵田周忠についた。形而工房の活動に参加。大戦後は家具のみならず、航空機のインテリアデザインやカメラ、顕微鏡等の精密機械のデザインに携わり、数多く受賞した。

豊口が開発した椅子は「スポークチェア」と呼ばれ、楕円形の椅子といった斬新な椅子であり、「トヨさんの椅子」と称された。また通産省工業技術院意匠部長や、1967年の退職まで武蔵野美術大学デザイン科主任教授(後に名誉教授)となり、1959年には自身のデザイン研究所を設立。

豊口克平「スポークチェア」1962

ジョウジ・ナカシマ(George Nakashima 1905-1990)
アメリカの家具デザイナー、ワシントン州スポーケン生れ。1925年ワシントン大学林学科入学、建築学に転科、卒業後、ハーバード大学大学院に進み、マサチューセッツ工科大学に移籍。世界の旅に出る。フランク・ロイド・ライトとともに、帝国ホテル建設の際に来日。アントニン・レーモンド事務所入所。同僚に、前川國男、吉村順三がいた。

ジョウジ・ナカシマ「コノイドチェア」1960

戦後日本のデザイン黎明期に、剣持勇・渡邊力・柳宗理・長大作・水之江忠臣らが、日本のデザインの礎を創った。

剣持勇 Isamau Kennmochi 1912-71 日本
インテリアデザイナー。戦後、アメリカを視察し、チャールズ・イームズ夫妻やジョージ・ネルソンらと交流を深める。帰国後、日本独自のモダンデザインを目指すべくジャパニーズモダンを提唱した。代表作のホテルニュージャパンの籐の椅子「ラウンジチェア」は、日本の家具として初めて1964年にMoMa(ニューヨーク近代美術館)のパーマネントコレクションに選定された。

剣持勇 籐の椅子「ラウンジチェア」1960

渡辺力 Riki Watanabe 1911-2013 日本
昭和時代を代表するインテリア・デザイナー、「ジャパニーズデザインのパイオニア」と呼ばれる。「デザイン」という言葉がまだ日本に存在しなかった戦前の1930年代後半から活動し、戦後間もない頃には剣持勇・柳宗理らと共に日本におけるモダン・デザインの礎を創った。

渡辺力「リキロッカーチェア」1984

柳 宗理(Souri Yanagi 1915-2011)
インダストリアルデザイナー、金沢美術工芸大学客員教授。本名、柳 宗理(やなぎ むねみち)。父は民芸運動の指導者で思想家の柳宗悦。戦後日本のインダストリアルデザインの確立と発展における最大の功労者。代表作は「バタフライスツール」。ユニークな形態と意外な実用性を兼ね備えた作品が多く知られた。工業デザインの他に玩具のデザイン、オブジェなども手がけた。

柳宗理「バタフライスツール」1954

新居猛(Takesi Nii 1920-2007) 
インテリアデザイナー。徳島市出身、旧制徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)卒業。デンマークの家具の美しさに影響されたのがきっかけで椅子づくりにのめり込む。1969年、有限会社ニーファニチアを設立し代表取締に就任する。1974年、自身の作品であるニーチェアXがMoMa(ニューヨーク近代美術館)にて永久収蔵が認められた。その後、インテリア・デザイナー協会の名誉会長となる。2007年10月5日、急性敗血症のため死去。彼が残した言葉の中に「心地よく、丈夫で、とことん安く。いわばカレーライスのような椅子をつくりたかった」というのがある。

新居猛「ニーチェアX」1972

長大作(Daisaku Chou 1921-2014)
満洲生まれ。1945年に東京美術学校建築科を卒業し、1947年に坂倉準三建築研究所に入社。1957年の「藤山愛一郎邸」、1958年の「八代目松本幸四郎邸」では、建築の設計から家具のデザインに至るすべてを手がけたという。1960年に「低座イス」を発表して同年グッドデザイン賞受賞。1972年に長大作建築設計室を立ち上げた。

長大作「低座椅子」1960

藤森健次
1919年、東京都生まれ。ヘルシンキ美術大学プロダクトデザイン科卒業後、藤森健次設計事務所を設立。盛岡グランドホテル・インテリア設計及び、座イスを発表。後に金沢美術

藤森健次「座椅子」196

松村勝男(Katuo Matumura 1923-1991)
東京都生まれ。1944年東京美術学校(現東京藝術大学)付属
文部省工芸技術講習所卒業。1946年に吉村順三設計事務所に勤務し、主に家具デザインを担当。1955年には松屋銀座の嘱託となり、グッドデザインコーナーの売場デザインを手掛ける。1958年に松村勝男デザイン室設立。以後、数々の家具デザインを手掛け、日本の家具デザインの草分けの一人とされている。
青年時代より飛騨の家具に強い関心をよせていた松村氏とは、1986年に〈ガマイス〉の製作に取り組んでいる。国産材による作品を多く手掛けるが、あえなく廃番となった名作も多い。飛騨産業では、氏の功績に敬意を表し、1972年に手掛けた脱脂唐松による小椅子を、2009年より圧縮スギにて復刻生産している。

松村勝男「がま椅子」1972

田辺(  Reiko Tanabe 1934-)
田辺 麗子東京都出身のデザイナー。1957年、女子美術大学卒業後、藤森健次事務所に入社。1961年、剣持勇や丹下健三らが審査員を務めた「第1回天童木工家具デザインコンクール」で、3枚の成形合板を金具を使わず組み合わせた「ムライスツール」が入選。「ムライ」とは、田辺の旧姓。天童木工の海外雑誌向け広告の製品としても採用され、ニューヨーク近代美術館(MoMA)のキュレーターの目に止まり、1967年に同美術館の永久収蔵品となる。その後、田辺麗子デザイン事務所を設立し、個人住宅からオフィス、病院に至るまで、建築およびインテリア、家具デザインなど幅広く手掛け、女子美術大学デザイン科教授も務めた。

田辺聖子「ムライスツール」1961

倉俣史郎 Sirou Kuramata 1934-1991 日本
インテリアデザイナーの分野で60年代初めから90年代にかけて世界的に傑出した仕事をしたデザイナー。東京生まれ、1956年桑沢デザイン研究所リビングデザイン科卒業。1957年株式会社三愛入社、店舗設計、ディスプレイなどに従事。1965年、クラマタデザイン事務所設立。高松次郎、横尾忠則らと協力して制作した内装デザインで注目される。

欧米の追随に陥らず日本的な形態に頼るでもなく日本国固有の文化や美意識を感じる独自のデザインによってフランス文化省芸術文化勲章を受章するなど国際的に評価をうけていた。そのあまりの独創性ゆえ「クラマタ・ショック」という言葉まで生まれた。1991年急性心不全のため、56歳で逝去。

ガラスだけで構成した「硝子の椅子」1976
スパンディングメタルの椅子「シング・シング・シング」1985
バラの造花が入った椅子「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」1986
など、いかにもポストモダンの椅子である。

倉俣史郎「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」1986

川上元美 Motomi Kawakami 1940- 日本
東京芸術大学美術学部工芸科(ID専攻)卒業。東京芸術大学院美術研究科(デザイン)修士課程終了。その間、作品集『アンジェロ・マンジャロッティ1955-64』(青銅社)に出会い、強く感銘する。
ENI財団の奨学金を得て1966年に渡伊。1966-69年の間アンジェロ・マンジャロッティ建築設計事務所に在籍。その間にモンツァ家具コンペ銅賞、ジェノヴァ家具展金賞受賞。帰国後、1971年に川上デザインルーム設立。 その後今日迄にデザインの広範囲の分野で作品群を創出し、数多くの賞を受賞する。それらの活動を通して、旭川、高岡、新潟、静岡、神奈川、加賀、山形、徳島、岐阜、宮崎などの地場産業の活性化に貢献。並行して、東京芸術大学、金沢美術工芸大学などで教育活動にも従事すると共に、日本デザイン子ミッティの理事長(2006-2009)、日本デザイン学会の評議員(1995-)を務める。

川上元美「Tune 折り畳みアームチェア」1995

梅田正徳 Masanori Umeda 1941- 日本
神奈川県出身。桑沢デザイン研究所業。1966年渡伊。イタリアのカスティリオーニの事務所に勤務の後、ソットサスの誘いでオリヴェッティの顧問デザイナーに。ソットサスの右腕として活躍した。1979年帰国。主な仕事としてイタリアのメンフィス・エドラの家具のデザイン、山加のコーヒーセット、トマト銀行のインテリアデザイン、INAXのオフィストイレシステム、ヤマギワ・岩崎電気の照明器具、スイススウォッチのアトランタオリンピックのためのモニュメント等。主な受賞にドイツのブラウン大賞、IF賞、日本インテリアデザイナー協会賞、Gマーク公共空間部門大賞、シカゴアセナエム美術館グッドデザイン賞等。現在までにニューヨークのメトロポリタン美術館をはじめ多くの美術館に多数作品が永久コレクションされている。

梅田正徳「月苑(キキョウ)」1990
「日本デザインアーカイブ」より

喜多俊之 Tosiyuki Kita 1942- 日本
大阪生まれ、1969年よりイタリアと日本でデザイン制作活動を始める。海外、日本のメーカーから家電、ロボット、家具、家庭日用品に至るまでのデザインで多くのヒット製品を生む。作品の多くがニューヨーク近代美術館、パリのポンピドゥーセンターなど世界のミュージアムにパーマネント・コレクションされている。また、日本各地の伝統工芸・地場産業の活性化、およびクリエイティブ・プロデューサーとして多方面で活躍する。大阪芸術大学 芸術学部 デザイン学科 教授。2009年より、日本の住まいと暮らしのリノベーションの国際見本市「LIVING & DESIGN」を総合プロデュース。また、リノベーションプロジェクト「RENOVETTA」を提唱。2011年にイタリアの「黄金コンパス賞(国際功労賞)」受賞。2017年イタリア共和国より「功労勲章コンメンダトーレ」を受勲。2018年平成30年度「知財功労賞」において特許庁長官表彰で知財活用企業(意匠)を受賞。

喜多俊之「ウインク」1980

寺原芳彦 Yosihiko Terahara 1943-
1943年、東京都生まれ。武蔵野美術大学名誉教授。チャールズ&レイ・イームズの研究者。インテリア・プロダクトデザイナー。シカゴ美術館付属大学(SAIC)など海外大学交換交流教員・客員教授を歴任。毎日ID賞、JID賞(日本インテリアデザイナー協会賞)など受賞。

子供に愛される「ロボッコ」1982、また「アカフサ」2013、「プロト」1993などに注目。
「チタニウムチェア」などがヴィトラデザインミュージアムに収蔵

寺原芳彦「チタニウムチェア」1987




 


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