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【エッセイチャレンジ13】スポーツマンになりたい
運動音痴歴=年齢
物心ついたときから足が遅かった。5歳の運動会では「あのフォーム、あれで走ってるのか?」と父に冗談混じりに言われたっけ。
足が遅い子が小学校に入ると、教室での立ち位置は大体決まっている。今でいうスクールカースト?あまり好きな言葉じゃないけど、まぁ、言いたいことはわかる。ご想像通りの小学校ライフだ。
運動神経が悪いことを中学までは気にしていたが、高校で吹っ切れた。友達にはいじってもらえるし、むしろ美味しい。
例え記録が悪くても、授業態度は良く、筆記テストもきちんと取り組んでいたから、諸々相殺されて成績ははいつも3。可もなく不可もなく。上等、上等。
そもそも体育の成績なんて、箸が転がるだけで笑える花の乙女たちには一昨日の天気予報くらいどうでもいいことであった。
コンプレックスは尊敬に
運動音痴の苦しみからは10代で解放されたが、スポーツマン(ウーマン?)への憧れは依然として持ち続けた。
街中で颯爽と風を切るランナー、車と並走する勇敢なロードバイカー、公園でウォーキングするおばあちゃんも部活の自主練に励む男子中学生も、私にとってはみんな最高にかっこいい。リスペクトの極み。
だって、わざわざ苦しい思いをするために時間を割くだなんて信じられない。なんてストイック。強靭な身体には、やはり崇高な精神が宿るのだ。度を超えた激辛料理を食べて、ヒーヒーのたうち回りながらうまいうまいと喜ぶ、激辛好き芸能人ばりにありえない。
私って…スポーツマンなの?
ある雨の日、職場の子どもたちが廊下で身体の柔軟性を競う遊びをしていた。外に出れなくて退屈なのであろう、私を見つけるや否や「先生もやってみてよ」と駆け寄って来た。(学級支援員をやっています)
よーし、いくよっ!と宣言し、左足を前にしてペタンと縦180度開脚した。どよめく子どもたち。いつも中休みの鬼ごっこで最初に捕まるおばさん支援員が見せた思わぬ特技に、みんなが動揺していた。
ふふん、実は柔軟性だけは自信があるのだ。
生徒
「えー!すごいすごい!!なんで出来るの!?」
私
「ダンス経験者だからかな?練習すればみんなならすぐ出来るよ。」
生徒
「先生ダンスやってたの?」
私
「うん。今もやってるよ。」
生徒
「今も?すごいね!!」
興奮気味の笑顔を向けられた。その目があまりにもキラキラしていたので、戸惑ってしまった。そんなことないよ…と言いつつ、ふと思ったのだ。
大人になっても何かしらの運動を習うって、結構珍しいことなのかも。子どもたちの素直なリアクションがそう訴えている。
そして、私の頭に浮かんだ疑問。
私って、そもそも運動嫌いなのだろうか?
34年間運動嫌いとして生きていた身としては、この疑問が生じたこと自体が自分のアイデンティティを揺るがす大事件である。
呆然としている私をよそに、子どもたちはもう「指を反対に反らせて手の甲にくっつくか」という遊びに夢中になっていた。
***
自分の運動遍歴を遡ってみた。
・水泳
9歳〜15歳。近所にスポーツジムができたのがきっかけで入会。高校受験を機に退会。
・ダンス(HIPHOP、JAZZ)
12〜22歳。中学〜大学まで部活動で青春を捧げる。社会人になって休止。
・ヨガ
24〜26歳。最初の1年はダイエット目的でホットヨガ、途中から普通のヨガに。結婚を機に休止。現在も疲れが溜まると単発レッスンを受けたり、YouTube動画を参考にポーズを取るなど、心と体の支えになっている。
・ダンス(ベリーダンス)
32歳〜現在。腰痛改善で始め2年目突入。週1から月2くらいのゆるいペースで通うも、なんだかんだ年に一度はショーに出ちゃっている。
こうやって文字に起こしてみると、結構やっている。しかもどれも続いているし、辞めた理由も嫌いになったというわけでなくライフスタイルの変化によるものだ。
あれ。私ってスポーツマン…なのかな?
いやいや!そんなことあるはずない!
こちとら運動音痴=年齢で、学生時代は算数より国語より体育が嫌いだったし、自己紹介でも長年インドア派を称している。そんな生半可な気持ちで運動嫌いやっていないのだ。(?)
それに、スポーツマンってもっとストイックなものでしょう。
「疲れていても日課のマラソンは欠かしません」みたいな、自分の弱さを超えていける人。ランナーズハイ的な、苦しさから価値を生み出す崇高な生物。
対して、私のスポーツへの取り組み方は気分が乗ったときだけ、楽しむために行うもの。
絶対にスポーツマンなはずが、ない。
・・・
私はなんでムキになっているんだろう。
スポーツマンの定義
脳内でそんな葛藤を繰り広げつつ、どうにも納得できない私は証拠を集めることにした。手始めに『スポーツマン 運動 頻度』という頭の悪そうなキーワードで調べてみた。
しかし、出てくるのはスポーツをしてるかしてないか、してる場合はその頻度をまとめた統計データばかりである。
※ちなみにだいたい6割くらいの人は週に1回以上のスポーツをしているようだ。
そこで調べ方を『スポーツマン 定義』に変えてみたら、面白い記事に出会った。
一般社団法人日本スポーツマンシップ協会会長・中村氏ら、スポーツマンとは単にスポーツをする人指す言葉ではないとしている。
というのも、英語の「sportsman」には「いい奴」「いい仲間」といった意味があるそうだ。
おそらく運動を通じて得られる他者への尊重や、挑戦する勇気などのポジティブな要素が、人間をそのように成長させるという考えから転じたのだろう。
そして、記事の後半には中村会長が考える、スポーツに対する苦手意識を持つ要因が記されていた。
「あくまでも私の肌感覚ですが、スポーツが熱狂的に好きな人は日本人の3割。残りの7割はそうでもないか、スポーツが嫌いとか苦手という人。なぜそうなるのかというと、子どもの頃に、体育の授業などで負けたりうまくできなかったりすると怒られたから。」
ああ、これだ。私が頑なにスポーツ嫌いを主張する理由。体育が嫌いだったのだ。
バスケとか、対抗リレーとか、大縄跳びとか、連帯責任でクラスメイトに迷惑をかけることが恥ずかしく、心苦しかった。それを自分の意思で避けられない、体育の授業が苦痛だったのだ。
自分の運動遍歴を振り返ると、それがよくわかる。
水泳は自分のタイムとの戦いである。フォームを正し、コツコツと練習を重ね、水とひとつになる。その感覚が好きだった。
ダンスに関しては、そもそも勝敗をつけるという感覚がナンセンスだ。もちろんコンテストでは順位付けがされるし、それは技術点という側面を持っている。しかし、評価をつける側(オーディエンス)の「好み」もあるし、サッカーのように一目見て勝ち負けがわかるといった類のスポーツではない。そこが面白さでもあるし、救いでもある。勝ち負けに囚われずに、自分の思う「かっこよさ」だけを追求できるのだ。
スポーツマンは名乗れないけど
自発的に身体を動かすことを長年続けている私は、おそらく「運動嫌い」ではないのであろう。だけどやっぱりスポーツマンを名乗るにはちょっとぴり気恥ずかしい。
しかし、以前のようにスポーツマンへの過度な憧れは手放せたはずだ。あれはコンプレックスの裏返しで生まれるものであった。
願わくば、この憧れはこれからはスポーツを楽しむ『いい奴』『いい仲間』への敬意として持ち続けたい。純粋な賛辞は明るい。陽の感情は抱いている方も抱かれる方も気持ちが良いし、ハッピーだ。
だから声を大にして言いたい。
スポーツマン、いいよね!!!!