【学級支援員日記③】筆箱に檸檬

子どもを育てていると、こんな言葉をよく耳にする。

「勉強なんて出来なくてもいいから、のびのび育てなきゃ」

「勉強より今しかできない経験を」

「元気が一番。勉強は二の次でいい」

***

上記のような言葉をもって、子どもを勉強に向き合わせようと躍起になる親は、時折「悪」のように扱われることがある。

確かに大抵の人は「なんで勉強しなきゃいけないの?」なんて疑問を子供時代に大人に投げかけたことがあるのではないだろうか。
悟ったようなことを言いたくて「円周率なんて使うわけねーよ」とかなんとか言ってみたりしてね。

幼い頃の自分と照らし合わせ、友達と河原に秘密基地を作ったり、砂埃で靴を白くしながら一輪車の練習をしたり、綺麗な石を集めて交換したり、そんなプライスレスな体験から遠ざける勉強を邪魔者のように扱う大人もいる。

でも、本当にそうなのかな。

***

私が支援に入っているクラスにマサキくん(仮)という10歳の男の子がいる。
実は以前からメインの子の支援の傍らマサキくんの手伝いをすることがあったので、彼とは知り合ってまぁまぁ長い。
甘えん坊で、カエルが好きで、勉強が嫌いで、不器用な憎めない男の子。

だから、今年度から再びマサキくんのいるクラスの支援を任されて目を疑った。彼の変わりように衝撃を受けたのだ。

真っ直ぐに並ぶ列から大きくはみ出て、斜めに曲がった机と椅子。
机の上に散らばるゴミ山はビリビリに裂かれた漢字のノートだ。足元には提出期限の切れた授業参観のプリントがぐちゃぐちゃになっていて、ロッカーにあるべきランドセルは足置きになっている。
算数の時間だというのにもちろん教科書は出ておらず、タブレットを持ち出し堂々とゲームをしていた。だけどそれを誰も気に留めず、授業は淡々と行われている。
つまり、この風景はこのクラスのスタンダードなのだ。いくらなんでも態度が悪すぎる。



「マサキくん、今はゲームの時間じゃないでしょ。教科書はどうしたのかな?」


普通に無視。

でも、無視というのはまだマシな方だと後になってから知った。
たいていは「うるせぇ」「消えろ」「来るな」「帰れ」という言葉が飛び出す。

虫の居所が悪いときに声をかけてしまうと最悪だ。キレて大きな声でわめき散らしたり、机を叩いたり廊下を走ったりして、他の生徒を怯えさせる。とても授業どころではない。

教師にとってマサキくんは教室の一角を占める地雷原そのものであった。

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担任の先生も初めはずいぶん説得したそうだ。なんとかしなければと思い、この令和の時代になかなかの熱血教師ぶりを発揮して、ぶつかったことも多かったらしい。

だけど、授業にまじめに参加させようにもマサキくんはとにかく勉強ができなかった。

漢字はほとんど記号を模写する感覚で書いていて、部首とか書き順とかそういう概念がない。語彙力も低いから教科書の音読はつっかえつっかえで時間かかり、根気がもたない。

嫌いな算数にいたっては、小5にして九九ができなかった。
この時代の算数はだるま落としみたいにそれまでの単元の積み重ねがあってこそできるものだ。小2から適当に積まれたブロックの上に、知識が確立することはない。
さぁ、今日こそ授業を受けるぞ!と思っても、かけ算ができないのに図形の面積の求められるわけがなかった。

多感な年頃というのもタイミングが悪かった。
大人たちが「一緒にやろう」と手を差し伸べても、マサキくんにとってはクラスメイトに「出来ない自分」を見せるのが恥ずかしく、耐え難いことのようだった。

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結果、マサキくんはプライドを守るために「俺は出来ないんじゃなくてやりたくないだけ」という理論で武装し、授業を受けることを拒否していた。

一方で、クラスには真剣に授業を受ける生徒が他に20人以上いるのだ。教師は授業を放棄しているマサキくんの対応ばかりに時間を割いていられない。
現実問題として、マサキくんのわかる単元まで振り返りながら授業を進めるのは困難だった。 (ひどいものは3年分くらい遅れていることになる。)

差が開ききる前に、そしてもう少し幼く素直に時代を受け止められるうちに、私たちはどうにかすべきだったのだ。
今からでも放課後に個別指導を受け、差を埋める努力をしてくれれば良いのだが、正直かなり難しいだろう。
もちろんそうした取り組みは今までに何度も提案したし、その度に頓挫したようだった。

以上のことから、マサキくんの授業態度については「周囲の授業妨害をしなければOK」という低い目標に着地した。

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この苦渋の選択に納得できない者たちもいる。
好き嫌い・得手不得手がある中で、自分と周りと折り合いをつけながら授業を受けているマサキくん以外のクラスメイトだ。

ただ、狂気を帯びてわめき散らすマサキくんを見ているせいか「あれじゃあ仕方ない」という諦めに似た思いもあるのだろう。

「ずるい」という気持ち、
「あいつはヤバい」という気持ちが、
子どもたちに「マサキくんには必要以上に近づかない」というよそよそしい態度を取らせた。

いじめとは違う。マサキくんが話しかければ返事はするし、ゲームの話題で笑い合う姿も見られる。休み時間にみんなでサッカーをすることもあるようだった。
だけど、いつも話しかけるのはマサキくんばかり。

***

みんな単純にマサキくんが苦手なのだ。
というか、どう扱って良いかわからないのだろう。大人ですら地雷を避けるように言葉を選んで接しているのだから。
幼いなりに波風立てないよう適度な距離を保ち、上手く付き合っているクラスメイトたちは立派とさえ思う。

次第にマサキくんはクラスメイトに対してわざと煽るようなことを言い、怒った様子を面白がるといった行動が増えた。
他の子とのトラブルで泣いている子をからかったり、追い打ちをかけるような言葉を発することもあった。
かまって欲しい気持ちの表れなのだろう。相手からすると最悪だけど。

マサキくんは日に日にクラスから浮いていった。

***


ある日、マサキくんは爆発した。

机の上のものを床にぶち撒けた拍子に、パキッと何かが割れる音がした。たぶん鉛筆のキャップのプラスチックが砕ける音。
スチール製のキャビネットは力まかせに締められ、波打った扉がシンバルのような音を立て響き渡った。
その中で叫び声を上げながらのたうち回るマサキくんは野犬のように凶暴で、すべてに憤っていた。

私は慌ててマサキくんを抱き止めて廊下に出した。彼は顔を真っ赤にしてぼろぼろ泣いていた。

***

パニックになった理由を聞いているうちに、彼はこんなことを口走った。

マサキくん
「みんな俺をバカにしてる。誰も俺の話を聞いてない」

「あいつらが俺をバカにするなら、いじめられる前にこっちからいじめてやろうって思う」


マサキくんはクラスメイトから距離を取られていることに気付いているのだろう。
バカにされるくらいなら相手を怖がらせることで上に立ち、自分を守ろうとしている。
ただフラットに接して欲しいだけなのに、もう上か下かしか考えられなくなっている。
そのくらい自分が下になることを恐れている。

幼いマサキくんにそれほどまでの劣等感を植え付けた要因はなんだろう。
私はそれが「勉強」だとしか思えないのだ。

***

勉強ができないから、授業に参加できない。
授業に参加できないと、周囲と距離ができる。
周囲から浮いていることに気づくと、プライドを守るために自分から相手を突き放すようになる。

勉強が全てではない。
しかし、学校というコミュニティに属する以上、授業に参加できるくらいには理解できていないと、辛いのは子ども自身だ。
自己分析ができない年齢のうちから強い劣等感を持ってしまうと、原因が外部にあると決めつけてしまう。


何層にも積まれ固く折り重なったコンプレックス。平されることはあるのだろうか。
せめて自分の自信を失わない程度には、学校生活を楽しませてあげたい。

***

この日、マサキくんは珍しく席に大人しく座っていた。
こうして見ると華奢な後ろ姿は頼りなく、薄い肩からも幼さを滲ませている。

私の視線を感じたように、マサキくんがくるっとこちらを向いた。
そして小さく2度、手招きをした。


駆け寄る私にマサキくんが一言。

マサキくん
「先生、俺の筆箱に何入ってると思う?」


静かに開けた紫色の筆箱には小さなカエル。
そして、登校中に見つけたんだよ、いいでしょ、と嬉しそうに笑った。


異質な光景にポカンと立ち尽くした私は、梶井基次郎の檸檬を見つけた人はこんな気分だったのかしら…なんて思った。
驚くのも忘れて、くすっと笑った。

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