かつて異端だった自分へ
私は学校関係の仕事をしている。といってもパートだけど。
この仕事との出会いは自治体のホームページ。
本が好き!人生で一度くらいは図書館で働いてみたい!…という浅い理由で、たまに募集のかかる「図書館スタッフ」の求人情報を、私は定期的にチェックしていた。
その日は残念ながら目当ての図書館求人はなかった。だが、求人一覧に表示された「学級支援員」という見慣れぬ単語が目に留まった。
夏季と冬季に長期休みあり。
期限付き公務員のため、福利厚生は充実。
家から自転車の距離。
業務内容には『特別な支援が必要な子どもをサポートするスタッフ』的なざっくりしたことが書かれていた。
給与は高くはないが、なんだかそう悪くもない気がした。
問題は応募資格。
学校で働く以上は、教員免許やそれに準ずるような特別な経験が必要なのだろう。
ガッカリしないよう、ちょっと斜に構えてスクロールした資格欄には「資格不要」の文字。
その下に少し小さな字で「※子育て経験のある方歓迎」とだけ書かれていた。
心でガッツポーズをしたあたり、私はこのよくわからない仕事に対して、ほとんど一目惚れしていたのかもしれない。
そこからは早かった。腰の重い私にしては珍しく、考える間も無く応募ボタンをクリックした。
数日のうちに面接が決まり、慌てて駅前の証明写真機で写真を撮りに行った。スーツは堅すぎる気がして、オーバーサイズの白いワイシャツに袖を通した。
いざ撮影というところで、うっかり口紅をつけるのを失念していることに気が付いた。長期間のマスク生活の弊害だ。ワイシャツのレフ板効果でいつもより白く写った正気のない顔に快活な笑顔をたずさえた、なんともアンバランスな表情となった。
間抜けな写真を貼った履歴書を持って向かった面接は、ほぼ採用が決定している体だった。よほどのことがない限り不採用にはしないようだ。履歴書は脇に置かれたままだった。
***
経緯を見てもわかる通り「教育現場に革命を起こす!」「優秀な子供が日本の未来を創る!」みたいな熱い気持ちは、残念ながら持っていない。
ところが、やってみると大層面白い。
そもそも「学級支援員」という仕事は、私の子供時代にはなかった職業だと思う。
実際のところは、発達障害児童がいるクラスのお手伝いさんだ。
最近よく耳にする「発達障害」、実はこの単語自体がここ20年くらい(うろ覚え)で生まれた言葉らしい。
支援が必要な発達障害児童の数は年々増えているけど、それは障害児童が増加しているのではなく、発達障害という言葉が浸透している証拠だそうだ。
つまり、以前なら「乱暴な子ね!」でだけで片づけられてしまったのに対し
「この子、乱暴なんじゃなくて、実は自分で欲求をコントロールできないだけなのかも?(=発達障害?)」
と結び付けられるようになった保護者や指導者や増えているということ。
これはすごくいいことだと思う!
「大人のADHD」も最近よく聞くけれど、実際に支援が必要な大人は一握り。だが、支援が必要な子どもの数は大人の2倍かそれ以上だという。
だから、発達障害児童のうち半数は、大人になるにつれて病気を治したという風に見える。
答えはノー。
発達障害は完治しない。
成長に伴い多くのADHD患者は、自分の資質を理解し、障害(と自覚していない人も多いだろうけど)とうまく付き合えるようになる。つまりゴールは「寛解」。生きづらさが根本から消えるわけではない。
人生経験の少ない子供は、まだその資質との付き合い方どころか、自分がみんなと違うのかもわからない。
教員も「なぜこの子はできないのか」と思ってくれればまだ良いが、「なぜこの子はやらないのか」と思われてしまったときには、児童の学校生活は辛いものになるだろう。
あまりに早い挫折は、子供の自己肯定感の形成にも影響する。他者と自己の境界線を意識し始めたときに、自分はみんなのように振る舞えないという事実は、彼らにとってどんな意味を持つのだろうか。
教員免許も臨床心理士資格も持っていない全くの素人の私だが、実は発達障害に関する書籍は何冊か読んだことがある。人知れずこの病気には特別な思いを抱いていた。
たぶん、幼い頃の私は「それ」だったから。
***
注意力散漫。
幼児期は座っているのと黙っていることができなかった。それでもあるとき湧き上がる衝動を抑えようとして、貧血になったこともある。
意識の矛先をひとつに絞ることができず、先生の言葉を聞き漏らす。集団行動ができずに聴覚障害を疑われ、検査をした。
忘れ物や無くしものなんて日常茶飯事。無くした時の対処法ばかり上手くなる。
思考がまとまらず、坂道を転がるボールのように次々に新しい「気がかりなこと」が生じる。
算数の繰り上がりの計算を毎回間違える。見直しができないのだ。
先生にはやる気がないと思われ、テストではひとり教壇の前の床で正座させられ、問題を解く様をみんなに見せられたりした。
振り返るに、おそらく多動と軽度の学習障害もあったのではないかと思う。
勉強ができず、集団生活にもうまく馴染めなかった私は、小学校2年生の時には明確な劣等感を背負っていた。
自分が劣っていることを認めたくなくて、心の中で友達の粗探しをし安堵するような嫌なやつ。
そして、そんなダサい自分を1番嫌っているのも自分だった。
だが、年齢的なものなのか経験値によるものなのか、次第に私はいわゆる『普通』にカテゴライズされるほど凡庸にはなれた。
でも、一度染み付いた劣等感は簡単には消せないもの。大人になってからも、私はいつだって自分のレベル上げに必死だった。
あるときは受験だったり、
留学だったり、
資格だったり、
就職だったり、
昇進だったり、手段はさまざま。
いつも何かを頑張っている自分じゃないと、みんなから馬鹿にされてしまう。優等生ぶっていても、常に誰かに追い抜かされるという不安が付きまとった。
だって、私のスタート位置はみんなよりずっとずっと後ろの方にあるんだから。
***
母になり、気が付いた。
私って「今の自分」で良いと思ったことが一度もないんだ。ありのままの自分に安心できたことがない。
幼少期に大人に貼られた「劣等生」のレッテルは、コンプレックスまみれの自分を作る強固な土台となってきた。
***
支援している子供たちを見ていると、当時の自分が蘇る。
他害しやすい子、
パニックになりやすい子、
立ち歩きや自己刺激運動が辞められない子。
彼らを通して発達障害について知れば知るほど、幼い自分の行動の答え合わせしているようで、なぜか救われる。
「また来たのかよ」「こっち来んな」「うっせー!」
精一杯の悪態をつく彼らに本気でむかつきつつも、ふと漏らす本音やまだ頼りない首筋なんか見てると、愛おしさを感じる。
不思議なことにクラス全員もれなく可愛いのだ。過去の自分を抱きしめる代わりに、目の前の子供たちを肯定しているのかも知れない。
どうか曲がらず、そのままの君たちで幸せになってほしい。
「俺、最強だし」ってメンタルのまま、安心して大人になってほしい。
果たせなかった願いを子供たちに託している。