「固有」名詞では「共有」できない
SNS(特にFacebookやTwitter)で投稿をするときは、自分の中のひとつのルールとして、「個人名など対象を特定させる言葉をできる限り使わない」というのを設けている。一般の人びと(私人)はもちろんのことだけど、政治家などの公人や有名人も対象としている。といっても緩やかなルールなので、時にはそれらを使ってしまうこともあるかもしれないけれど、そうであったとしても、心がけていることには間違いない。揚げ足取りは、やめましょう。
それは「個人攻撃をしたくない」という気持ちの表れなのかもしれないけれど、そういうことよりも、個人名を出すことによって「その特定の出来事のことだけについて言及している」という風になるのが嫌だ、というのが大きいかもしれない。
特定の個人が起こした何か問題となる出来事、例えば、差別的発言がわかりやすい例だけれども、そうした発言はもちろん糾弾されてしかるべきなのだろうけれども、その出来事だけに矮小化するのはなんか違うと思う。個人名を出すことによって、その特定の出来事に矮小化されてしまうのは、嫌だ。
その特定の個人が、そのような発言をした、そのことがたまたま衆目に晒され、ピックアップされたに過ぎない。それよりも、そうした発言が出てきてしまった、その芽を出している土壌のことについて言いたい。月並みな言い方をすれば、氷山の一角よりも、海面下の大きな氷の塊を溶かしにかかりたい。土と言ってみたり、海と言ってみたり、ややこしくてすみませんね。月も出てるし。
特定の個人が起こした問題となる出来事は、それについて深く考えるきっかけとなるはずなのに、特定の個人への言及に収斂してしまうことで、結局、それについての熟慮が広がることもなく、いつの間にか、ほとぼりが冷めてしまう。なんだか、その繰り返しばかりのような気がする。
個人名を出すことによって、それを見た人(もちろん全てではないよ)は、その個人名をググること、元ネタを辿ること、そのことに気持ちがいってしまうんじゃないだろうかしら。元ネタに辿り着くこと、それがいわばゴールのようなものになってしまって、そこから先、それこそが肝心なのだけれども、それをきっかけに「考えること」までに至らなくなってしまう。
そんなわけだから、元ネタへと辿るヒントみたいになってしまう個人名は、あまり用いたくはない。ヒントなんてくれてたまるか。
その出来事によって問いかけたいのは、もしくは、その出来事から問いかけられているのは、例の今流行りの「謎解き」なんかではない。ひとつの固有の答えがある「クイズ」なんかじゃない。奇しくも苗字は同じだけど。
「固有」のものは、固有であるがゆえに「共有」することができない。
問題意識、考え、意見、それらの「共有」が、本当は必要なはずなのに。
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