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epilogue


「少し変わった人生から見る日々のこと、文化や社会に対する見聞」と銘打ってnoteを始めてみたものの、少し変わった、というのは一体何を基準にどこから名乗っていいものなのだろう

本来ならば自分にとって自分以外の人間は、全員が変わった人間として捉えるべき存在なのだ。

個性がなくなった時代、と言われるがこれは違う。個性でしか物事を捉えられなくなった時代なのだ。社会や個人、果ては街中にまで、すべてを個性で一括りにし、曖昧さが失われていく視点が蔓延っているように思える

とりわけ、現代社会の象徴とも言えるsns。世の中と比べてどれだけ自分がちっぽけな存在なのかを際立たせ、焦らせ、お互いをもっともっとと大きく見せ合おうとさせる巧妙なサービスである

かくいう僕は、実はまだsnsを初めて2ヶ月しか経っていない。今どきこの歳になるまでsnsをほとんどやってこなかったなんて、珍しい方だと思う

しかし恋人と親友と、その友人(6年間会ってないが僕は友人だと思ってる)の3人のフォロワーから始まったアカウントも、たった1ヶ月、60のツイートでいまやフォロワーも1万人近くになった

これは若い顔や体を売りにする、あるいはいいねに魂を売り、メディア気取りで情報を発信するようなアカウント運営をしない限り、一学生の素人が匿名で思想を発信するアカウントとしては異常なペースである

芸能人でもなく、何か奇抜なことをしているわけでもなく、セクシーでもない僕の言葉と思想、その経験がこれだけ多くの方に興味を持っていただけることには正直驚き、嬉しかった(断っておくが僕の顔は決してイケメンと呼ばれる類のものではない。そうであればここまで自分の人生に深く向き合わずに済んだだろう)

たまに見かける「Twitterを始めて○ヶ月でフォロワー○○人にした方法」商法に乗っかれば多少の小銭も稼げそうな勢いである。(というか、世の中にあるSEOに関する知識や理論は全てゴミ。イケてる人間がそのセンスを無駄なく形にし、人の心に圧倒的に訴えかけて惹きつけるのが最強のSEOである)

が、もちろんそんなことはしない
友人の指摘によると、sns上での僕の立ち位置は実生活における僕とかなり似ているらしい
つかみどころがなく、近寄りがたい

それでも自分のいいところはコミュニティに偏りがないことにあると思う。日常でもいわゆるオタクからグレーゾーンにまで知り合いがいるように、sns上でも服系、日常系、社会思想系、学生や主婦の方、あらゆる方々が共通する美学のようなもので集まっているように思える。それは最高なことで、どんなノウハウでも真似できない

そして逆にシンプルな生き方、あるいはやり方だからこそ、僕の変わっている部分が浮かび上がるのだろう

僕の投稿を見ていただいた方は恐らく「これは一体何アカなんだ?」という印象を抱かれるかもしれない。そして同様に「こいつは一体何者だ?」と思われるかもしれない

恐らくこれも、実生活のそれと同じだ
そうであって欲しい。それは僕の目指すところの1つでもあるから

深掘りはしないが、僕はこの社会の〈典型化〉を敵対視している。特に日本人は思想と経験の引き出しも少ないくせに、やたら物事や人格を典型化したがる。それは時に役立つ時もあるが、それだと引き出し以上の出逢いは発生しない。

典型化は過去を読み解くもの(統計学)であり、現代や未来思考に対する放棄になってはならないのだ。

このことは、度々Twitterで見かける、いわゆる「しずかちゃんが悪いことをするとすごく悪く見えるし、ジャイアンがいいことをするとすごくいいやつに見える」というやつにも現れている

また、これは最近みた海外ドラマに出てきた台詞である

「俺は子供が知らないことを知っている。世の中には本当の善人も、本当の悪人もいないのさ」

とりわけ、もはやアジアの笑い者に成り下がった日本のエンタメは、その社会の縮図だと言えるだろう。悪役は悪、善人は善、男女がいたら必ず恋に落ちるし、泥臭いやつは天才に勝つ。だから本質的な作品が生まれないし、そんなコンテンツに囲まれた社会では実際に"大学生"とか"〜系"とか、服装から趣味まで括り通りの人間ばかりになる

僕も誰かから見ればその一人だろうし、そこから抜け出し続けることは今も永遠のテーマだ

私事だが、これは僕が最初に入った大学を1度辞めた理由の大きな一つでもある

底辺自称進学高から血の滲むような努力で国際系の大学に進学し、すっかり"グローバル人材候補"気取りで自惚れていた僕は、ヨーロッパで自分よりも遥かに優秀な海外の同年代の学生が自分より遥かに自由な生き方、社会や人生に対する多様な価値観を持っていることに直面し、絶望した

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いくら勉強したところで、日本人にとって外国語はあくまで翻訳の道具であって〈自分の持つ言葉〉を超える言葉は生まれないのではないか、と

どれだけこの島国で優秀だと言われようが、外に出れば15億人のうちの一人に過ぎない。それも日本語訛りのアクセントで。もちろん一つの手段としてそれ自体も素晴らしいことではあるが、母国語として英語を自然に学び、さらに自らの学問や経験を深めることに時間を費やしている彼らと渡り合うには、あまりに時間のロスが多すぎる

そこで僕が必要だと感じたのは、英語よりむしろ国語だった。たとえばいつか翻訳技術が発達すれば媒体としての外国語は不要になる。そうなった時、本当に価値が問われるものは社会や文化に関する知識や自分の意見といった、普遍的な〈自分の持つ言葉〉ではないだろうか、と

いつかそうなることは、いずれそうなる

いつか僕の高校生活や大学中退、再受験などについてもくわしく書こうと思うので、楽しみにして欲しい。自分にとっては最悪の日々でも、側から見れば最高に面白いエンターテイメントだと思う

話を戻そう
こうした背景があり、僕は典型化から逃れるべく常に脈略のない生き方を心がけ、目指しているのだ。こんな社会では変なやつ、と思われるくらいがちょうどいいのかもしれない

実を言うと、上で述べたような一連のsns上での動きを含む僕の最近の生活の変動は、自分の中ではある程度落ち着きを持って迎えられている

僕は6年前、最初の大学を中退して半年ほど、稼いでは本を読み、映画を見ては旅をする放浪の日々を送っていた。そんなある日々の終盤、僕は駅前のマクドナルドでふと思い立ち、人生の計画を紙ナプキンに書いた。これから先、この島国でどう過ごし、どうやって自分なりに世界をいい方向に変えられるのか、そのために何をするか

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その中の一つに〈学生生活が終わった後にsnsを始め、言葉と思想、匿名性のある写真とできごとだけで発信力を持つ〉がちゃんとある

なぜ〈終わった後に〉としたのか

くだらない場所で陽キャになるとそこで終わる
いつかここだと思える場所で陽キャになればいい

これはそれっぽく見せただけの僕の言葉で、好かれる人にはとことん好かれ、嫌われる人にはとことん嫌われる傾向にある僕が心がける、一種の処世術のようなものだ

当時の状況に即して言い換えれば、一度アウトプットの時期に差し掛かってしまうとインプットの機会を失うことに繋がるから、学生時代はひたすらインプットをする時期にしよう、となる

この考え方は今でも一貫していて、僕は日頃からひたすら学ぶタームと、何も考えずに行動するタームを分けて繰り返すようにして生きている

sns上で自分のやっていることや生活について触れない理由もそこにある。「自分の望む場所で成功するまでは他の場所で名前は売らない」というワケだ。学びたいものを学ぶ場所を守る、というのは今の社会を生きる上で非常に重要なスキルだと思う

そうでないと流されていくだけだ、どこまでも

Act like a man of thought, Think like a man of action

という言葉がある

座右の銘というわけではないが、自分の生き方を最も表す一文だと思う。個人的に英語を和訳する行為は真に英文を理解する上では意味のないものだとは思うが、無理に和訳するなら「思慮深く行動し、能動的に考えよ」という意味になる。これは思想と行動のバランスを保つことの難しさ、そして重要性を表している、と僕は考える

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勉強だけをしてきた人間が何も学ばないまま優秀な社会の歯車に成り下がるように、旅だけをすれば〈旅で人生は変わると豪語する旅好き〉になってしまうし、金だけを稼げば〈西麻布で調子乗ってる友達のいない成金〉になってしまう。かといって気取りすぎても〈自分はすべてを知っていると穿った見方をする無力な若者〉になるだろう

典型化に対する過度な拒否感は、とっくに自らをも飲み込んでしまっているのだ。しかしもう手遅れなので、僕はそれを抱えて生きていく

先日、Instagramでスタイリスト私物の方が「服のことばっかり知ってもお洒落にならないよ」という言葉を投稿をして話題になっていたが、あれはまさに〈服〉という経験に飲み込まれてしまう若者、という最近の潮流に対する警告だろう

浅い人間が増えた、という話をよく聞く
縦の軸から見ても横の軸から見ても、今の若者かから多様性が失われ、あらゆる物事に対する理解や関係性が軽薄化しているのは事実だ

僕のところにもよく「人生が変わるような映画ありますか?」「おすすめの国を教えてください」といった類のDMが送られてくることがあるが、個人的にカルチャーは結果ではなく、そこに到達する過程に意味があるのではないか、と思ってしまう。

たとえ誰かと同じ店や服、同じ作品をつまみ食いしたとしても、決して同じ場所には辿り着けないし、結局人生は自分で変えるしかない

やはり自らの経験に飲み込まれないようにバランスを取る、というのは僕の"マクドナルド計画"における最大の課題の一つだ。その先に何があるかは分からない。ただ何かを「イイ」と感じる感覚よりも、何かを「サムい」と感じる感覚の方が今までよっぽど頼りになったりするので、僕はそれを避けるようにして生きていきたい

旅もするし金も稼ぐし勉強するしオシャレになるし、何かに詳しくもなるけど、何者にもならない。〈すべての大きな経験を飲み込んで普通の人になること〉。変だが、それが僕の目標なのだ

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僕にはとある計画がある。このことについて誰かに話すつもりはないが、簡単に言えば「自分の知識や経験、思想のすべてを最大限社会へ還元する」計画だ

それはお金がいくらあってもできないし、いくら賢くてもできない

どちらかというと計画というより、たまたま見つけた道筋、のようなものだ

バラバラに散らばったそれらのできごとに共通点を見出し、一つにつながる道筋を見つけることができたのは自分よりも大きい存在によるものだと感じているし、それを実現することは自分に与えられた使命のようなものだと思っている

何かに熱中する人々はみんな同じ感覚で生きているのだろうか

きっとみんなそれぞれ自分の世界に道筋のようなものを見つける瞬間があって、それを見失ったり、なんとか思い出したりしながら手探りで生きているのだろう。感覚であったり、人や場所を

とまあ、こんな風にして世の中にはいろんな人がいるものだ

そんな他人の世界を覗くことは本や映画や音楽、ラジオといったコンテンツのように、決して人生を変えるような大袈裟なものではないけど、バタフライエフェクトのように日々に小さな、それでいて深い影響をもたらすはずだ

そして言語が〈自らの言葉〉を超えないように
自分の価値観以上の生き方をすることはできない

他人の人生や言葉を知ることは、自分の価値観を拡張する

僕も昔は野球少年だったこともあるし、サッカー部のキャプテンの彼女と話したせいで放課後に呼び出されてボコボコにされたり、高校では友達がいなさすぎてウォークマンに話しかけていたり、今日もまだベッドから一歩も出れずにいる、健全すぎるくらいに健全な人間だ

ただ、所々におかしな点がある。そういうおかしな点から生まれた歪みが、変わった視点や考え方となって人の役に立つことがあるかもしれない

これはすべての人に言えることだろう
欠点や失敗こそがその人をその人たらしめるのだ

断っておくが、僕はその代償としてそれなり痛みのある人生を送ってきた

No pain, no gainだ

なぜこんなことをわざわざ説明するのかというと〈gain〉の側面ばかりを発信してしまうと、その人の抱える〈pain〉を想像できないクソッタレな人間から必ずと言っていいほど、ありがたいご指摘のコメントを食らうハメになるからだ

失礼。申し訳ない
そう、今さらだが僕はめちゃくちゃ口が悪い
英語で話すならほとんどギャラガー兄弟みたいなスラングまみれになるだろう。しかし彼らがギターを持てば最高に美しいメロディーで希望の歌詞を綴るように、僕も何かを伝えるときは心を朗らかに親指をフリックさせていきたい

何かを選択することは必ず負の側面で批判を受けることになる

仕方のないことだ

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それでも何かを選ばなくてはいけないし、生きることは選ぶことだ。すべての結果に責任を持つ必要はないと思う

人を批判する人は落ち着いて欲しい
他人の発する言葉があなたの生活や大事な人に悪影響を及ぼすことなんてよっぽどの限りないんだ。政治家や家族でもない限り

Don't  judge(人を裁いてはならない)
マタイによる福音書7章1-6節

聖書からの引用に深い意味はない
僕は一応、カトリック系の大学に通っていたが、教会に祈ったことはないし、クリスマスすら「他人の誕生日を祝う必要はない、なんでもない日を大事にしよう」と言って世界中のパートナーたちを悩ませるクリスマスデート問題を無慈悲に解決するほどにバリバリに不謹慎で無宗教だ

ただ、正しい道はどこかで繋がっていると信じている

(ちなみにこれはニュージーランド市議会の"ゲイスピーチ"の考え方に影響を受けている↓)

社会や人生は十分につらいものだから、誰かが誰かをわざわざ傷つける必要はない。僕が言葉を垂れ流す中で、役に立つ部分や面白いと感じることがあるならそれは最高なことで、「サムい」と感じることがあるなら、それを避けることでもあなたの役に立ってくれるはずだ

世の中に無駄な言葉は、一つとしてない

長くなってしまったが、ここらで終わりにしよう

寒くなってきたのでお体に気をつけて

ちなみにこの記事を飾るトップ画の写真は明け方のパリの写真だ。ヨーロッパで1番美しい景色を見たかったら、早起きしてその町を歩くのが一番いいらしい。

みなさんもどこかへ出かけた際はぜひ

余談だが、旅について長々と順序立てて書くことはおそらくない

どれだけ素晴らしい写真や説明文をもってしても、その土地と生活のにおいをまとった風が肌にあたることによって得られる"その国を旅する"という経験を得ることも、共有することもできないだろうから

それはあなたの人生も同じだ

人には人の旅がある

人には人の地獄があるようにね

どうかあなたの旅を愛してください

それでは、よい一日を

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