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胸がチクリと痛んだら -第1章-

照明を落とした部屋に、ブラインドの隙間から漏れる月明かりが差し込んで、うっすらと室内を照らしている。
 キッチンから微かに聞こえる冷蔵庫のモーター音と、加湿器から沸き上がるスチームの音が、心地良い時間を演出してくれる。
 旭は、疲れた目に程よく暖めた濡れタオルを当てて、浅い眠りについていた。セミダブルのベッドには、旭のほかに二匹の猫。それぞれが左右両サイドに陣取って、ヒゲを揺らしながら眠っている。

 朝比奈 旭(あさひな あきら)。三十六歳、独身。
 れっきとした女性である。しかし、あまり可愛げのあるタイプではない。
 表情は乏しいほうだ。言葉数も少なく、話は端的に進めて無駄なことも言わない。高い身長に短い髪。名前を置いても男性に間違えられることがあった。
 男女問わず友人は多いが、恋人はいない。小さな輸入会社の商品管理部に勤めている。出世願望はないが、仕事はソツなくこなし、同僚や上司との関係は良好である。

 土曜日の今日、午前中は会社から持ち帰った書類の整理に追われた。中途採用された新入社員に渡すマニュアルをまとめると、休日出勤している上司に宛ててメールを送り、電話で簡単な報告を済ませた。
 一通り家事を済ませたあと、音楽を聴きながらソファーに寝そべり、夕べ買ったノンフィクションの本を読み進める。二匹の猫は終止、旭から付かず離れず、各々が気ままな時間を過ごしていた。
 上巻を読み終えた頃には、日が暮れかけていた。カーテンを閉めて、間接照明を点ける。

 週末の夜は、モノクロ映画を観ながら晩酌を楽しむのが日課だ。旭は簡単なつまみを作り、二匹の猫と共にソファーに陣取った。
 今夜は、お気に入りのモノクロ映画を選んだ。ジャック・レモン主演の『アパートの鍵貸します』と、マリリン・モンローの代表作『お熱いのがお好き』。数えきれないほどの再生数で、すでに殆どのシーンは暗記してしまっている。にも関わらず、名優の醸し出す絶妙の間や台詞の掛け合い、全体に散りばめられた名曲の数々が、旭に安堵感を与えてくれた。
 やがてエンドロールが終わり、ホーム画面に戻ると、TVを消した。テーブルの上を片付け、すっかり身支度を済ませた頃には、時計の針は午前一時三十分を回っていた。
 余韻に浸りながら湿らせたタオルを暖め、加湿器のスイッチを入れる。愛猫を呼びベッドに入ると、少し酔いの回った体がゆっくりとマットに沈んで行く感覚に包まれる。ヘッドボードに目を向けると、薄い月明かりに照らされて、赤い写真立てが見えた。
「おやすみ」
 小さく、しかしハッキリと呟く。旭は、羽毛布団の上にかかる猫の重みを感じながら、目を閉じた。
 『至福の時』だ。やがて旭は、ウトウトと眠りに落ちていった。


 不意に、ヘッドボードに置いていた携帯が鳴った。控えめな着信音と重ねるように、規則正しく振動を繰り返す本体が、白いライトを点滅させる。
 のそのそと布団から右手を出し、何度か空振りした後にようやく探り当てると、すっかり冷めたタオルを外して、ヘッドボードに放り投げた。
 携帯の画面を見る。明るさに目がくらんだが、そこに表示された名前を見て、旭は更にめまいを覚えた。

『着信中ー高橋美咲ー』

 深いため息と共に「おまえか・・・」と小さく呟く。
 高橋美咲、二十五歳独身。
 旭の勤める会社の総務課に所属している、小柄な女性だ。
 特に深い付き合いをしているつもりはないが、なぜかここ数ヶ月、何かと付きまとって来るようになった。部署も違えば年齢も離れている旭に、妙に懐いている。大きな目をクリクリと輝かせる、子リスのような顔をした女性だ。「鋼鉄の表情筋」と呼ばれる旭の仏頂面にもめげない、肝の据わった子リスである。
 間もなく午前二時。仰向けのまま、しばらく画面を見つめて待ってみたが、一向に切れる気配はない。渋々、旭は着信ボタンを押した。
 途端。
『あきらさぁーん!?』
 美咲の金切り声が響いた。旭は思わず顔をしかめる。
「はい」
『もしもしぃー!?あきらさぁーん!?』
 後ろで重低音のクラブミュージックが流れている。美咲が負けじと声を張り上げるので、旭の耳にはひどく不快に響いた。
「聞こえてるよ」
『今ねー!TOO MUCHで飲んでんだけどねー!・・・なに?!』
 美咲の声に割って入るように、男の声が漏れ聞こえてきた。くぐもっていて聞き取れないが、どうやら彼女に誘いをかけているようだ。
『いま電話してんのー!あっち行ってよ!』
 旭は目をこすりながら、ため息混じりに軽い欠伸をした。
「騒々しいな、用がないなら切るよ」
『えー?!あのね!ちょっと・・電話してんだって!うるさい!』
「お前がな」
『なに!?』
「いや」
『ちょっと待っててね!』
 ゴソゴソと布の擦れる音が聞こえた。携帯を胸元に当てて移動しているのか、時折カチャリと金属音がする。旭は、美咲がいつも身につけているプラチナのネックレスを思い出した。
 彼女がまだ学生の頃に、若くして亡くなった叔母の形見だと聞いた事がある。はて、どんなデザインだったかな。・・・あぁ、デイジーだ。大きな胸の谷間でチラリと光る可憐なデイジー。
 取り留めのないことを思い出していると、ようやく美咲の声が戻って来た。先程と違い、今度は微妙に声が反響している。
「トイレか」
『なに?うん、そうそうトイレに居るよー。よくわかったねぇ』
「うん」
『何かねぇ、ウザい男が居てぇ。ず~っとつきまとうのぉ』
「何か用?」
『でぇ、あんまりしつこいから「今から友達に電話するからあっち行って」って言ったらさぁ、俺と話そうよぉ~って。マジきもかった』
「何か用?」
『もしかして寝てたぁ?』
「丑三つ時だから」
『何?』
「草木も眠る丑三つ時。ゆえに良い子はベッドにインしてます」
『・・・あ!あぁ!あははっ!』
 美咲はカラカラ笑った。彼女はよく笑う。
『寝てたんだぁっ』
「全力で」
『あはははっ!全力!』
 また笑った。彼女は本当によく笑う。
『あ~もう。やっぱ面白いなぁ旭さんは』
 鼻をすすりながら美咲が言った。
「お楽しみ頂けましたか?」
『ウケた、まじウケた。あ~涙出た』
「それでは、来週のこの時間をお楽しみに」
『あはははっ!!』
「おやすみなさい」
 盛り上がる彼女をよそに、旭は電話を切った。

 携帯を閉じると、再び月明かりが旭の身を包んだ。
 寝しなに邪魔が入り、更に耳元で叫ばれて、すっかり目が覚めてしまった。
「ったくもー・・・」
 旭はギュッと目を閉じて深呼吸し、まどろみを呼び戻そうと試みた。しかし、心地よかったはずのスチーム音が、妙に耳についてしまう。冷蔵庫のモーター音も、時計の秒針も、猫の喉鳴りも。すべてが鮮明に聞こえ始めると、本格的に頭が冴えてきた。
「はあ~・・・」
 苛立ちにまかせて、少し大げさにため息をつきながら起き上がる。めくれた布団に押されて二匹の猫も目を醒ました。気怠げに旭を見上げると、さも迷惑そうに大きな欠伸をして見せる。
 ベッドから足を下ろすと、冷えたフローリングから伝わる冷気が、更に頭を冴えさせた。
 再び携帯が鳴った。確かめなくてもわかる、美咲だ。
「あほうめ・・・」
 一向に鳴り止まない携帯を一瞥すると、旭は不自然なまでに大きな伸びをした。さてこの苛立ちをどう沈めようか?このまま布団に潜ったところで眠れないのだ、ホットワインでも作ろう。
 やがて携帯が切れると、再び部屋が暗くなった。着信を知らせるライトの点滅に邪魔をされて、せっかくの月明かりも不満げに室内を照らしている。旭はもう一度軽く伸びをすると、キッチンへ繋がるドアへ向かった。
 ノブに手をかけた時、ふと思いついて、ベッドで毛繕いをしている猫達に声をかけた。
「おいで。ミルク温めてあげる」

 時計は、午前二時二十分を指していた。


ーーーーーーーENDーーーーーーー


こにゃにゃちは。
静香・ランドリーです。

なぜ小説を書き始めたか・・・それはね?
仕事のシフトが激減しているにも関わらず外出する資金はないし転職先も見つからないしそれでも何とかしなきゃ親子で心中だよとか焦っている自分を慰めるためにせめて承認欲求を満たそうとしているからであります。

それでは、アデュー。

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