自分発信が難しいのは何でやろ
こにゃにゃちは。
静香・ランドリーです。
さて。noteを始めてどれぐらい経ったのかしら。
『毎日投稿する』と言う目標は、早くもスタート2日目で挫折しているワケですが。文章を書くのは得意中の得意。
子供の頃から、「文才がある」と言われ、もてはやされてきた・・・はずなのにぃー。
いやはや、自分の世界は本当に狭かったと痛感しております。
市場に出てしまえば、結局は『その他大勢』の中に埋もれてしまう凡人。
(それはそれで心地良かったりもするがね)
現実って痛い。
そして自惚れも痛い。
お題さえあれば・・・の落とし穴
さて何を書こうか、とMacを立ち上げる。
んが、なぁんにも浮かびませんの。
note公式で推薦されている「お題」がいくつもあれど、結局は実体験がなければ薄っぺらい記事しか書けません。
小学生の教科書で読んだ『せんせい、あのね』がいかに素晴らしい作品か、今になって考えさせられます。
小さい子供たちが、リミットありのフィールドで言葉を絞り出して感動を伝える・・・大作ではないか!!
筆者には到底書けません。なぜなら、自分の身に起きた大なり小なりのハプニングに何の感情も抱いていないから。
まず、立ち止まって考察したことがない。
タスクとして片付け、はい次の方どうぞーの状態ですね。
だからこそ、『自分アンテナ』を張っておく必要があるのだなぁと、痛感します。
人間、ちゃんと自分で考える癖をつけないと。
ググったら最後・・・終わりなきクリック地獄へ
いざお題を決めて書き進めるのと、必ず手が止まります。
「漢字正しいかな?」「何やらイディオムに違和感が・・・」
その都度、Google先生を呼び出してしまいます。
そして調べているうちに、気になる記事をチェックし始めたり、コラムを読みあさったりと、調べ物がネットサーフィンへ。
やがて枝葉のごとく思考が広がってしまって、スタートラインが遥か遠くの「ドット」になる始末です。
タイトルに釣られるんだ、タイトルに。
筆者、これをTweetスパイラルって呼んでいます。パッとみてスッと理解できる短いタイトルに、ついつい意識を持っていかれ・・・で、クリックが止まらなくなるのよ。
いっそ辞書を使う方が、気が散らなくて良いのかも知れません。
(いや持ってないけど)
読まれることを意識しすぎる
自分の感じたことや、普段から考えていること。色々ありますわな。
ブログと言うのは、そういった部分を配信する役割の方が強いのではないかと。
しかし、いざ思いを書き連ねていると不安になってくるのです。
「(こんなこと書いて良いのかな。誰かに怒られそうだよな。んー・・・)」
って感じですな。
もしかしたら、「似たような感覚を持っている人がいるかも知れない」と、再びGoogle先生を呼び出してキーワード検索。自分の思いに近いコラムニストのブログを読み漁り、「みんなここまで言っちゃってるし大丈夫かな・・・」なんて妙に安心して下書きを編集し始めるのですよ。
ちょいとお待ちよオネェさん。君は著名人か何かか?いや何者でもあるまいて。
フォロワー1人じゃん!リアルライフ・フレンドじゃん!
もう少し傍若無人になっても良いのではないか?
いやしかし、どこかの誰かを不快にするものは書きたくないのだよ。
発信してみなければ分からんじゃろうて?
いやしかし、もし否定的なコメントが来たら立ち直れんのだよ。
と、脳内で質疑応答が始まります。
何やってるのかしら、全く。
溜まる下書き、止まる思考
あれやこれやと考えているうちに、結局『下書き』だけが増えていく・・・。
そして、いざ編集に取り掛かると、書き始めた当初に比べて新鮮味が欠けるというか・・・「つまり何を伝えたいのか」がボヤける。
そして、ソッと『下書き保存』をクリックしてしまうのです。
何か新しいことを始めるために登録したnoteが、新たなるフラストレーションを生んでしまうとは、悲しい限りでございます。
まず、自分にリミットを課すのが苦手です。そして妙な気遣いばかりで、がんじがらめ。何より、『相手が誰であれ嫌われるのはアウト』の性格が全てにおいて邪魔をするのでありますよ!
接客販売業26年。
常に『話を受ける立場』であり続け、雑談から相手のニーズを拾い集め、ここぞの時にマーチャンダイスの法則に従ってキーワードを小出し、ジワッと会話の主導権を握る。
仕事ならうまくいくのに、いざ自分配信となると、何が『売り』なのか理解していないようです。
タイピングは進まず、脳内で言葉が彷徨うばかりでございますわ。
余談ですが。
『マーチャンダイス』とキーを打ったら『まーちゃん大好き』の変換候補を出してきたMacBookに拍手。
今日もモヤりながら頑張るぞー。
では、アデュー。