令和2年7月豪雨から2年~球磨川流域の思い
2年前の今日、7月4日は忘れられない日になりました。深夜から降り続く雨が気になり、朝6時少し前、目を覚ましてすぐにテレビをつけると、人吉市や球磨村、八代市坂本町など、見慣れた地域が一面濁流に飲み込まれており、その変貌ぶりに驚愕しました。しかも流勢は衰えず、水嵩は増している状態です。ピークはまだ数時間先と報じられ、しかも上流の市房ダムの緊急放流も予告されています。建物の上階や屋根の上から助けを求めている人たちが多数いる中、緊迫感に包まれていました。当時の私には何ができるわけでもなく、食い入るようにテレビを観ては、ただ祈るのみでした。
結果的に緊急放流には至らなかったものの、甚大な被害が生じたことは報じられてきた通りです。災害関連死の2人も含め67人の尊い命が犠牲になりました。球磨村の特別養護老人ホーム『千寿園』で14人もの入居者が犠牲になられたことは痛恨の極みでした。八代市坂本町で病院を経営する知人から、川沿いに建つ3階建ての病院は、早々と入院フロアの2階まで浸かり、入院患者を3階の自宅部分へ誘導し、濁流の恐怖と闘いながらヘリコプターでの救出を待つという、緊迫した状況を後日聞かせてもらいました。
あれから2年が経過して何が変わったのでしょう。
住宅地や主な道路等の泥土は早急に撤去され、水没した家屋等の建物はほとんど解体撤去されました。また、土砂の崩落等で通行止めになっていた国道等の主な道路も短期間で開通し、決壊した堤防工事は進んでいます。一方、今も2618人が仮設住宅を含む仮住まいを続けておられます。JR肥薩線の復旧方針は決まっておらず、メインとなる道路は復旧されても、少し奥まったところに入ると、まだほとんど手付かずの地域が広がっています。
変わったところがあれば、変わっていないところも、まだたくさん残されています。報道では、復旧が進み復興へと向かう地域が注目されがちですが、取り残された人々や地域に、もっとスポットライトを当てるべきであることは言うまでもありません。
そして、何より球磨川流域の治水対策。川辺川ダムを巡り長年翻弄されてきた地域だけに、水害後に打ち出された『流水型ダム』については根強い反対があります。「あれだけの被害が生じたので、ほとんどの人たちはダムを造ることには賛成だろう」と思われがちですが、決してそうではありません。球磨川への愛着が影響しているのはもとより、「なぜあれだけの被害が生じ死傷者が発生したのか」「球磨川本流が本当の原因なのか」、死傷者周辺への聞き取り調査も行われることなく、洪水の十分な検証がなされないままに進められようとしていることに対する不信感のように思えます。
反対を続ける人は『一部の変わり者』か『イデオロギー的な運動』と一蹴されがちですが、本当にそうなのか疑問です。「反対」と声を上げる人は一部かもしれないけれど、黙ってはいるものの「実は反対」という人は少なくない。死傷者も出ているので「反対の声を上げづらい」という人たちだって少なくありません。県知事は「水害により民意が変わった」というものの、民意はそんなに単純ではありません。民意を盾に事業を進めようとするのであれば、もっと丁寧に汲み取る努力をすべき、私はそう思います。
『緑の流域治水』を掲げているものの、どうしてもダムを造るための隠れ蓑に見えてしまう。あの広大な山々を含む球磨川流域に線状降水帯からもたらされた豪雨が、どのような構造で、あれだけの被害をもたらしたのか、納得できるだけの説明がなされたとは言い難いものがあります。
すべての人が賛同する事業は無いと思っています。特に環境と治水との両立は至難の業です。また、災害はまたいつ襲ってくるかわかりません。だからといって、説明責任を果たさないままに事業を進めていいものでもない、私はそう思います。これからも、なぜ水害は発生したのか、どうすれば被害を最小限に食い止めることができたのか、あるいは今後できるのか、これからも多くの人の声に耳を傾けていきたいと思います。
【参考】
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