とてもつらくてもSNSから離れなかった話
京都アニメーションの事件にとても心を痛めています。
※同じように現在進行形で心を痛めている方は無理せず読むのを中断してください。
私は2014年からずっと『Free!』というアニメシリーズにハマっており、その制作元が京都アニメーションです。
長く私のnoteを読んでくださってる方は心当たりがあるかもしれません。
たびたび私が発狂し、コラボ等を楽しんでいた、あのアニメです。
毎朝、タイムラインを眺めながら、「ああ、夢じゃないんだなぁ」と涙を流して目覚めます。
今でもふとした時に、涙がこぼれそうになったりします。
事件当日は、死亡者数が増えていくだびに、胸がはりさけそうでした。
あのきらきらしたシーンを作った方が、巻き込まれたかもしれない。
あの感動した場面を作った方が、傷ついて、命を落としているかもしれない。
そう思うとたまりませんでした。
「ショックを受けている方は情報から離れましょう」
そういう言葉もみかけます。とても正しいように感じます。確かに仕事中などは、事件のことを考えなくて済むので、やや心が安らぎます。
刺激が強すぎる動画や、憶測にすぎない情報、憎悪や悲しみを駆り立てる記事からは距離を置きました。
それでも私はSNSから、Twitterから離れられませんでした。
それは、そこに、共に本気で遊び、作品を愛してきた仲間がいるからです。
仲間たちは総じてぼろぼろです。
元々、感受性が豊かな人が多いのもあるでしょう。一様に深く、心を痛めています。
それぞれのやり方で悲しみを抱えながら、時に余計な外部の言葉に傷つきながら、なんとか生きています。
それでもみんな割とSNS上にいるのは、同じ気持ちだからかな、と思います。
ここには、アニメ放送を毎週楽しみにし、実況し、共に新作発表に歓喜し、何度も何度も劇場に足を運び、台詞は暗記するほどで、互いの解釈を吟味しあい、登場人物の誕生日を祝い、話数で会話し、CREATION NOTEBOOKを読み込み、映画の入場特典に全霊を捧げる、それを何年も何年も継続している、そんな人たちがいる。
同じ深さで悲しんでいる人がいる。
悲しみの共有にも癒し効果はあるのでしょうか。
自分のことを棚に上げて、◯◯さん大丈夫かな、と思ったりすることに、おそらく癒されています。
私個人としては、尊敬し、憧れる、愛すべきクリエイターさんたちが、こんな形で傷つけられたことがとても悲しい。
その創作物を、もうみられないのか、ということが、とてつもなく悲しい。
続編などは、もうどうでもいい。
容疑者についても、何も感じない。
ただただ失われたものの大きさが、悲しい。
彼らが引いた線、置いた色、作り上げた世界に、どれだけ、どれだけ多くのものを貰ったか。
募金程度のことしかできず歯がゆいし、こんなことを言っていいのかわからないけれど、どうにか、再生してほしいと、願う。
ただの私のワガママだけれど。
ずっと悲しみの中にいるけれど、先日の八田社長の「京都アニメーションは、これからも世界中の人たちに夢と希望と感動を育むアニメーションを届け、社員、スタッフの幸せを実現し、社会と地域に貢献していくため、手を差し伸べて下さる方々とともに、必死に戦っていきます。」という言葉に励まされた。
こんな時でも私は京アニから希望をもらっている。なんとも不思議な、気持ちである。
ほんとうに、素晴らしく、すてきな、スタジオなのだ。
悲しみの中でも、思わぬやさしさに触れることもあった。
夫は、あからさまにショックを受けている私にそっと寄り添ってくれた。
しかしそんな彼が、翌日、なんと息子の保育園道具一式を忘れて登園した。
ランドセルを忘れて学校へ行くようなものだ。
彼もまた、衝撃を受けていたのだ。
思い起こせば、私が「京アニ」を明確に認識したのは、05年、大学生のころ、当時お付き合いしていた夫に「これは必修科目だから」と『AIR』を見せられたのがきっかけだった。
信じられないほど美しく髪がたなびき、特徴的なキャラデザが違和感なく動き、夏の日差しが眩しくて、思いのほか重たいストーリーを、美しい映像と音楽とが包み込み、調和していた。その世界に没頭させられた。
観ながら頭が痛くなるほど泣いたが、夫は私以上に、ちょっと引くくらい泣いていた。
京アニファン歴は、夫の方が長いのだった。
その日は2人で晩酌した。酒は買い忘れた。
夫は「『MUNTO』OVAからのファンはなかなか少ないと思うんだよね」と語った。
鯵の刺身が美味かった。
職場では上司がその話題をそっと避けてくれたりした。おかげで無遠慮な言葉に傷つけられることはなかった。
事件に関するちょっとした雑談では、少し救われたりもした。クリエイターに敬意のある人たちで良かったと、心から思った。
現在『劇場版 Free! Road to the World 夢』という映画が上映されていて、毎週末劇場に通っている。
これを見るときは、本当に、緊張した。
予約したときは、ただただ映画を観れることと、週替わりの特典を楽しみにしていた。
こんなことになるなんて、夢にも思っていなかったのだ。
なまじいい席をとってしまったばかりに、いっそう緊張した。
今私は、映像を浴びて大丈夫だろうか。
特典にはしゃぐ方々に救われた。隣の方は、劇場に入った時からずっとお通夜のようだった。
どちらも気持ちも痛いほどわかった。
始まる前から泣きそうになりながら、Twitterに緊張を吐き出しつつ、最後に「たのしんでくる!」と書いた。
精一杯の虚勢だ。
でも、作り手たちは、この映画を楽しんでもらおうとつくったはず。
1秒も見逃すものか、という気持ちで挑んだら、なんと、水泳シーンなどコマ送りのようで、これまで見逃していた部分までよく見え、それはそれは面白かった。
冒頭の部分で事件とも重なって響くシーンがあって、どうしても、泣いてしまったけれど。
それ以降は初見時に次ぐ楽しさだった。頰の筋肉が上がりっぱなしだった。
どんなことがあっても、作品の良さは目減りしないのだとわかった。
いつもこのくらい脳みそが働いてくれたら。
だけどこの時は、ややハイだったようにも思う。
今後、犠牲になった方の名前が明らかになったら、しばらくはちょっと、みれないかもしれない。
京アニは監督以外にも、色々なポジションのスタッフさんを、誰が、なにをして、どんな風に取り組んでいるか紹介してくれる機会が多かった。名前を知ってるスタッフさんも多いし、その存在を割と近くに感じていた。
だから、もうこの方の作ったものを見られないんだな、とわかるのが今はとても怖い。
この文章にオチはない。
明日もまた涙を流しながら静かな朝を過ごすのだろう。
側からみたらまずいように見えるかもしれないが、日中、自分の気持ちと向き合う時間があまりないので、そう悪くないのではないかと私は思っている。
少しずつ世間の目が他に移っていることに安堵しつつも、悲しみは尽きない。
このままでは何も書けなくなってしまいそうだったので、絶対読んでも楽しくないよな、と思いながらしたためている。
自分がエンターテイメントにどれだけ救われていたのか、今、痛いほどに実感している。
ものを作る人々の営みは尊い。
その手は眩しく、美しく、愛し、憧れずにはいられない。
私の日常を支えていたのは京アニだった。
ほんとうに、だいすきです。
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