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【短編小説】神様
雨の音が世界を埋める。
電灯を点けなくても、かろうじて室内は見渡せる。
薄暗さが夜の予感を伝えながら、静かに時間は沈殿する。
白と黒の鍵盤の上、すっと差し出された華奢な指が踊り始めると、視界に色が付いたように見えた。
指は踊る。
迷いなく間違いのない鍵盤を、瞬時のうちにどうやって選ぶのか、私はどうしてもそれが不思議だった。
息を飲んだまま、私は指が踊る様を見ていた。
白、黒、白、白、黒。
ものすごい速さの中で、音階を刻み、重ね、流れるように『音楽』は生まれ、この部屋の中で存在した。
私はそれを、ただ見守る。
迷いのない指。迷いのない腕の動き。迷いのない体の揺れと、それに従う長い髪。
姉は、ピアノを弾くときにだけ、私にとっての神様だった。
目に見えなくて美しいものを、創造できる『神様』だった。
力強く、冷静で、絶対的。
「訓練や、練習を積むことで、誰にでも出来るわよ。」と姉は言う。
「私は何かを作り出しているのではなくて、もともと在るものを、練習して再現できるようになっただけだもの。」
怒涛。圧巻。繊細。
今、目の前にあるものを言葉に置き換えようとして、どんなに頭を働かせてみても、姉の指先から生まれて、この部屋を埋め尽くし染め上げる『音楽』を、捉えられる言葉を、私は見つけられず、ただ黙って、その指先を見ている。
計算。重奏。構築。消滅。繁栄。流動。
どれも違う。どれも、一瞬現れるその欠片しか掬い取れない。掬い取った瞬間に、目の前にあるものは形を変えて、私はその度に取り残されたような孤独を憶える。
躍動。静寂。月の光。大地。
私は、見たことのない世界を見ていた。目の前にある雨に閉ざされた室内に満ちた音楽を通して、私は訪れたことのない場所を垣間見、匂いを嗅ぎ、永遠に思いを馳せた。
夜。闇。湖。風。
地面を叩く雨が描く輪は一瞬に解け、違う場所に別の輪が結ばれ、解ける。それが幾億と重なり、耳鳴りのような雨音になる。
いつか美術館の裏庭の池で見た、水面を揺らす雨の輪と、時間の止まった昼下がり。
私がどうしてここにいて、こんな景色を見ているのかということすら思い出せなくなる。
私は誰なのか、今がいつなのか。
全ての記憶を失った病人のように、私はただ自分がそこに在ることだけを覚える。
そんな景色を脳裏に浮かべる。
*
姉は、脚が不自由だった。生まれつきではない。
小学校の頃、帰宅途中で車に接触され、左足が動かなくなったのだという。
私が知っている限りでは、それ以来、姉はこの自宅の二階の部屋で、どこへも出かけず、暮らしていた。
この年の離れた姉の部屋を私が訪れることを、両親は嫌がった。
社会にも出ず、他人との接点を持ちたがらず、一人きりピアノを弾いて過ごす姉の影響を受けることを恐れたのかもしれない。
だから私が姉の部屋を訪れるのは、両親が外出した時に限られた。
私が訪れると姉はいつも穏やかな顔で静かに笑って、私の好きな曲を選んで弾いてくれた。
姉は食事の席でも、一階へは降りてこようとしなかった。
左足を引きずりながら、自分で歩くことはできるけれど、姉は二階の自室の中で、一人きりの世界を築いて暮らしていた。
食事の席で、父も母も、姉のことを口に出そうとはしなかった。
私たちは元から三人の家族で、幸せな夕食を囲んでいる、そんな風に思いたいのかなと、思う。
日々の暮らしの景色の中に居ない姉。
朝起きて、朝食をとり、学校へ行く。
帰宅して、夕食を食べて、家族で笑う。
そんな暮らしの中で、もとから姉など居なかった三人きりの家族だったように、私もいつしか思うようになっていたかもしれない。
姉は姉。家族ではなくて、姉は姉という存在。
二階の部屋に暮らしている、脚の不自由な、『神様』。
時折、姉が急にいなくなってしまうような錯覚に囚われる。
ある日二階の部屋の中が空っぽになり、両親は「何言ってるの、お姉ちゃんなんていなかったでしょう」と不思議な顔で私を見返す。
二階の部屋から聞えてきたピアノの音がしなくなる。永遠にしなくなる。
そんな日が、ある時ふいに突然訪れるのではないかと、私は泥のように弛む灰色の不安を胸に抱く。
姉の存在。
姉の作る圧倒的で絶対的な『音楽』。
迷いなく動く、白く冷たい指先。
それを操る『神様』である姉。
*
いつしか、姉の視線は不確かになり、私が訪れても私を真っ直ぐに見返して微笑んでくれることはなくなった。
焦点の合わない目でどこか遠くを見つめながら、私の名前を呼び「いらっしゃい」と髪を撫でてくれる。
姉は、早晩、きっとどこか、私の手の届かない場所に行ってしまう。
私の訪れを喜んでくれる姉を前にしながら、私は胸の中、そんな灰色の泥の沈殿を黙って見るようになってしまっていた。
*
姉はいつも足首まで隠れる長いスカートを身に着けていた。
夏も冬も素材は違えど、姉はいつも長いスカートで引きずる脚を隠すように、私に笑いかけた。
「どうして姉さんは、いつも長いスカートを履いているの」
無邪気さを装って残酷な質問を投げた私に、姉は少し黙った後、「秘密を見せてあげるわね」と言った。
ゆっくりと捲りあげられたスカートから、白い腿が現れる。
そこには引き攣れのような大きな傷が在った。筋肉まで破壊されたのだろう、姉の人生を奪った傷。何物かが、自由を、希望を、人との社会との繋がりを持てる自信を、姉から奪った明確な証。
言葉を出せないまま真っ直ぐ見下ろす私に、姉は何も言わず困ったように静かに笑って、それを再びスカートの下に隠した。
言葉は要らなかった。姉が姉である必然の証拠。姉が存在し、『神様』になる道筋を付けた証。
私はそれを見た夜、ベッドに潜って暗闇の中、白い腿の無残な引き攣れの痕を、瞼の裏に繰り返し描いた。
それは大きすぎず、小さすぎず、姉の存在理由を示す絶対的な形をしていた。
痛ましいと思う人もいるだろう。醜いと目を背ける人もいるだろう。
だけど、それは、私の目には、姉の存在そのもののように、とても美しく純粋で高貴なもののように、思われた。
私には無いもの。姉には在るもの。
同じ両親から生まれ、平凡に日々を暮らす私と、自分の世界の中で『音楽』を生まれさせている姉。
私には無いもの。姉には在るもの。
世間の人達は、不自由な脚で一人の世界に閉じこもる姉に同情をする人もいるだろう。
両親さえも、そうかもしれない。
普通の世界に健常に暮らす、つまらない私が正しい姿のように思われることもあるだろう。
何が正しいとか、何が間違っているとか、そんなことが大切なのではない。
大切とか瑣末とか、そういう問題でもない。
私にとって、姉は特別な、誰にも知られぬ世界を指先から象ってみせる『神様』。
それだけの、こと。
*
化粧もしていないのに、姉の肌は白く透け、睫は黒く影を落とす。
姉は美しい人なのだろうと思う。
どんなに努力したとしても、同じ親から生まれたことを差し引いても、私は姉にかなわない。
これは嫉妬ではない。ただの、事実だ。
*
ある雨の日に、姉が弾いてくれた曲。
「ドビュッシーよ」
「ドビュッシー」
世界を埋める雨だれと、姉の良く動く白い指先が間違いなく押さえる『絶対』。
「姉さんは、私が死んだら悲しむ?」
「悲しむわよ」
「姉さんは、どこかへ行ってしまったりしない?」
「何言ってるの。行かないわよ」
*
入学した時には永遠に続くように思われた中学校も、気付けば卒業の時期を迎え、気持ち新たに入学した高校も、受験に追い立てられるように勉強をしているうちに、終わりの季節を迎えてしまった。
私は大学に進学が決まっていた。自宅から通えない遠くの大学に行くには、家を出なければいけない。
姉は、私が家を出ることを知ると、明るく笑って「頑張ってね」と言ってくれた。
私も表情を崩さないように、気を張り詰めながら、なんでもない口調で「ありがとう」と言った。
引越しを迎えた日、私は家から荷物が運び出されるのを見ながら、姉とはもう会えないのかもしれない、と静かに思った。
それは穏やかに心に沈殿していた灰色の泥が、光を浴びて、白日に晒されているのを見ているように思えた。
*
姉が死んだことを、私はその次のお正月、帰宅した時に母から聞かされた。
長く蝕まれていた病気が、あったのだという。
病院に行くことを拒んだ姉は、誰も気付かぬうちに、ベッドの中で息をしなくなっていたという。
私は、そのことを聞かされながら、姉の姿を思った。
今はもう居ない、と言われても、最初から居なかった、と言われても、たいした違いではないように思われた。
ただ、姉はもう居ないのだ、という言葉だけが、ぽっかりと月のように浮いて、私の胸に残された。
姉の部屋は片付けられ、物置として姿を変えていた。
姉の形跡を残すまいとしたのか、ベッドや本棚、ピアノまでが処分された様子で、積み上げられたものの中から姉の存在した証拠は何一つ見つけることはできなかった。
体の表面に圧し掛かる重力が、いつもよりも重く感じられながら、私はそれが自然なことなのかもしれないと、体の中でざわめく泥を再び静かに沈殿させるよう、心を穏やかに保つよう努めた。
このままでは、誰にも忘れられてしまいそうな気がして、怖かった。
私自身までが、いつしか姉の、絶対的だった『神様』の存在を、記憶から失ってしまうようで、怖かった。
ただ、怖かったけれど、それが自然なことのようにも思われた。
自然って、どういうことなのだろう。
在るがまま、ということだろうか。
*
今でも、雨の降る薄暗い昼下がりには、姉の幻を見る。
時間が止まったように錯覚する雨の午後。
そんな時に、不意に思い出す姉の白い指先を、私は尊い気持ちで見守る。
そして、それに再び名前をつける。『神様』と。