朝鮮半島と核
前回の記事で、韓国では自前の核兵器を保有すべきだという意見が強まっていることをお伝えしました。
世宗研究所の鄭成長(チョン・ソンジャン)韓半島戦略センター長が、先日、都内で行った講演をベースにしたものです。
その続きとして、実際に韓国政府が核開発を決断したときに何が起き得るかを予想してみて、それらに関する鄭成長氏の意見を紹介しよう…と考えたのですが。
朝鮮半島と核兵器の歴史を改めて調べ直すうちに、その歴史をちょっと辿ってもいいかなと思った次第です。
「戦術核30~50発を満州に落としたかった」
朝鮮半島と核兵器。
両者の絡みは1950年6月に勃発した朝鮮戦争まで遡ります。
仁川上陸作戦を成功させて韓国を滅亡の危機から救い、さらに北朝鮮軍を中国との国境を流れる鴨緑江近くまで一気に押し返した国連軍。しかし、そこで中国軍(名称は「人民志願軍」ないし「人民義勇軍)が鴨緑江を超えて参戦します。途端に劣勢に陥った国連軍は撤退を重ね、ソウルを再び中朝連合軍に奪われてしまったのです。
「クリスマスまでに兵士たちは故郷に帰れる」と楽観論をぶっていた国連軍最高司令官のダグラス・マッカーサーでしたが、見通しの甘さを思い知らされました。
そうした窮地に、アメリカでは「核兵器を使うべきだ」という声が出るようになります。
当時のトルーマン大統領は核使用の可能性は排除しないと記者会見で述べ、マッカーサーも、北朝鮮のみならず中国の軍事目標にも戦術核を落とすことを望みました。
朝鮮戦争が休戦を迎えた翌年(1954年)、74歳の誕生日に行われたインタビューで、マッカーサーは、こう悔しがったということです。
「安東(現在の中国・遼寧省)から(吉林省)琿春にかけて、鴨緑江を超えた満州各地の空軍基地や兵站施設に30発から50発の戦術核を落とそうと考えた」
「それだけの爆弾で、十二分に仕事を達成できたのだ!」
結果的に、朝鮮戦争をめぐる意見の相違からマッカーサーはトルーマンによって解任され、30発から50発もの戦術核が中国に落ちることはありませんでした。
「朝鮮の首に放射能のカラー」
マッカーサー構想は、これにとどまりません。
同じインタビューの中で、彼は「北朝鮮領まで平定したあと、どのようにして中国軍が再び鴨緑江を超えて朝鮮半島に攻め込むことを防ぐか」の案を披露していました。
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