【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 1
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となりの有栖川宮記念公園の森から不如帰の啼く声が聞こえるのは決まって午前三時過ぎのことだった。
大御所と呼ばれる作家先生の万年筆書きの原稿をチェックしていた早坂柊は、大あくびをすると丸眼鏡を外して目薬をさした。瞬きながら目を向けた窓に夜明けの気配はまだなかった。
再び原稿用紙に目を向けると、またひとつ不如帰が啼いた。
どことなく切なげなその声が夜気に乗って網戸から初めて入ってきたのは今から四年前のこの季節、やはり今くらいの時刻だった。そのとき目を通していたのが椰哉子の八ヶ岳南麓を舞台にした原稿で、作品世界に傾注するあまり生まれて初めて幻聴を耳にしたのだと少しだけ慄いた。
——その日の午後。
『え? 本当に?』
神奈川県中郡二宮町にある椰哉子の海辺の家で、打ち合わせの合間にその話をすると彼女は目を丸くして笑った。いつもの鼻にかかった甘い声で、
『不如帰なんて、どこか遠くの深い森に住んでいるものとばかり思っていたし、暗闇で啼くことも知らなかったわ』
しんと静まる都心の闇にまたひとつ声が響いて柊は我に返った。フッと笑ってシャープペンシルを持ち直す。仕事はあと数ページだった。
午前十時過ぎ。アラームで起床した柊は、まず熱めのシャワーを浴びてしっかりと目を覚ます。いつものように洗濯機を回してから髪を整え、肌の火照りが引くと今日はネイビーのギンガムチェックシャツを着て、ベージュのチノパンを履く。そしてフレンチプレスで淹れたブラックコーヒーを飲みながら新聞を斜め読みして、麻の紺ブレに袖を通し、部屋を出た。
薄曇りの空の下、外苑西通りの交差点前でハッと思い出した。来た道を取って返しながらショルダーバッグからA4の茶封筒を取り出す。
小さな郵便局の前に着くとそれをポストへ投函し、周囲に人がいないのをいいことに、小さくパンパンと柏手を打って礼をひとつ。柊は足早に日比谷線広尾駅へ向かった。