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永く続く付き合いとは?
25歳の時に交通事故による脊髄損傷で車椅子人間になったが、この生活ももう10年経とうとしている。
思えばこの10年たくさんのことがあったがそれはまた個別に、ふと思いついた時にでも書くこととしよう。
最近つくづく思うのが、「付き合いが減ったなあ」ということだ。
友人と遊ぶ、同僚と話す、何かについて本気で語り合う(主に仕事の内容が多かったが)、互いの共通悪に対して愚痴を言い合う。
こんなことがこの1年で激減した。
これに直接関連するわけではないが、過去に周りの人が自分から離れていく現象を2度経験したことがある。
1度目は事故に遭い障害をおった時、2度目は前職を辞めた時だ。
正しく伝わってほしいのだが、この2度の現象はあくまで私見であるしその現象が私にとって苦く悪い経験だったわけではない。
ただこの現象が面白いことと、共感できる人がいればそれはそれ面白いので言語化するということを理解してほしい。
2度の人が離れる現象
1度目に経験した時は、障害をおった時というよりも、「障害者であることを相手が目の当たりにした時」と言った方が正しいかもしれない。
これに関しては原因を正しく言語化することができない、が、感覚的には、「そういうこともあり得るよね」ということだけ理解できている。
日常にある正常な状態に異物が生じた時、それを排除したがるのと同じ原理なのではないかと勝手に解釈している。
面白かったのが2度目の前職を辞めた時である。
こっちのほうがむしろ人間的な部分が表面化していてわかりやすい。
辞める直前、それなりに仕事をこなし、職場に心理的安全性を感じていた。
言葉選ばず言えば、「必要とされる人」という一つの地点に長い時間をかけて登頂し終えた自覚があった。(今となっては驕っていたと思うが)
「辞められたら困る」「世話になった」「応援している」
これらの言葉から、多少なりの求心力を持ったと勘違いしていたのだろう。
文脈から読み取れると思うが、これは「人材」としてであって「人間」として求心力があったわけではないということを退職後思い知るのである。
アリストテレスのいう知慮のある人(自分にとっていいことがら・ためになることがらに関して立派な仕方で思量しうる)という言葉を借りていうとすれば、業務上知慮のある人であっただけで、彼らの人生においてそうではなかったのだろう。
※言葉の解釈を間違えているかもしれないが
繰り返しになるが、これにおいて決してネガティブな印象を持っているわけではないし、彼らを責めるわけでもない。
おそらく逆の立場であっても起こりうる。
自分がそのように振舞う可能性も極めて高い。
両者にとって必要のない付き合いが減っただけで、むしろ残る付き合いが洗練されたと捉える方が自然である。(どれだけ不要な付き合いがあったかがよくわかる)
ここで言いたいのは、利害関係のあり方や何かしらの要因によって、私の人生でこういうことが再現性をもって起こりうるということだ。
ではどういう時にこういうことが起こるのか、残った付き合いから考えてみたいと思う。
どのようにして今ある付き合いは残ったのか
まずは離れず残ってくれた人がどのような人なのかを整理したい。
①障害をおう前から付き合いがあった人→NO
これは1度目の現象から当てはまらないと言える。
つまり健常者であった私を知っているか否かはこの現象の直接的な原因ではない。
②障害をおってから出会った人→NO
これにおいても2つ目の現象から例外は当然ながら起こりうる。
③一緒に苦しい時間を共にした人→NO
比較的世間一般として該当しそうなものだが、2度目の現象においてこれも否定できる。
仕事で共闘したからと言って永く付き合いが続くわけではないと言える。
④共に過ごす時間が長かった人→NO
学生生活でも、仕事上で何年も同じ部署だった人たちも多くいるが、両現象から決して過ごした時間が今後の付き合いに永く影響するものとは言い難い。
⑤プライベートを一緒に過ごしたことがある人→NO
1度目の現象でまず否定できるし、職場の人で飲みに行ったり休日に会ったりする人たちはたくさんいたものの、2度目の現象でも離れた人もいることからこれも否定できる。
⑥共通の趣味話題がある人→NO
当然仕事でもプライベートでもそのような人はいたが、両現象で離れた人も含まれる。
⑦弱いところを見せたことがある人→YES?
これはよく言われることだし、極めて離れなかった人たちに該当する気がする、がしかし、1つ目の現象がこれに当てはまると考えるならば否定的な要素もある。
⑦が一番近しいのでもう少し深掘りしたい。
⑦に該当する人の中で、残った人の共通点は何か。
社会的や肉体的な弱さを見せたところで付き合いが永くなるとは考えづらい。そう考えると精神的な弱さであるが、あまりの弱さに愛想を尽かし去る人も必ず存在するだろう。
(実際に仕事上でこの人ダメだなと思う人は能力より致命的なだらしなさが理由であることが多かった)
どのような弱い部分を曝け出した時、その人との付き合いは永くなるのか。
これは仮説の域を出ない上に言葉遊びのようになってしまうが、③〜⑥のうちどれかを経験する中で、
「強い自分であることを意図的か否かに関わらずその人の前で一瞬でもやめたことがある人」
が当てはまるように思う。たぶん例外なく。(オアシスかよ)
誤解がありそうなので言っておくがこれは万人に当てはまることを語っているわけではない。
私という人間は、人に頼ることを小さな頃から比較的悪としてきた。
「自立」という言葉が人生でずっとまとわりついている。
だが、10年前に「自立」は軽度に剥がれた。
人の手なし生活できなくなったからである。
この時点で他人に生かされるということを物心がついてから初めて覚えた。
(もちろん自己実現のため、他人に教えを乞うことはあったがこれは頼るというよりも利用するという感覚のほうが自分の中ではしっくりくる)
とはいえ「自立」は執着心が強かった。
なるべく頼らなくていいようリハビリに励んだし、仕事もプライベートも信頼関係を守るために弱い部分をひた隠しにし、知識武装していることも、ポーカーフェイスが癖付いているのも自覚がある。
付き合いの長い友人は、カッコ悪い部分が表に出ないよう振る舞っている私を何度も目にしているはずだ。
こう言った条件下で「強い自分であることを意図的か否かに関わらずその人の前で一瞬でもやめたことがある」ことが再現性を持って付き合いを永くしているように思える。
これならば、離れた人の中に、職場で目上の人が多いのも納得できる。
弱みに漬け込まれないよう反発し比較的予防線を張っていることが多いからだ。(笑)
上司も部下もだが、信頼を失わないよう自分を強く見せていたのも、ドライに対応していたことも事実である。
これらのことから、一瞬たりともこの偽りをやめることなく付き合い続けた人、つまり強く見せ続けた人が再現性を持って離れていくのであると、ここに明らかになった。
事象として言語化してみるととても面白く感じる。
これからの出会いはどうなる?
では、今後新しく出会った人にはどうしていくのがいいのだろう。
残ってくれた人の事象を見るに、永い付き合いになるには伏線を回収するように、予め強く見せ、その後にそれを解く必要があるように思える。
しかしこれでは、初対面で仲良くなることができない。
これに関しては未だ謎だ。
すぐ仲良くなれる人を観察していても一向に答えに辿り着けない。
(私には酒という武器がないということを言い訳にしないよう努めたい)
今でも付き合ってくれている人々は皆、コミュニティ、学校、職場など、長時間共に居ざるを得ない環境にいた。
だからこそ先ほどの定理でうまくいったのだろう。
そう考えると、複数回コミュニケーションを取ることが必須なのである。
どうしたら初対面から幾度のコミュニケーションを取る場を持つことができるのか。
引き続きこの課題の対処法を、これから先の人生で試行錯誤する必要がありそうだ。