
今の私を作ってきたもの
なんだか早すぎる時間に目が覚めました。布団で、何度も寝返りを打ったり、猫の背中を撫でたりしてたけれど、もう眠れそうになくて、起きることにしました。起き出す直前にふと思ったことを書いてみようと思います。
集団とか、コミュニティとか、昔から嫌いだったのに、今、「みんなの元気サロン」という月額制のコミュニティを作り、2年が過ぎました。
ここで私は何をしたかったんだろう。私が毎日書き続けているメルマガの頭に、「誰もが尊重され、誰もが正しい場所」とあります。メルマガを書こうと決めた時、ためらいなくこの言葉が出てきて、それが私の作りたい場所だったのだ、と、今、再確認しています。
人は価値観も考え方も皆、違う。生きてきた歴史があり、それまでの環境があり、意識するとしないに関わらず、その人なりの偏った思い込みがたくさんある、人間ってそういう生き物だと思っています。偏りを咎めることなく、そのまま認めて尊重し、その上で、できる時にできるサポートをする、もしくは必要があれば、サポートしてもらう、そんな集まりになればいい、そう思って始めました。
でも未だに、コミュニティというものがどういうものなのか、しっくり来ていない部分もあります。
小林秀雄の講演集のなかに、たしかこんなセリフがありました。
人は集団でモノを考えることなどできない、それは集団で恋愛できないのと同じことである、
しかも、集団が発するイデオロギーには反省がない、だから集団になると、とたんに人は恐ろしいほど無責任で醜い存在になる。常に考える主体は「集団」ではなく「私」であるはずだ。
それで、苦い体験を思い出しました。学生だった大昔、私は遅れてきた安保世代でした。日本中を騒がせた70年安保闘争はとうに終わり、学校は静けさを取り戻して、平安でした。
ところがある日、学内で「X君刺傷事件」というちょっとした事件が起きました。事件を揉み消そうとした大学側と、一般学生の一人として私は対立したことがあります。全く政治色のない、単なる意義申し立てでした。しかし学校側は、事なかれ主義で隠そうとし、それはおかしいだろう、と思う仲間が集まり、いつしか私たち10数人は、「〇〇連絡会議」という名前で括られる集団になっていました。
それに対して、大学側についた「民青」の学生たちと、次第に、学内で対立する形になっていきました。民青とは、日本共産党の下部組織で、私が通っていた立命館大学というところは当時、日本共産党の色が濃い大学だったのです。
そして年末の臨時学生大会が開かれ、「〇〇連絡会議」は極左翼の集まりだ、とか言われ、大学から出ていけとののしられ、私たち10数名は文字通り、学校の正門から、校外へ押し出されたのです。
全く、信じられない出来事でした。
何故、ちゃんと学費も払っている大学から締め出されないといけないのか、本当に訳が分からなかった・・・ただ、私は言いたいことが伝わらなくて、悔しくて泣いたのを覚えています。
しかも、その翌朝、門の外では知らない学生がビラを捲き、それを見た時の驚き!!
私たち「〇〇連絡会議」への東京大学全共闘からの激励と支援ビラ、だったのです!
眩暈がしました。
全共闘は「民青」と対立しているから、同じ仲間? 冗談じゃないですよ!見も知らぬ、怖そうな全共闘とやらに支援してもらう筋合いはないです!
いったい何なの、これは! ものすごく大きな渦に飲み込まれそうで私は必死に逃げました。
最初の自分の思いがどんどん捻じ曲げられていく、仲間の間でも亀裂が深まり、得たいのしれない恐ろしさに、私は何をどうすればいいのか、まるで迷い猫みたいでした。集団の恐ろしさ、伝わらない個人の思い、利用される政治の力、誰かの思惑、「事実」そのものが、少しずつゆがめられていく底なしの恐怖。
小林秀雄さんの言葉を聞いた時、その学生時代の体験がフラッシュバックする気がしたのです。
未だに集団に苦手意識を持っているのはそんな過去があるからかもしれません。種苗法に反対するのも、学校給食がオーガニックになるのも、いいとは思うけれど、自分が何かの会に所属することへの大きな抵抗があります。反対するなら、私個人で反対する、そのかわり、自分の言ったことには、きちんと、責任を取りたいと思っています。
ただ、私は自分が未熟だと知っているので、いつも、ちょっと待てよ、私が間違っているかもしれない、という視点を忘れたくないのです。
おそらく今後もそんなスタイルの「みんなの元気サロン」になるのかなぁと思っています。
今の私を作ってきた、ナラティブの一部をやっと、書くことができました。ちゃんと書ききれてないと思うけれど、今はこれが精一杯です。
読んでくださった方へ、ありがとうございました。