コーチングが嫌いな理由
先日会った人が
「私、コーチングって嫌いなんです」と言いました。
どうして嫌いなの?と聞くと・・・
「質問ばっかりするやつでしょ?
なんだか、バカにされている気がする、わかりきったことを何度も聞いたり、
私が言うことをそのまま繰り返して、ああ、オウム返しって言うんでしたっけ・・・なんか、わざとらしくて嫌」
なるほど、確かに言われてみると、その気持ちもわからなくはない・・・
他には?と、更に聞いてみました。
「結局、質問に応えていると、自然とコーチの考えている結論にたどり着く、なんだか仕組まれているような気がする」と。
ふむふむ、だいたいわかってきました。
彼女は、どうやら新米コーチか、もしくはコーチングの基本を取り違えているカン違いコーチに当たってしまったようでした。
私はコーチングという言葉を最近、使わないようになりました。
こういった誤解をする人が少なからずいる、と、知ってからです。
彼女が嫌だと言った「コーチ」は本当の意味での質問ではなく、単に「誘導質問」をしただけでした。誰でも、誘導されることを好む人はいません。
どこか、自分の意図とは関係のない所へ連れていかれる、そんな状態を好きな人はいないでしょう。
誘導質問になってしまうのは、その「コーチ」に、自分の考えた解決法が正解だ、という不遜な思いがあり、そこから、一歩も動かないからです。
自分が思う正しい答えを、率直素直に教えるのならまだしも、誘導質問をすることで、相手に答えさせようという姑息なやり方が、相手の中のイライラモヤモヤを掻き立てるのです。
こういうコーチングへの誤解を広めてほしくない、といつも感じてきました。
もちろん、私も新米コーチだった頃、あ、これ誘導になってるかな、とか、それとも戦略としての質問をしているかな、など、セッションの最中に何度もアタマの中で自問自答しながら、質問をしていました。
質問には大きな力があります。
相手の思考の方向を変えるハンドルのような働きがあります。無意識にそれを感じる相手は、どこかで質問されることに対して身構えています。しかしその身構えが少しずつ薄れて、相手が自分の心の森に自由に沈んで行ける状態を作り出すまでに、時間がかかります。
オートクラインが起きる状態とも言いますが、そういう解き放たれた状態になるとはじめて、二人の間に「対話」が起きるのです。
対話によって、目の前の相手と柔軟に思いを巡らせ、相手が何かに気づき、もしくは、二人で何かを発見し、その同じ絵を見て、驚きや喜びや、納得感を共有するという、私が信じるサポーティングとはそういう対話がある関係性です。
セッションが終わった時、スタートする前には、本人もコーチもどちらもが、思いもつかなかった答えが生まれます。
その時の充実感や喜び、それを一度でも味わった人は対話サポートのすばらしさを感じることができるでしょう。
コーチという言葉はどうしても、「私、質問する人、あなた、答える人」という構図になりがちです。
しかし、私が好んで使うサポーターは、「私とあなたの間にある答えを一緒に見つける人」というニュアンスです。
サポーターの仕事は、何をおいてもまず、互いに解き放たれた状態を作ること、そして対話を起こすことだ、と私は思っています。
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