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忘れな草~Forget‐me‐not~



第1話

真っ暗闇だ・・・闇の中に堕ちていくような酷い頭痛がして、ゆらゆらと大海原の中心で揺れる一艘の小舟に大の字になったまま乗っているようだ・・・
何も見えない、何も聞こえない・・・誰もいない・・・そして天地すらわからない、そんな暗闇の中へとゆっくり、静かに深海に沈んでいくように落ちてゆく・・・

(・・・ここは・・・いったいどこだ・・・?)

そう思うようになると今度は、灼熱の太陽に照らされているような、とても暑くて眩しい場所にいるようだ・・・
俺は永い眠りから覚めたようにゆっくりと瞼を開いた。
焼けるような眩しさで目が眩んだ。目の前でカメラのフラッシュが光ったようだ、眩しすぎて目が開けられない・・・
意識が、はっきりしてきた・・・
ようやく自分の身体も確認することができた・・・
だけど脳だけがこの大海原に放りだされて海中に沈んでいくかのようにゆらゆらと揺れながら落ちていくようだ・・・
眩しい光に照らされながら、ゆっくりと瞼を細めてみると、俺の視界に何かぼやけたモノが映っている・・・
それは逆光になっていて、ただ俺の目の前に黒い影のようなものが2つほどぼやけて見えた・・・

(・・・いったい・・・これはなんだ・・・?)

そんな眩しさの中、霧が晴れるように俺の視力は完全に回復していった!
その眩しさの正体はリングを照らす星々のような無数のライトの光だった!やがて視覚の横に映っていた黒いモノにも焦点が定まった!トレーナーと会長だ!
2人とも何か俺に呼びかけているようだけれど、何を言っているのか、何を叫んでいるのかまったくわからない・・・俺の脳だけがまだ深海に沈んでゆらゆらと揺れているようだった・・・

(俺は一体どうしたんだ?俺は今どこにいて、何をしているんだ?)

自分の身体が、変なクスリでも注ぎ込まれたかのように痺れて動くことができない。
やっと微かな音が聞こえるようになった時だった・・・


第2話

「・・・い!・・べ!矢部!大丈夫かっ?」
俺のトレーナーの声か?

「矢部!意識はあるかっ?」

今度は会長の声か?俺は2,3度瞬きをすると、悪夢から目覚めたかのようにはっと上半身を起こした!身体じゅうが温い汗で濡れている!トレーナーや会長の声の他に、多くの人々が歓喜乱舞する騒ぎ声までもが俺の鼓膜を突き破る様に響き渡り、俺をやっと現実の世界へと戻した!

するとトレーナーが俺を抱えながら、

「無理するな!まだ寝ていろ!」

その声に俺は周囲を見渡した。俺の目に映ったものはさっき見た大海原ではなかった!歓喜で湧きあがっている大勢の人々の姿が見えた!俺は年季の入った血まみれの青いシートの上に倒れていた!
謎だったすべてのパーツが、今揃った!

(そうだ!俺は試合をしていたんだっ!)

意識を完全に取り戻した俺はトレーナーにすがる様に詰め寄った!

「け、結果はっ?」

俺は会長にもしがみついた!2人とも俺に厳しい顔を向けると、

「このバカ野郎!せっかく勝っていたのに油断なんかしやがって!」

その一言しか言ってくれなかった。

永い眠りから覚めたかのように俺はやっと自分の状況を手に取るように把握できた。
それと同時に打たれたダメージからだろう、脳が小舟に揺られるように、まだゆらゆらと揺れている・・・

(そうか、俺はきっとKO負けしたんだな・・・)

今のこの状態を把握した俺の揺れる脳は、螺旋を描きながら真っ白で無機質な世界の底へと墜ちていった・・・


第3話

何も考えることも、思い出すこともできない真っ白な世界。
さっきまで羽がついていたように縦横無尽にリングの中を動いて対戦相手を翻弄させて、ダメージを一方的に与えていたはずの俺の身体が、今はコンクリートのように重くなり、まともに動くことも言葉を発することさえもできなくなっていた・・・
ただ、相手選手の応援席から聞こえる歓喜の叫び声だけが、俺の鼓膜に突き刺さったままだった・・・
きっと俺は「ラッキーパンチ」と言う、対戦相手が破れかぶれで打ってきたパンチにやられたのかもしれない。よくある「敗けパターン」だった。大逆転負け。どんな格闘技も最後のゴングが鳴るまで勝敗は誰にもわからない。どんなに無様だろうと最後の最後まで諦めない選手にのみ与えられる「幸運」。ラッキーパンチ・・・
3ラウンド終盤、自惚れて「勝利」を確信して油断した俺を勝利の女神が見放した結果だ。
最後まで勝負を諦めず、口や鼻から血を流しながら歯を食いしばって俺に果敢に挑んできた、そんないい意味で諦めの悪い対戦相手に「勝利の女神」はその微笑みを向けたのだ。
たとえこの身が朽ちようとも俺は絶対に最後まで勝負を諦めない!最終ゴングが鳴った後にレフェリーから手を上げられているのはこの俺だ!
俺はいつもそう思いながら試合に臨んできた。なのに完膚なきまでのKO敗け。勝者は応援に来てくれた友人や仲間に手を振って応えている。いつもそれをするのはこの俺なのに・・・


第4話

デビューから3連勝中の俺が初めて敗けた。勝負の世界だ。勝敗は勝負の常だ。俺は天才でもなければエリートでもない。名もなき雑草が誰かに踏み倒されただけに過ぎない。
 俺は、仕事を休んでまで来てくれた友人や、ジムの仲間に合わせる顔がなかった。
俺の対戦相手のように俺も最後のゴングが鳴るまで必死に、がむしゃらになって戦って敗けたのなら、それは仕方のないことだ。でも、俺は勝負において禁忌である「油断」をして敗けてしまった。敗因の原因は他でもない、自分自身だ!
 大事な勝負の鉄則である「最後まで絶対に諦めないこと」を忘れて緊張感を欠いた俺の隙をついて、対戦相手はすべてを賭けて渾身のパンチを俺に叩き込んだ結果だった。

「油断大敵」

どの世界にも通用する普遍的な言葉だ。俺はこの試合で諦めることはしなかった。そこまで追い詰められるようなことはなかった。俺のワンサイドゲームだった。相手選手は王手をかけられた棋士のような精神状態に追い込まれながらも、どんなに惨めな姿を晒しても、傷ついて血を流しても、決して最後まで諦めたり、勝負を捨てるような真似は微塵も見せずに、ただひたすらにその拳を俺に叩き込むために、歯を食いしばって突っ込んできた。ただ、ひたすらに、がむしゃらに、必死になって、無我夢中で俺を倒しに来ていた。

そして彼はその拳に勝利を掴んだ!これがプロボクサーとしての本当の姿だ!

 だから「勝利の女神」は相手を甘く見て油断した俺にではなく、名前すら憶えていない俺の対戦相手に微笑んだのだ。
その彼の後ろ姿をみて俺はプロとして失格だと思い知らされた。そして自分が情けなくて惨めで堪らなかった。いい恥晒しになった俺は情けなくも、トレーナーの肩を借りながらリングを降りていった。そこで意識が途切れた・・・


第5話

気がつくと俺は控室の椅子に腰を掛けていた。うつむいて、誰に声をかけられるわけでもなく、雪崩に遭って身動きの取れない真っ白いだけの世界から抜け出せずにいた。
初めての敗北だった。あれだけ練習して、一般人には説明できないほどの飲まず食わずの苦しい減量の日々を送り、そして自信満々で負けることなんてこれっぽっちも考えず、ただ対戦相手を殴り倒すことしか考えずにいつものようにリングに上がったのに・・・
リングの上ではどれだけ練習しようが調子が良かろうが、どんなに気合が入っていようが、「結果が全て」の世界だ。勝者は光に包まれ「華」となり、敗者は闇へと突き落とされて「灰」になる。そう、俺は初めて「灰」になってリングの上で散っていった。
なぎ倒されていく無様な姿を、応援に駆けつけてくれた仲間や観客の目の前で恥を晒してしまった。涙も声さえもでなかった。こんな惨めな気持ちは産まれて初めてだった。
まさに「光」と「影」の世界。しかも誰も文句のつけようのないKO負け。俺の意識は、敗北と言う重りに耐えられなくなった「蜘蛛の糸」のようにプツリと途絶えた。そこから帰宅して翌日になるまでの記憶がいくら思い出そうとしても出てこなかった・・・


第6話

数日後、俺はまたすぐにリングに立ち上がろうと思った。今回の試合は側頭部を痛めるだけで済んだ。しかし、リングの上ではボクサーは常に「死」と隣り合わせだ。勝利の女神が微笑むか、死神に喉元を喰いちぎられるか、最終ラウンドのゴングが鳴るまで誰にも分らないことを改めて俺は学んだ。もう同じ過ちは繰り返さないと胸に刻み込んだ。

(このまま終わるなんてイヤだっ!)

一瞬の隙が命とりになるそんな駆け引きの世界で、俺はどこまで登っていけるのか?まだ4戦程度の先の見えない自分の可能性に賭けてみたくなって、身体中が震えた!俺はこの世界で生きていこう!と決めた瞬間でもあった。

(もう誰にも負けたくない!あんな惨めな思いは2度としたくない!勝つのは俺だ!)

そう決めると、大学3年生の俺は就職活動などせずに、卒業間近の4年生の1月からフリーターになる事を決めた。
就職をすれば、定時では上がることは無理だろうし、必然的に残業と言う荒波にこの身を持っていかれそうで嫌だった。そう言う理由でサラリーマンになってしまうと自分の時間が奪われ、もぎ取られていくことになるだろう。だから遅くまで仕事をすることになるからジムに通えなくなってしまうのが何より怖かった。それが俺のボクサー生命をズタズタに切り裂いてしまうのが目に見えていたから。俺はまだまだ現役でいたいんだ!誰にも邪魔などされてたまるか!こうなったらどこまでも、どんなに醜くても悪あがきしてやる!誰も俺を止めさせない!
サラリーマンとは違ってフリーターならきちんと定時に上がれるから、俺はフリーターになることに何の躊躇いもなかった。それに、一流大学を出て一流企業に就職することが人生の全てではないと思っていたし、人生なんて人それぞれの十人十色だ。サラリーマンのような会社員になるもよし、俺のように夢を持って夢を追いかけるのもいいと思っている。
そう思うと俺はものすごく広大な「自由」を手に入れたような気がして嬉しかった!
高い学費を出して卒業までさせてもらった両親には申し訳ないけれど、これが俺の「生き方」なんだ!人生は1度だけ!後悔だけは死んでもしたくなかった!
だから俺は目の前に開かれた「プロボクサー」と言う茨の道を突っ走っていく覚悟をきめた。

卒業式当日、キャンパスに並んで咲く桜が俺の花道に見えて胸の鼓動が高鳴った!


第7話

バイトは大手携帯電話会社のテレオペだった。俺は大学卒業とともに実家を出て6畳一間のアパートを借りた。初めての独り暮らしだ。そんな部屋の中には小さなテレビとDVDプレイヤーがある。これはボクシング中継を観たり、録画したりするためのマストアイテムだ。俺は暇さえあればいろんな選手の試合を観て研究のための資料としていた。今まで録画してきたボクシング中継のDVDだけで部屋に備わっているクローゼットがいっぱいになっていた。そして布団一式と、食器類、小さなテーブル・・・
俺の部屋には必要最低限の物だけあればよかった。だから俺はこの部屋で暮らしていても不自由さを感じたことはない。俺にとってその部屋は眠るだけの部屋だから、特に何もいらなかった。
スーパーもコンビニも近くにあって、しかも最寄り駅から歩いて5分で、家賃が月5万円と言うのも魅力的だった。不動産の人にここを案内された時、すぐに気に入って契約書類に印鑑を押した、そんな部屋だ。


第8話

職場は東京の平和島にある運輸系の会社のビルが立ち並ぶ広い敷地にあった。そこではいろんな運送系の会社のトラックやバイク便がビルの中を走り回り、職場のフロアから出る時には気をつけないとそれらのトラックやバイクに轢かれてしまいそうなほど、トラックとバイクが引っ切り無しに広いビルの中を上下に動き回っていた。
ここのバイトの時給は1300円と言うのはとても魅力的だったし、京急平和島駅が最寄り駅だったから、バイトが終われば京急の上り線に乗って、そのまま品川で降りて山手線に乗り換えてジムのある五反田まですぐに行くことができた。だから俺は迷わずこのバイトを選んだ。そこには老若男女問わず、いろんな人達がいた。一流大学を卒業していて、頭もよくて仕事もできる人なんて掃いて捨てるほどたくさんいた。その職場で知り合った人たちになんでフリーターなんかになったのか理由を聞いてみたら、みんなそれぞれにやりたいことや「夢」があるから就職しないでフリーターになったと言う人ばかりだった。
「せっかく早稲田でていて頭も良くて仕事もできるのに、もったいないですね」
と俺がいうと、
「お前だってオレと同じじゃねぇか!」
と一緒になって笑いあった。
 特に一番多かったのは音楽関係の「夢」を持っている人たちだった。職場に赤やピンク、金髪に緑など、思い思いに自分の髪の毛を染めている人たちが多かったから、デスクから立ち上がって50人ほどが働いている広いセンター内を見渡すと、

 ここはお花畑か?

 と言いたくなるほど色鮮やかだった。バンドやシンガーソングライター・・・センターのバイトの人数の約5割は音楽関係だと言ってもいいくらいだ。センターの隅っこにはアコースティックギターが3本も置いてあって、昼休みになると誰かがそのギターを弾いている。ギターを弾くのはバイトだけでなくセンター内の社員さんたち数人も、休憩時間になればそのギターを弾いていた。誰がギターを弾いても、その人の周りに髪の毛をこれでもか!と言うほど染めている人たちが集まるから、そうなるともうお花畑と言うよりも何かの「毒薬」のような気色の悪い「お花畑」が出来上がっていた。
 俺も何度もその輪の中に入って行ってギターの弾き方を習ってみたけど、不器用な俺にはギターは向かないな、と3日坊主ならぬ、3分坊主で終わってしまった。
 音楽関係だけじゃない。役者や画家志望もちらほらいた。女性で多かったのは海外旅行が好きな人だった。聞いたことのあるメジャーな国はほとんどの女性が行きつくしていて、俺にはどこにあるのかさっぱりわからない、名前も聞いたことのない外国への旅行話で盛り上がっている。
あとはシングルマザーも多い。このご時世、女性も能力と努力次第で上に登っていける。それだけじゃなく、会社を起こして社長になった人もいた。その反面、変わり者も少なからずいたけど、そんなヤツらのことなんて俺はまったく気にしなかった。
でも流石にこれだけ多くの人間が揃うと、人間としてどうしても足を引っ張られてしまう「相性問題」がアチコチで虫が湧いたように出てきた。
かく言う俺も、チビで童貞だと思われるある男に何故か露骨に嫌われていた。軽いビンタ一発でぶっ飛ばせそうなガキだったけれど、そいつはなぜか俺に敵意剥き出しだった。まぁ、そんな器の小さなヤツのことなんて気にしなかったけどね。


 第9話

人が10人集まれば十人十色の生き方があり、それと同じ数の「夢」がある。一流大学を出て、一流の企業に就職することだけが最良な人生と決めつけてしまうのは、それはそれでその人の人生だから俺は何とも思わないけれど、もし俺が大学卒業とともにプロボクサーである生き方に幕を閉じてどこかの企業に就職していたら、絶対に俺は後悔していたと思う。「周りの人と一緒の人生なんてイヤだ!」とカッコつけるつもりはないけれど、男なら自分の目の前で光り輝く「夢」をみつけたら、迷わずそれを掴み取れ!と思っていた。
 とにかくここはある意味「個性の坩堝」だから、俺は楽しい人間関係と同じ数のイヤな人間関係もここで学ぶことができた。右を向いても左を向いても個性の強いヤツばかりだったから、いい社会勉強だと思ってつき合っている。
そのお陰か?この先の俺の人生で出会ったウザいヤツや相性の悪いヤツに捕まっても上手くあしらうコツのようなものを身に着けることができた。
「笑ってごまかし、すぐに立ち去るべし!」
俺がここで身に着けた渡世術はこの先の今でも面白いように通用した。


第10話

バイト開始早々、開通したばかりのセンターは緊張感の空気に包まれていて、まるで戦場のように怒号が響いていた。理由は各支店から配置されてきた8人の社員たちによって説明が異なり、統一性を大幅に欠いていたからだった。 
あるオペレーターがマニュアル通りに入力作業をしていると、突然後ろからA社員に、「そこ、やり方が違いますよ!」
という言葉が火種になって、火が着いたオペレーターたちは、
「私はこうするように習いました!きちんとマニュアル通りにやっています!」
と反論する。もちろん正論だ。でも、
「いや、それは間違いだから、今度からこうしてください!」
と、A社員に言われれば、そのオペレーターたちはA社員の指示に従って業務をすることになる。
しかし、しばらくすると今度は別の支店から派遣されて来たB社員から、
「キミ!そうじゃないだろう!ちゃんとマニュアル通りにやってください!」
と注意を受ける。当然オペレーターは混乱するわけだ。そんなことがあちこちで繰り返されていれば、いくらバイトのオペレーターとは言え、フラストレーションが溜まり、社員たちの統一性を欠いた理不尽な一言に、あちこちでテレオペ達の爆発の連鎖が起こる!あーだ、こーだ、言った言わない、などとまるでガキのケンカのような低レベルの言い争いが勃発した!センター内は顧客からの怒涛のコールと身内同士の醜い争いで目も当てられない状況だった。


第11話

俺はそんな現場がアホらしかったし、練習用のエネルギーを無駄に使いたくなかったから「対岸の火事」を見る気持ちでただひとり黙々と仕事をしていた。
俺は幸いにもそんな無責任な社員達から注意を受けることが1度もなかった。それを知ってか?周りの席にいる同じテレオペの人達が俺に質問するようになってきた。俺は嫌な顔ひとつしないで丁寧に教えていった。
その中で何度も俺にいろんなことを聞いてくる女性がいた。いつも明るい笑顔で微笑みながらどんな事でも俺に何の遠慮もなく聞いてくる、ほっそりとしたスタイルの女性。

(この人って、今まで気づかなかったけど、明るくてキレイな人だなぁ・・・)

 と、そんな風にちょっとずつ気になるようになっていった。
その人の明るい笑顔が好きになるのに時間はかからなかった。


第12話

まぁ、明るい笑顔の人を嫌う奴なんて滅多にいないだろうけれど。
その人の笑顔は俺から、この重苦しいセンターの雰囲気を消し去ってくれていた。純粋で屈託のない笑顔がとても良く似合う。今日まで無表情でひとりで黙々と仕事をこなしていた俺に笑顔を分けてくれるような、そんな感じの女性。何度も話をしていたことで、もう何年も前からお互いのことを知っているかのような錯覚をさせる女性。
とりあえずこのセンターで初めて知り合った女性だから、せめて名前だけでも覚えようかな?と、彼女の首にぶら下がっている入館証を見たけれど、彼女の名前の文字が小さすぎて見えなかった。だからと言って、

「ねぇ、名前終えて?」

って、こっちから聞くとなんかナンパっぽくなるので、

(まぁ、そのうちわかるだろう・・・)

と、思って気にしないことにした。
すると彼女の方から逆に俺の名前を聞いてきた。

「ねぇ、キミの名前教えてよ?なんて言うの?」

その人はきっと俺より少しばかり年上の女性のように思えた。
彼女のそのひと言にはイヤな馴れ馴れしさがまったくなくて、とても素直で明るい性格と、澄んだ瞳が印象的だった。

「えっ?俺の名前?矢部だよ」
「ふぅん、矢部君って言うんだ?下の名前は何て言うの?わたしは金沢トモエだよ」
「あ~、下はユタカだよ」
「豊クンかぁ、毎日いろいろ教えてくれてありがとね、これからもよろしくね!」
「あ、う、うん・・・よろしくね」

 そう言うと金沢智枝と名乗った女性は踵を返してさっと自分の席に戻っていった。智枝の席は俺の斜め前だった。それからは俺も智枝のことを意識するようになっていった。
でもまだ俺はこの智枝の存在と魅力に溺れるようになるとは思ってもいなかった・・・


第13話

そんな日々が続く中、唯一のオアシスがそんな酷いノイズから密閉された静かな休憩室だった。
昼休みになると、統制のとれていない社員達の愚痴でお祭り騒ぎだ。特に「おばちゃん」の群れは聞くに堪えられないほど酷かった。

(あ~、うるさいなぁ・・・ここで仕事の愚痴はやめてくれよ・・・)

と思いながら、空席が多い隅っこの方に逃げるように向かってそのテーブルの椅子に座ると、俺は音楽を聴くためにスマホをポケットから取り出した。ランダムに流れる音楽が俺の心を癒してくれる。
現役の俺の食事は昼飯だけだった。一日3食食べてしまうと、あっという間に体重が増えて、減量がかなりきつくなるからだ。古い考えの俺には、「ボクサー=減量苦」がボクサーの「美徳」と言う概念を持っていたから、別に辛くはなかった。
食事を済ませ、テレオペ達の騒めきとイヤフォンから流れる音楽が飽和していく。
ひと眠りしようかと思った時、目の前の席に「ふぅ~」とため息をついて座った、俺と少し年の離れていると思われるくらいの女性が座った。眠ろうとした俺にその人が気さくに話しかけてきた。誰だろう?と思って顔をあげると、ちょくちょく俺に質問してくるうちに仲良くなった智枝だった。
「ここ、いつもうるさいね~」
智枝らしい明るい声と呆れ顔で俺に同意を求めるようにそう聞いてきた。
「そうだねぇ・・・エネルギーの無駄遣いだよ」
俺は肩をすぼめて答えた。
「あははは、確かにね!でも豊クンってさ、それでも文句言わずに仕事してるよね?」
「だってバカらしいもん。うるさいの嫌いだし」
すると智枝は頬杖を突きながら、
「そうそう!ほんっとバカらしいよね!やってらんないわ!」
そんな話をしていると、俺と同じように静けさを求める男女が4~5人ほど集まってきて、小さくて静かなグループができた。俺たちは愚痴の喧騒から逃げて静かさを求める難民だ。俺たちは静かに食事をとりながら世間話をした。


第14話

次の日からはその席は俺たちの居場所となった。それから徐々に互いを理解しあい、友達へとなっていった。喧騒から離れたオアシスではゆったりとした会話が、宙を舞う羽毛のように静かに流れていった。
少しずつ冗談も増え、笑い声もでてきた。中にはもちろん智枝もいた。2週間ほど経ってやっとできた友達だ、俺は素直に嬉しかった。でも、常に50人くらいいるセンターの中でできた友達の名前と顔が一致するようになるのは、パズルのピースを組み合わせるように難しかった。だからお互いに名前を間違えたり、思い出せない時などは笑ってごまかして許してあげることが暗黙の了解になっていった。
不思議だけれど、この智枝だけは最初に名前を聞いた時から顔と名前がピッタリはまったパズルの2つのピースのように一致していて、智枝の名前も顔も間違えることは一度もなかった。

そんな感じで日々の業務が続いて行った。就業時間の終わりを告げるチャイムが鳴ると、俺は休憩室のいつもの椅子に腰を掛け、ジムに行く前の休憩をとり、腹が減ったのをごまかすためにブラックのコーヒーを飲んでいた。
医学的に正しいのかどうかはわからないけれど、俺はブラックのコーヒーを一本飲むだけで空腹感がすっと消えていくような気がしていたから、ジムに行く前には必ずブラックのコーヒーを飲んでいた。職場の自販機には微糖のコーヒーもあったけれど、なんだか太りそうな強迫観念にも似た感覚がしたから俺はいつもカロリーがないブラックを飲んでいた。コーヒーを飲み終えた俺は練習着が入っているリュックサックを肩にかけてジムに行こうとした時だった。


第15話

「あ!いたいた!」

と言って俺のもとに寄ってきたのは、このセンターで最初に友達になれた智枝だった。智枝はきりっとした澄んだ瞳に小さな鼻と品のある薄い唇。そして紅茶のように上品な肌の色、邪魔にならない程度のセミロングの髪、身長もそこそこある。一言で言えばルックスのいい女だ。そんな智枝が俺に何か用があったのだろうか?突然俺の目の前の席に座って俺に顔を近づけると、
「あのさ、前から聞こうと思ってたんだけどさ・・・」
智枝はまるで俺の尻尾を掴んだ探偵のように突然ニコニコしながら聞いてきた。
「豊クンってさ、何かやってるでしょ?」
智枝は俺の顔に人差し指を突き刺した。
「ん?何かってどういうこと?」
俺は智枝が何を聞きたいのかさっぱりわからなかった。
「とぼけてもダメだって!キミの両拳、いつも皮が剝けてるもん!」
智枝は勝ち誇った笑顔でそう言った。俺はまだみんなにプロボクサーであることを言ってないし、このまま秘密にしておくつもりだった。いろいろ聞かれるのが面倒だからだ。
「あ~、これね、よく壁にこすっちゃうんだよね~」
俺はとぼけるしかなかった。
「ウソだぁ!」
智枝はすぐに見抜いた。そうだよな、こんな皮が剥けた拳してたら誰が見ても不自然だよな・・・面倒なことになったなぁ、誰にも言わず秘密にしておきたかったのに。
「キミさ、細いけど、よ~く見るとけっこう筋肉質なのよねぇ~」
と言って、俺の両肩にいきなり智枝が自分の両手を置いて俺の両肩を撫でまわし始めた。滑らかに俺の肩から腕へと上下していく智枝の手の感触は医者の触診のようだ。
「うん!やっぱり筋肉質だ!」
智枝は謎を解いた科学者のように納得した。智枝の尋問はまだまだ続きそうだった。誤魔化すのはやめた。ウソが下手な俺には無理だから。
「キミ、いったい何をしているの?白状しなさい!」
智枝は人差し指を俺の鼻の頭に突き当ててきた。めんどくさいなぁ、と思っていたけれど、どういう訳かこの智枝にだけは何でも話せるような、何を話しても安心できる不思議な魅力があった。籠城して本丸に攻め込まれた城の城主のように根負けした俺は、
「智枝には負けたよ・・・俺、プロボクサーなんだ」
あれ?俺ってこんなにクチ軽かったっけ?と智枝のパンチにKOされてしまった。
「やっぱり!なんかやってると思ったんだよねぇ~、しかもボクサーかぁ、普段おとなしいからボクサーに見えないよ!」
と言ったので、俺は財布にしまってあるボクサーライセンスを取り出して智枝に手渡した。弱い自分を変えるためにプロボクサーになった証明書。
「これが証拠だよ・・・誰にも言うなよ?」
俺は釘を刺すように智枝に言った。すると、
「うん!わかってるって!へぇ~、これがプロボクサーのライセンスなんだ!初めて見た!」
智枝は少し興奮気味に言った。そして、ライセンスの俺の写真をみると、
「うわぁ~、まるで別人だね!怖そう~!」
「ライセンスの写真は、免許証の写真と一緒で、人相悪く見えるんだよ」
実際にそうだから困ったもんだ・・・さらに智枝の質問攻撃が続く・・・
「ねぇねぇ、この、『C』ってどういう意味?」
智枝は小首をかしげながら聞いてきた。
「あぁ、それはボクサーのレベルを表すものだよ。C級ライセンスって意味。初めはC級から始まって、勝ち進んでいくとB級に昇格して、さらに勝ち進むとA級になるんだよ」
「え?じゃ、『C』って1番下ってこと?」
「うん、そうだよ・・・」


第16話

1番下・・・その言葉が俺の胸をちくりと刺した。前回の試合に勝っていれば、俺はB級に昇格できたのに・・・油断した隙を突かれたのが俺の敗因だった。

「ええっ!じゃキミって駆け出しのボクサーなんだ?」
智枝はさらに身を乗り出してきた。
「ねぇ、もう何年やってるの?」

智枝の質問攻めが加速していく!そして無名のボクサーである俺の胸が痛んでいく!プロなのに無名の選手。どことなく屈辱的だった。智枝に腹を立てた訳じゃない。俺は不甲斐ない自分に腹を立てたんだ。

「今年で3年目になるかな?」
「戦績は?」
智枝は目を輝かせながら俺にグイグイ迫ってくる!
「まだ3勝1敗だよ。弱っちい無名のヘタレボクサーさ・・・」
俺はそっぽを向きながら答えた。
「そんなことないよ!キミって強いんだね!でも・・・ボクサーってさ、やっぱりケンカ好きな人が多いの?」

智枝は上目遣いで恐る恐る聞いてきた。これがまためんどくさいんだよな。一般の人は「ボクサー」と聞くと、ケンカッ早い人種のイメージがあるから。この粗大ごみのような誤解を解くためにはいつもほんとうにホネが折れる。


第17話

「確かにボクサーだから、腕っぷしに自信がないとボクサーにはなれないけど、プロになれるのは真面目な人だけだよ。たまに不良とかケンカ自慢な奴がボクシングを甘く見て入門してくるけど、ボコボコにされてすぐ来なくなるよ。でも真面目な人はボコボコにやられても這い上がって練習して強くなっていってプロボクサーになれるんだ。それに、痛みや辛さを知っているから、ボクサーに限らず、格闘技をしてる人ってみんな優しいんだよ。意外でしょ?」
俺は智枝からライセンスを奪い取ると財布にしまった。
「ふ~ん・・・ボクサーってみんなケンカ好きな人たちかと思ってた・・・そうね、キミみてるとなんか説得力あるよ!キミは強いだけでなく優しいしね!」
「え?俺が優しい?」
「うん!話してればわかるよ!仕事で質問してもいつも丁寧に教えてくれるしね!」
智枝は俺の性格を理解したようでどこか嬉しそうだった。もうお互いを知ってから1か月も経つんだから。
「ねぇ!今度キミの試合いつ?見に行きたい!」
これもまためんどうな説明だ。
「ボクサーって言っても、年に1~2試合しかしないんだよ。チャンピオンの防衛戦とか、トーナメントを除いてはね。だから俺の試合はまだ決まってないんだ。だから、プロボクサーと言っても試合だけのわずかなファイトマネーじゃ生活できないんだよ。飲みに行ってちょっと遊んだらなくなっちゃう程度のお金しかもらえないからね、俺みたいな下っ端は。日本チャンピオンでも、まぁ人気があるチャンピオンなら別だけど、普通の日本チャンピオンでも貰えるお金は少ないし、敗けたらただのボクサーになるからファイトマネーなんてどんな選手にとっても不安定なあぶく銭みたいなもんだよ。だからみんな俺みたいに働いて安定した生活をしながらボクシングしてるんだよ」
「え~!プロボクサーってそんな少ししかお金もらえないんだ?」
智枝はボクサーの現状が予想をはるかに超えていたようで驚いていた。
「もっと言うと、世界チャンピオンだって負ければただのボクサーになるんだよ。相撲の横綱は2敗くらいしてもまだ横綱でいられるけどボクシングのチャンピオンは負けたら『ただのボクサー』になるんだよ。悔しいけど相撲の横綱や関取は世間の人に知られているけど、ボクシングについては世間一般の人は日本チャンピオンどころか日本人世界チャンピオンすら知らないでしょ?『世界で1番』なのにねぇ・・・切ないねぇ~」
俺はぐっと背伸びをしながら本音をぼやいた。
「ねぇ、もし邪魔でなかったら・・・キミの次の試合、観に行ってもいいかな?」


第18話

最近は昔と違って女性の観客が増えている。男同士の殴り合いを生でみることなんて日常ではまったくと言っていいほど皆無だから、「ボクシングの聖地」後楽園ホールに鳴り響く人を殴る音や殴り倒される選手を見ることは、どんな遊園地の最新絶叫マシーンに乗るよりもかなりスリリングで刺激的らしい。
実際、後楽園ホールはボクシング観戦のために造られた会場なのでどの席からもリング上の選手たちがよくみえる。
でも、こう表現すると語弊があるけれど、ボクシングは「合法的な殺し合い」だ。試合で脳にダメージを負ってそれが原因で脳内出血になり志半ばで亡くなっていった若い選手たちを何度もみているから俺はそう感じていた。
試合の上での死亡事故は「リング禍(か)」と言って事故として法的にも認められているので対戦相手を殺めてしまった選手には何の罪や責任も与えられない。せめて葬式にでるくらいだろう。
対戦相手を不幸にも死なせてしまった選手は自らその心に重い十字架を背負うことになる。法律で罰せられた方がどんなにラクだろうと思ってしまうかもしれない。
そしてその選手は自分の拳が恐ろしくなって引退するか、それとも殺めてしまった選手の分も頑張ることを誓って再びリングに上がるかはその選手の気持ち次第で誰に責められることも咎められることもない。その重い十字架はどんなに厳しい練習や減量よりも厳しいものなのか、俺には想像できないけれど。
でもそんなことを覚悟の上で様々な選手たちが文字通り「命」を懸けて正々堂々と戦う姿は、どんな芸術品よりも美しいと俺は思っている。
だから俺はそんな智枝の問いかけに、

「応援に来てくれるなら大歓迎だよ!」

と自然と語気が強くなっていた。俺は一人でも多くの人に俺の試合をみてもらいたいから!そして自分と言う人間を認めてもらいたかったから!俺は生まれ変わりたかったから!だから智枝に、
「次の試合の日程が決まったらチケットあげるよ。まだ先になるけれど」
と約束した。
「えっ?いいの?」
予想すらしなかった答えが返ってきたので智枝は目をまんまるにして身を乗り出してきた。
「絶対だよ?約束だよ!」
そう言うと智枝は俺に向かってユビキリゲンマンの小指を差し出してきた。俺は素直に智枝の小指に俺の小指を絡ませてユビキリゲンマンの約束をした。それは俺が大嫌いなお約束の「社交辞令」ではなくて心の底から俺の試合を楽しみにしているかがわかるほどだった。
そんな智枝の喜ぶ笑顔をみていたら、これから先はもう絶対に負けられない!誰よりも練習して強くなってやる!と言う気持ちになった!
ちょうどその頃、周りに人が多くなってきた。時計をみるとすでに夜の9時をとっくに過ぎていた。遅番の人達が帰りの準備をし始めていた。
時間を忘れるほど2人で話に夢中になっていたようだ。

(今夜は練習に行けないなぁ、せっかく智枝のおかげでさらに強い気合がはいったのに、お喋りで練習をすっぽかすなんて・・・自己嫌悪だ・・・)

そんな俺の表情をみて感じ取ったのか?智枝が言った。
「あのさ・・・もう今夜はジムいけないんじゃないの?キミとお話してたら楽しくて・・・時間の経つのってはやいね!練習行けなくてごめんね・・・」
智枝は下を向いて申し訳なさそうに俺に謝った。俺は慌てて、
「そんなことはないよ、でも俺がボクサーしてることは誰にも言うなよ?」
と再び釘を刺すと、智枝は俺と視線を合わせてこくりと真顔で頷いた。
2人だけの秘密ができてしまった。俺たちは帰る準備をして、一緒に最寄り駅の平和島駅まで向かった。


第19話

職場から近い京急平和島駅までは歩いて20分以上かかる。もうすっかり夜も遅くなっていて、月明かりのキレイな夜だった。駅までの途中にある森林にかこまれた外灯がない公園の中の脇道を通っていくと駅までの近道になるんだけど、この時間に女性の一人歩きは危険な場所だった。でも、今夜は俺がいるからその公園の脇道を通っていると、時間はもう22時を過ぎていたと思う。その近道になる都会の中にあるすっかり薄暗くなった森林公園に入ってから智枝は急に無口になった。さっきまであんなに楽しくおしゃべりだったのに、気のせいか?その微かな月明かりに照らされた横顔はどこか寂し気で何か覚悟を決めるタイミングを待っているかのような雰囲気だった。なんとなくその沈黙が俺にはちょっと重かったから、この気まずい雰囲気をかき消すために何か話題を探した俺は月を見上げると、

「今夜の月は綺麗ですね」

そうひとこと呟くと、智枝はきょとんとした顔で俺が見ている月を見つめると、
「う、うん・・・綺麗だね・・・」
「この言葉はね、あの夏目漱石が、あるひと言の英文を日本語に訳したセリフなんだよ」
「ふ~ん、そうなんだ?夏目漱石は知っているけど、それがどうしたの?」
「漱石が訳したその元になった英文ってなんだかわかる?」
「あはは、わたしは読書しないから知らないよ?」
「漱石はね、『I Love You』を『今夜の月は綺麗ですね』って訳したんだよ。さりげない粋な告白だよね?」
「へぇ~、あんなお鬚したコワモテのオジサンがそんな洒落たこと言ったんだ?」
「きっと当時は今みたいにストレートに『好きです!』とかって簡単に言えなかったんじゃないかなぁ?」
「昔の人達ならそうだったかもねぇ・・・でも、その告白したお相手がキミみたいに鈍感な人だったら、せっかくの告白も台無しになっちゃうね?」
「ん?俺って鈍感なの?」
「うん。鈍感中の鈍感!面白いくらいに飽きれるくらいに超ドンカンだよ?」


第20話

智枝が俺を揶揄いながらそう言った。なんとか重たい沈黙は夜風にとともに流れていったけど。俺が鈍感?しかも超鈍感だなんていったいどう言う意味だろう、俺にはその言葉の意味がまったくわからなかった。でも、そんなセリフは中学に入ってからよく友達や『本人』から言われることが多かった。とぼけてるつもりはないんだけど、俺はどうやらそう言う空気を読むことについてはかなり疎い方なのかもしれない。
気がつくと俺たちは公園の薄暗い細道のちょうど真ん中あたりにいた。漱石の逸話でかなり話が盛り上がったと思ったのにまだ細道の半分しか来ていなかった。智枝の横顔をみると、やっぱりどこか寂しげというか、悲しそうな表情をしていた。いつもの明るい微笑みをみせる智枝とはまるで別人のようだった。もしかして、俺は気づかないうちに智枝の気分を壊すようなことを言ってしまったのだろうか?と考えてみたけれど、答えは藪の中だった。静かな公園の中で俺の心臓の音だけが聴こえた。
すると、その脇道の真ん中で智枝は突然立ち止まると、どこか恥ずかしそうに俺の方に背
を向けると、その細い首を上げて月明かりに微笑みながら、

「あのね、今まで黙ってたけど・・・実はね、わたし、バツイチなんだ。驚いた?」

細道をかこっている木々のせいで暗くてその表情はよく見えなかったけれど、照れ笑いなのか?どこか寂しそうな微笑みで智枝が突然呟いた。
いきなりの告白に俺は驚いた!でもこのご時世だから若い女性のバツイチなんて珍しくもなんともない。でも、どうして智枝が?智枝は紙芝居をめくるように続けて言った。

「それとね・・・子どももいるんだよ・・・」


第21話

さすがにこれにはもっと驚いた!何が驚いたかと言うと智枝はスリムな女性だからだ。子どもを産んでいるというのにちっとも体型が崩れていない。智枝は中学、高校時代はテニスが強かったようで、インターハイにも出た経験がある、と出会った頃に休憩室で話してくれたことがあった。テニスプレイヤーならがっちりした肩と縦横無尽に動ける太腿が印象的だ。確かに智枝はスポーツが似合いそうな人だ。子どもを産んだ女性はだいたい体型が崩れていくものなのに智枝にはそれが全くなかった。智枝はさらに続けて、

「女の子が2人いるの・・・10歳と9歳の女の子なんだ・・・」

「えっ?ウソッ?」

 真夜中の青天の霹靂!(?)

俺はフェイントのパンチをまともに喰ったように叫んだ!てっきり1人だけだと勝手に思っていたから!もう俺は声も出なかった!智枝は秘密のびっくり箱か?でもちょっと待てよ?10歳と9歳?智枝は29・・・俺が頭の中で勘定をしていると、それを見透かしたかのように智枝のその薄い唇が開いた。
「私ね、18で結婚したの。高校卒業してしばらくしてからね・・・で、すぐに上の子ができたの。どう?驚いたでしょ?」
智枝はいたずらが成功した子どものように俺の顔を覗き込んだ。
そりゃ、驚くさ!18で結婚、妊娠、19、20で出産!待てよ?俺はすかさず聞いた。
「じゃ今頃子どもたちは家で留守番してんの?それならお腹すかせて待ってるんじゃないの?急いで帰らないと!」
智枝は慌てる俺の腕に自分の腕をするりと絡めると、
「このことは2人だけのヒミツだよ?」
智枝は掴んでいる俺の腕を小さく揺すりながら言った。そして、
「子どもたちは大丈夫。ちゃんといつも晩ご飯作って仕事に来てるから」
「そ、そうなの?」
俺は2重3重と驚いて言葉が出なかった。智枝の年齢なら2人くらい子どもがいてもおかしくはないけれど、18で結婚と妊娠、出産・・・そして離婚・・・


第22話

「いつシングルになったの?」
俺は言葉を選んで「バツイチ」と言う言葉は使わなかった。
「もうすぐで3年になるかな」
智枝はあっけらかんと答える。さすが18で結婚と出産しただけあって肝が据わっているなと思った。それに、凛とした気の強さも感じた。さっきは俺が尋問にかけられていたけど、今度は俺が質問せずにはいられなかった。俺はダラダラした質問が嫌いだったから遠回りすることなく単刀直入に聞いた。
「なんで別れたの?」
誰でも気になってしまうところだろう・・・
「あのね、旦那に他のオンナができてさ・・・『別れてくれ』っていきなり離婚届を目の前に突きつけられちゃったんだ・・・」
智枝は苦笑いしながら答えた。
「旦那はいくつの人だったの?」
俺は薄氷の湖面の上を一歩一歩歩いていくように言葉を選びながら慎重に聞いていった。
「高校の時の彼氏だから私と同い年だよ」
と言うことは、離婚したのは26歳の時か?普通の男ならオンナ遊び盛りだよな・・・
きっと智枝の「元旦那」は結婚して子どもができたのはいいけれど、家庭に飽きて疲れて他のオンナに目がいってしまったのだろうな、と俺はそう思った。早い話、結婚にはまだ早すぎたってことだろう。よく智枝の両親も経済的にも安定していない2人の結婚を許したもんだな、と思ったけど、そこはあえて突っ込まなかった。
「いきなりだもん、どうして?って聞いたよ?冗談かと思った」
薄暗い公園の脇道で切なく微笑みながら智枝は続ける。
「もちろん、『イヤだよ!どうして?』って聞いたよ」
智枝はそこでぴたりと立ち止まるとうつむいたまま、
「そしたら・・・」
俺は眉間にしわを寄せながら、黙って次の言葉を待っていた。

「いきなりぶたれちゃった・・・」


第23話

俺はそのひと言に身体中の血液が逆流するほどの怒りに震えた!智枝が殴られている姿を想像したらやり場のない怒りが頭の先からつま先まで俺の身体を貫いた!こんなに細い智枝を殴るなんて!さっきまで俺と智枝を照らしていた月灯りも今は届かないほど木々が多い茂った公園の細い脇道で智枝は他人事の物語を話すように、切なさと悲しみを浮かべた微笑みで話し続けた。

「私が印鑑を押すまで、毎日、毎日殴られてさ・・・怖かったよ・・・」
智枝はその時の苦しみと悲しみを思い出したかのように足元に転がっていた小石を軽く蹴飛ばした。俺は情けないことに慰めの言葉もなければ同情する言葉も見つからなかった。俺は「元旦那」に怒りで拳が震えるだけだった。すると突然智枝は俺の手を握りしめて、

「豊クン!キミはそんなこと絶対にしないよね?」

まるで俺に救いを求めるような悲痛な表情だった。それは見ている俺の胸が引き裂かれて痛むような叫びだった。音のない公園の細道で智枝は力いっぱい俺の手を握りしめている。いつも明るい笑顔をしている智枝が無理に微笑みながら泣いている。そして精一杯のやせ我慢の笑顔を浮かべて泣いている。 
とうとう我慢できなくなったのだろう、智枝は俺に力いっぱい抱きついてきて嗚咽混じりに涙を零した。俺の胸の中でわんわんと泣いた。
ふわりと柔らかい智枝の香りがした。俺は智枝が泣きやむまでずっと智枝の頭を撫でていた。
人は悲しい時に思いっきり涙を流せばラクになれるから。だから俺は智枝の気が済むまで俺の胸の中で泣かせていた。
しばらくすると泣きつくして落ち着いたのだろう、智枝は俺からそっと離れると、恥ずかしそうに背を向けた。智枝はさっき蹴飛ばした小石をつま先でいじりながら、悲しそうにうつむいている。暗い公園の小道の上で、見ている俺の胸がさらに深く苦しくなるほどいつもの明るい智枝とは思えないくらいに痛々しくて寂し気な姿だった。
智枝の胸の中は俺が想像しているよりも、もっともっと苦しくて痛くて悲しくて、どんなに助けを求める手を必死に伸ばしても、誰も智枝の伸ばした手をつかんでくれる人がいないことを感じると、俺はそんな智枝に手を差し伸べずにはいられなかった。伸ばし合う2人の手が、今繋がった。
偶然微かな月明かりが智枝の横顔を照らしだした。その頬をつたう涙は悲しくも美しい涙だった。俺には智枝が傷つけられた羽根で空を飛べないカナリアのように見えた。俺は智枝のことが愛おしくてたまらなくなってギュッと強く抱きしめていた。


第24話

バツイチは気にしないし、子どもも気にしない。バツイチなんてたかが紙切れだけの問題だし、子ども達も智枝の身体の一部だ。一般的にみて2人も子どもがいたら、智枝は男どもから恋愛対象の価値を失った邪魔なものとして敬遠されてきたこともあったかもしれない。しかし、俺にとっては不思議なもので、そんなまだ見たこともない子ども達までも愛おしくなる。子ども達には智枝と同じDNAを含んだ、尊くも清らかな血潮が流れているのだから。
それは強い脈を打ちながら智枝の生命を受け継いでいる。
それが邪魔に感じるか?愛おしいに決まってるじゃないか!きっと俺の友人たちは俺のことをバカなお人よしと言うだろう。やめておけ!とも言われるかもしれない。だからどうした?こんなに智枝が愛おしいんだ!いつも一緒にいたいんだ!そばにいていつも笑っていて欲しいんだ!それのどこがいけない?智枝はまだ少し乱れた呼吸をしたまま、その凛とした瞳で俺の気持ちを確かめるように俺の目をみつめている。俺が智枝の涙で潤んだ瞳をみつめていると智枝に俺の気持ちが伝わったのだろう、安堵の表情を浮かべて微笑んでくれた。
智枝の笑顔はそれだけでじゅうぶん美しい。月明かりがそんな智枝の微笑みを照らしている。俺はこんな智枝の笑顔が好きだ。智枝は俺の腰に両腕をまわして微笑んでいる。そんな魔法のような微笑みに俺もつい微笑んでしまう。
智枝は不思議な彼女だ。誰もいない公園の暗い小道で俺たちは見つめ合っていた。まだ出会ってひと月しか経っていないのに、なぜか昔からお互いのことを知っているかのような・・・それは恋愛が持っている魔法によるものなのだろうか・・・風が吹くように自然な関係の2人。

こうして俺と智枝は2人の「愛」を伝えあった。そこに「言葉」などまったく必要なかった。「心」は「言葉」を凌駕するものだと俺は初めて感じた。


第25話

俺の男としての本能か?それとも智枝の女としても魅力がそう感じさせるのか?俺は考えてみたけど、そんなことはどうでもいい、俺は今、智枝を愛している。それだけでじゅうぶんだ!もはや理屈という邪魔な黒いヴェールは夜風に吹き流されて消えていった。空を見つめると珍しく東京の空に散らばった星々がよくみえた。
言葉なく見つめ合う2人。今は見つめ合うだけでお互いのことがじゅうぶんに伝わってくる。こんな時、言葉は蛇足になる。以心伝心、2人は汚れなき絆で結ばれた。智枝は瞳をとじて、もう一度俺にキスを求める。

それにこたえるように俺が智枝を抱きしめようとした時だった!突然智枝のスマホが音のない公園に鳴り響いた!その瞬間、甘く微笑んでいた智枝の顔が、緊張感に満ちた試合前のテニスプレイヤーのような真剣な表情になって、今までの2人の甘い時間を打ち消した。智枝は俺から離れてカバンの中に手を入れてスマホを手にすると、

「もしもし!どうしたの?」

智枝は俺に背を向けながら誰かと話し始めた。俺は黙ってみているしかなかった。その智枝の表情は今まで見たことがない表情で、同一人物か?と思わせるほど真剣な表情だった。両手でスマホを押さえ、しゃがみ込んだ姿勢で話している姿をみると、俺もつられるように不安になった。
何とか聞き取れた言葉は、「今帰ってる途中だから、ちゃんと戸締りしておくのよ?」だった。俺は直感で電話の相手がわかった。帰宅の遅い母親を心配する娘たちからの電話だろう、と。時計をみるともう22時半を過ぎている。
まだ小学生の子どもなら、いつもの帰宅時間を大幅に過ぎても帰らない母親を心配するのは無理もない。アパートに幼い女の子が2人。今は物騒な世の中だ。何か事件や事故が起きてもおかしくない。俺も心配になり、智枝に悪いことをしたな、と反省して智枝とすぐ帰ろうと考えた。すると智枝はスマホをカバンにしまい、
「急にごめんね・・・子どもたちから帰りが遅いって怒られちゃった」
智枝はめくられたトランプのように「母親」の顔から「彼女」の顔に戻った。さっきまでは震える仔猫のような寂し気な表情をしていた智枝だったけど、いざ子どものこととなると、「母は強し」と思わせる表情になった。
俺は今までいろんな女の人を見てきたけれど、「母親」としての彼女の顔をする女性は初めてみたので、「母親」としての強さに満ち溢れた顔をみせた智枝を見た時、守るものがある人間の強さを痛感させられた。
これからは俺が智枝たちを守らなければならない立場になった。それは少しずつ重大な責任であることを俺はこの先知っていく。それが人を愛すると言う重さであるなら、俺は決して音を上げることなくそれを背負っていこうと決心した。


第26話

「・・・急にごめんね・・・怒った?」
と、俺に初めて見せた「母親の顔」を気にしてるのか?
「さすが智枝は母親なんだなぁ・・・と思ってさ。智枝のあんな真剣な顔、見たことなかったから」
「びっくりしたでしょ?」
智枝は恥ずかしそうに上目づかいで聞いてきた。そして続けて、
「これがわたしなんだよ?」
さっきの試合前の選手のような真剣な表情から、そよ風に吹かれて裏返しになった落ち葉のようにまた不安を隠しきれない寂しげな表情で智枝は俺に問いかけてきた。俺は内心驚いたことは言わずに、「もちろん」とだけ笑顔で頷いた。すると智枝は、
「キミのことを好きになってよかった・・・でも、鈍感すぎるよ?」
と何かに許されたような安堵の表情を浮かべ、両手を胸に置きながらそっと微笑んだ。
俺は智枝の子供たちが心配になったので、
「子どもたちが心配して待っているなら、急いで帰ろう!」
俺はまだ会ったことのない智枝の娘たちが心配になった。もし子どもたちになにかあったら智枝は・・・
そう考えると一刻も早く智枝を帰さなければ!と思った。そんな俺の顔を見て智枝は、
「心配してくれてありがとう。やっぱりキミは優しいね」
「そんな呑気なこと言ってないで早く帰ろう?」
智枝とは逆に焦る俺をなだめるように智枝は俺の手を握りしめると、そのまま真っすぐひっぱるように駅へと向かった。
「子どもたちなら大丈夫だよ」
俺にはまるで人ごとのようにしか聞こえなかった。
「なんかあったら大変だろ?」
俺は心配を隠せない。智枝はそんな俺を見て、
「うん、心配してくれてありがとう。やっぱりキミは優しいね」
笑顔で嬉しそうに俺の手を握りながら駅へと向かう。そんな智枝をみていると、さすがしっかりしてるな、と初めて智枝のことを「年上の彼女」と意識した。
俺は今まで何故か年上の彼女ばかりだった。また今回の智枝も7つ上の年上だ。さっきの真剣な智枝をみて、俺は智枝にはかなわないな、と自分の幼さを自嘲した。

夜風が頬をすり抜けていった。

世間知らずで常識知らずの俺だ、俺とつき合ってきた「彼女たち」に共通するところはみんな「世話好き」なところだ。そう、俺はだらしない、頼りない男だとよく言われる。もう笑うしかない。子どもの扱いに慣れている智枝に、まるで幼稚園児のように手を引っ張られて駅まで急ぐ。普通は男がリードするものだけど、俺は何故かこんな感覚が心地いい。俺は智枝の嬉しそうな横顔をチラチラとみながら、智枝にひっぱられるがままついていった。


第27話

駅までの近道である公園を通ってきたから、15分かかるところを5分で駅に着いた。赤い電車が反対ホームを通過していく。こんな時間だからだろう、もう電車はすし詰めのように混んでいるのがわかった。
「電車、混んでるね。もうこんな時間だものね、仕方ないか・・・」
智枝がまだ俺の手を握りしめたまま、ぽつりと呟いた。
「そうだね・・・満員電車は嫌だな、オヤジ臭いし・・・」
「そうだね」
混雑しているホームにはいろんな人たちが列をなしていた。智枝はぎゅっと俺の手を強く握った。それに応えるように俺も智枝の手を握り返した。
それから会話はなくなって、お互いの手を握り合っていた。智枝は俺の手を握っては緩め、握っては緩めと繰り返している。俺もそれに応えるように握り返す。たったこれだけのことなのに、智枝の気持ちがじゅうぶんすぎるほど伝わってくる。
「疲れたね・・・」
と眠たそうに智枝は頭を俺の肩にちょこんとのせてきた。智枝のシャンプーの匂いだろうか?さっき公園で鼻にした甘く柔らかい香りがした。俺はその智枝の香りを記憶するようにゆっくりと深呼吸をした。薄化粧の智枝らしい優しい香りだ。俺はこんな香りが好きだ。俺は思わず、
「いい香りだね」
と呟くと、
「ん?なにが?」
と智枝が聞き返してきた。ホームの雑踏で俺の声が掻き消されたらしい。隣にいる智枝に俺のそんなささやきが届かなかったのだから。
俺がもう一度同じことを言おうとした時に、ちょうど待っていた鎌田行きの急行がきた。中は特にサラリーマンでいっぱいだ。俺達はつないだ手を離さないまま満員電車に乗り込んだ。電車の中は案の定ぎゅうぎゅう詰めだ。これじゃ華奢な智枝が押し潰されてしまう。俺は智枝を扉と座席の隅に寄せてつないだ手を放した。

「あ・・・・」

智枝が大量の乗客たちに圧し潰されてしまわないように、俺は両腕を広げて自ら鉄柵になって智枝を乗客の圧力から守った。背中がぐいぐいと押されたが、それでも俺は腕を曲げることはしなかった。
手を放した瞬間、智枝は一瞬寂し気な表情をしたが、俺が何をしようとしてるかすぐにわかったようで、
「ありがとう・・・」
と言って、俺の身体に両腕をまわして包み込むように抱きついてきた。智枝の微かな呼吸が聞こえる。お互いの心臓の鼓動がシンクロしているようだ。


第28話

すると智枝は俺の胸に顔をうずめて、
「心臓の音・・・バクバク鳴ってるね・・・緊張してるの?」
とクスッっと笑った。
「きつくない?大丈夫?ずっとこうしていたいなぁ・・・」
智枝は嬉しそうにその微笑みに満ちた顔を俺の胸にこすりつけてきた。
「いい匂いがする・・・キミの匂いだ・・・なんか落ち着くなぁ・・・」
智枝は目をつぶり、今にも寝てしまいそうな微睡の顔をしている。
「そう?」
俺は自分に匂いなんてあるとは思っていなかったから、
「どんな匂いがする?汗臭いかな?」
「ちょっとね・・・でもそれがキミの匂いなの・・・とても落ち着く匂いだよ・・・」
智枝は俺の胸に顔をうずめて目を閉じたままそっとと呟いた。その表情はまるでゆりかごで眠る乳飲み子のようだ。智枝は気持ちよくて眠そうな表情で微笑んでいる。俺たちは特に話すこともなくそのまま電車に揺られていた。
季節は春だが夜はさすがにまだ少し寒さがあったので、俺の胸の中の智枝の温もりがちょうどよく気持ちよかった。


第29話

俺はそんな智枝の微笑みをじっと見つめていた。今まで普通の女と思っていたけど、今夜たった1人で2人も子どもを育てている母親の顔が見られた。これから智枝は俺にどんな表情をみせてくれるのだろう?いつも笑顔の智枝でいられるように智枝を守らないといけない。守るべきものがある者は強くなれる。俺にとってそれは智枝だ。すると智枝にそんな俺の心が伝わったかのように、
「これからも離さないでね?キミだけがわたしを守ってくれるから。ありがとう」
「あぁ、何があっても離さないよ。それにどんなことからも智枝を守ってあげるから」
「うん・・・ありがとう・・・」
智枝はそっと呟くと、再び俺の胸の中に強く顔をうずめた。その微笑む横顔から、一筋の涙が頬に流れていた。
こんなに美しい涙ならずっとみていたい。俺は素直にそう思った。 
すると智枝が降りる鎌田駅に着いたアナウンスが、シンデレラの魔法が解ける午前0時の鐘の音のように聞こえてきた。
「あっ・・・」
智枝は甘い夢から目覚めたような表情で俺の顔を見つめてきたから、
「また明日だね」
と囁くと智枝は首を左右に振った。俺は、
「子どもたちが待ってるよ?」
と諭すように言うと、ちょっと時間をおいてから智枝はコクリと頷いて、港から船が出てゆくようにゆっくりと俺の身体から離れていった。電車のドアをでると智枝は今にも泣きだしそうな顔になった。2人ともこのまま別れてしまうのが怖かったのかもしれない。 
離れてしまって明日になったら、今夜の2人の出来事が夢のように消えてしまいそうだったから。俺は我慢して、
「また明日会えるから。もう大丈夫だから」
と言うと、智枝は、
「うん、また明日だね・・・気をつけて帰ってね」
と夜の曇り空がすっとひいて月明かりがでてきたように、いつもの智枝らしい微笑みになっていた。
2人を引き裂くようにドアが閉まると智枝は軽く手を振り、俺も手をあげて今日のさよならを告げた。


第30話

無情にも赤い電車が走り出して2人を引き離してゆく。やがて俺の視界からホームでひとり立っている智枝の姿が完全に消えていった。すると急に真っ暗な深海の底にでも沈んで呼吸ができなくなったように息が苦しくなった。やっと手に入れた守るべきものが両手から崩れて零れ落ちていくような、そんな悲しくて苦しい気分に襲われた。

この苦しさと切なさはいったい?

俺は自分の両方の手のひらをみつめて、さっきまで感じていた春の木漏れ日のような暖かさと温もりが、いきなり季節外れの冷たい雨にでも打たれたかのように冷え切っているのに気がついた。そして満員電車の中で独りとり残された無力な少年のように、寂しさと切なさに体中を締めつけられた。その悲しみと切なさの原因は智枝と離れたからだとすぐにわかった。
たったわずかな時間で智枝は俺の中で大きくて守るべき大切な存在になっていた。そんな智枝が今はもうこの胸の中にはいない。明日になればまた会えることくらい頭の中ではわかっていたけれど、この胸の寂しさと切なさは閉じかけていた胸の傷口を強引に引き裂いてゆくばかりで俺の身体がはちきれそうだった。それは紛れもなく智枝への「愛」だから。
なぜ人は「愛」に落ちると、こんなにも苦しくて寂しくて切ない気持ちになるのだろう?本来なら楽しくて嬉しいはずのものなのに・・・

「愛」とは、時計の針がたった2~3回まわっただけで、人の心の中をこんなにも支配してゆくのだろうか。もしかしたら「愛」とは人間が使うことのできる唯一の「魔法」じゃないだろうか?俺は思い出したかのように唇に指をあててみた。智枝とキスしたんだっけ・・・すると智枝の柔らかな唇の感触と、智枝の香りが脳裏に蘇ってきた。今すぐにでも智枝に会いたくなった。智枝が電車を降りる時に、また明日な、と自分で言ったけれど明日がこんなにも長いのか?俺は目に見えない不安でイラついてきた。
電車がまるでスローモーションで走っているように感じた。窓から見える景色がゆっくりまわるメリーゴーランドに乗って見える風景のように見えた。
今まで気にならなかったけれど、満員電車の人臭さと不快な熱気が俺をさらにイラつかせた。

もっと、もっと早く走ってくれっ!

俺は身体の底からそう叫びたかった!このイラつきをいったいどこにぶつければいい?智枝がいないこの寂しさと切なさはいったいどうすれば消える?どうして俺をこんなに苦しめる?俺のそんなイラつきは暴発寸前だった!もう限界だ、ヤバい!俺がそう思った瞬間、亀のようにのろかった電車がやっと目的地である横浜駅に着いた。俺は乗車を並んで待っている人たちを振り払う様に飛び出すとホームの階段を駆け昇って、普段乗らないタクシーに乗り込み、行先を告げるとやっと智枝と別れた悲しさと切なさからくる苛立ちから解放されたように落ち着きを取り戻すことができた。


第31話

ひとりで乗るタクシーの後部座席がとても広く感じた。そうだ、智枝にメールしてみよう!と、スマホを取り出すと、1件のメール着信があった。あの満員電車の中じゃ着信音なんて聞こえるわけないか・・・
メールはやっぱり智枝からだった。

(今日はありがとう。また明日ね。キミが好きだよ!おやすみなさい)

この短いひと言にどれだけ癒されたことか・・・だから俺もすぐにひと言、

(また明日、おやすみ)

とだけ打って返信した。ふぅ~と一息つくと、スマホのメール着信音が今度ははっきりと聞こえた。また智枝からだった。マズい、起こしたか?そっとメールをみると、

(キミのこと大好きだよ)

と、また簡潔なひと言だけだったので、

(俺もだよ)

と打ち返した。今でもこんなカタチだけど、たしかに俺は智枝とつながっている。俺はまるで試合に勝利したかのような解放感と安心感に包まれていた。
明日になるのが待ち遠しくてたまらなかった!遠足を待ち遠しがっている小学生のように、俺は明日が来るのをワクワクした気持ちで待つことにした。
家について布団にはいったが、すぐに眠ることができなかった。
何度も恋愛はしてきたけれど、今までの恋愛、愛していた彼女たちへの愛が裁判にかけられて完全否定されてしまったかのように思えるほど今までの恋愛が打ち消されてしまっていた。今は智枝のことしか考えられない・・・穏やかな波の音が聞こえる大海原にふわふわと浮かんでいるような心地いい気持ち・・・なのにこんな眠れないほど気分が高揚感にみちてしまうことは初めてだった。明日のために眠ろうと試みるが、うまくいかず、すぐに外から新聞配達のカブの音が聞こえた。夜明けは近い。やがて朝日がゆっくりと昇り始め、待ちに待った「明日」がきた。俺はそこから記憶がない。「明日」がきて、また智枝に会える、と思ったら安堵感で寝落ちしてしまっていた・・・


第32話

あれほど待ち遠しかった朝がすぐにきた。寝不足を隠せない俺はカーテンを開けると眩しいほどの朝陽が6畳一間の部屋に射し込んできて、目の前にある公園の桜はすっかり緑の美しい葉をつけていた。
シャワーを浴びていつもの電車に乗り込む。平和島駅の改札口を抜けると、柱に寄り掛かっていた智枝がいた。俺をみつけると、いつもの明るい笑顔で軽く手を振って近づいてきた。

もう智枝は俺のものなんだ・・・

まだ夢から覚めないような実感のないふわふわした気分だった。
「おはよう、よく眠れた?」
智枝が機嫌よく聞いてきたので、俺はつい、
「あぁ、ちゃんと眠れたよ」
すると智枝が待っていたかのように俺の左手を握り、
「じゃ、行こうか?」
と昨日のように俺をひっぱっていく。
今日は金曜日だ。俺がジムを休む日は水・日だけれど、智枝の休みは土日だ。子ども達の学校が休みだから、いろいろと世話をしたり、たまった洗濯物や部屋掃除で忙しいらしい。だから明日と明後日は智枝に会えないことになる。そんなことを考えると智枝の笑顔とは裏腹に俺の気持ちは何かに圧し潰されそうで苦しくて寂しくなった。すると智枝が、
「今日の夜って空いてる?」
「えっ?練習があるよ?」
智枝も平日は俺が夜にトレーニングをしているのは知っているはずだから、おかしなことを言うなぁ?と思っていたら、
「今夜の練習が終わったらさ、深夜上映で観たい映画があるから一緒に行こうよ?」
そう言うと智枝は嬉しそうに振り向いて俺に尋ねた。俺は練習後も智枝に会えることがとても嬉しくなって、
「もちろん、練習後なら全然かまわないよ?」
「やった!じゃ今夜は空けておいてね?約束よ?でも、疲れちゃってたらいいからね」
「あぁ、わかったよ」
智枝の心配りが嬉しかった。そう言って俺は肝心なことに気がついた。
「えっ?深夜上映なら、子どもたちはどうするの?」
すると智枝は答えを準備していたかのよう答えた。
「子どもたちはね、ちゃんと決まった時間に寝るから大丈夫。子どもたちが寝てるのを確認したらウチを出てくるから」
そして智枝は一呼吸置いて続けてこう言った。
「あのね、その代わりお願いがあるの。映画観るのは川崎でいいかな?川崎なら、子ども達からなんか連絡あったらすぐタクシーで帰れるから・・・ね?」
智枝は俺の手を弄りながら聞いてきた。あぁ、そうか、家の近くの川崎で、しかも子供たちのことも考えてあるなら俺も安心だ。
「そういうことなら川崎でいいよ」
今夜は智枝と初デートかぁ、智枝も嬉しそうに鼻歌交じりで歩いている。かわいいな・・・そんな智枝に俺はどんどん惹かれていく。

この先どうなるのだろう?これから智枝をどうやって喜ばせていこうか?
そんなことを考えながら智枝と話していると広い会社の敷地内に入っていた。
相変わらずいろんなトラックやバイク便が敷地内から忙しそうに走って出ていく。
智枝と手を繋いだままのこんな場面を誰かに見られると、変なウワサや面倒な詮索をされるのが嫌だったので、俺は誰かに見られる前に繋いでいた手をすっと離した。
すると智枝はちょっとフクれた顔をして、「イジワル!」とスネてしまった。

(ふぅ~ん、智枝もスネるんだ・・・)

俺はまた智枝の新しい一面を発見して嬉しかった。
それから2人でエレベーターに乗るとそれぞれのロッカールームに向かって行く。
智枝は俺に念を押すかのように、
「またお昼休みにね!」
と言って笑顔のまま女性ロッカールームに入っていった。仕事も2か月目に入って、ようやく慌ただしかった業務が統一され、センター内は落ち着き始めていた。


第33話

午前の業務が終わったので、いつものテーブルに向かうと誰かに背中を叩かれた。振り向くと嬉しそうな笑顔をした智枝だった。
「やっとお昼だね、一緒に食べよう?」
智枝は小首をかしげて俺に言った。テーブルに座ると俺はいつもの飽きたコンビニ弁当を、智枝はお手製のお弁当を取り出した。
俺はいつものようにコンビニ弁当のラップをビリビリと剥がして、割りばしを割って弁当の中に箸を突っ込んでいった。半分ほど食べて顔を上げると智枝はまだ持参の弁当には手をつけていなくて、暗い顔、と言うよりはむしろ憂鬱そうな顔をしていた。何か悩みごとでもあるのだろうか?とにかく智枝は感情が面白いほど顔によく出る彼女だ。智枝の中にある楽しい事、嬉しい事、悲しい事、苦しい事が、その場面場面で万華鏡のようにくるくると映り変わって行く。俺はそんな智枝の心模様を見るのが楽しんでいたし、時には俺を不安にもさせる。今の智枝がまさにそうだった。何かひとりで思い悩んでいるのが手に取るようにわかった。その頬杖をついた憂鬱な横顔が俺を不安にさせる。
どうも智枝の様子がおかしい。すると智枝は途中で溜息をついて言った。

「あぁ~ぁ・・・今度の日曜日・・・憂鬱・・・」
俺は智枝が吐き出したその言葉の意味がわからなかった。
「なんで?」
「あのね・・・『元旦那』と子ども達とでTDLに行くの・・・正直・・・行きたくはないんだけど、子供たちが・・・ね・・・」

そうか・・・それは確かに憂鬱だ。それよりも俺には智枝が毎月「元旦那」に会っていたことが気がかりで仕方なかった。イヤな胸騒ぎがした。それにしても「元旦那」とは言え、身勝手なオトコだな、と思った。智枝と子ども達をまるで鼻をかんだティッシュを捨てるように裏切ったにもかかわらず、面倒な育児は智枝にまかせっきりだと言う。智枝は「元旦那」から離婚の慰謝料や子ども達の養育費すら受け取ることを拒否したらしい。智枝はふとした瞬間に凛とした表情になることがある。俺はそんな智枝の顔を見て本物のプライドを持った芯の強い女性だと思った。
「元旦那」はまだ父親としての感情が残っているのだろう。可愛い子ども達とは都合よく会うなんて・・・子ども達にとっては、いくら両親が離婚したとはいえ血の繋がった本物の父親だ。まだ離婚の意味もわからず、自分たちを捨てて他のオンナの元へと去っていった父親なんだと理解するにはまださすがに幼すぎた。そう考えたら智枝に、もう旦那に会うのはやめてくれ!とは言えなかった。


第34話

「毎月第一日曜日に、子どもたち連れてどこかへでかけることになってるの・・・」
智枝は箸を止めてうつむいた。子ども達はまだ幼い。父親に会うことは嬉しいだろうけど、智枝はどうだろうか?裏切られ、暴力まで振るわれた「元旦那」に会いたがるだろうか?しかも毎月?
俺は驚いた。智枝はいくら子連れとはいえ、毎月「元旦那」と会っていたのか?俺は眩暈がするほどショックだった。もうすっきりと「縁」を切っていたモノだと思っていたから。もちろん智枝も俺にそのことを隠すつもりはないから話してくれたのだろうけど。 
俺は怖かったけれど聞かずにはいられなかったことがあったので覚悟を決めて聞いた。

「あのさ・・・もし・・・もしも『元旦那』が、もう一度やり直したいって言ってきたら、智枝は何て答える?」

俺はテーブルの下で拳を握っていた。ドクンドクンと爆発しそうな不安感で脈が暴れている!そして、智枝から予期せぬひと言が俺の鼓膜を貫いた!

「う~ん・・・別に嫌いになって別れた訳じゃないからなぁ・・・」

ため息交じりにそう智枝は呟いた。その何気ない智枝のひと言で俺の心臓は猛禽類の爪で深く傷をつけられたような激痛が走った!俺はあまりのショックで食欲がまるで波が引くようになくなってしまい、食べかけの弁当に蓋をしてビニール袋にしまい込んだ。そんな俺の気持ちをつゆ知らず智枝は話を続けているが、そこから先は記憶にないほど俺の意識を混乱させた。
「・・・でも、離婚前は優しくて爽やか好青年って感じでね・・・そう、キミみたいな感じだったの・・・でも・・・ふぅ~・・・ヤダなぁ~・・・」
智枝は頬杖をつきながら俺に悪気なく本音を吐いた。俺は「元旦那」とはもう2度と会いたくない!と言ってほしかったのに。この智枝の言葉を聞いた時、俺の抑えきれなかった激しい脈は一瞬で凍りついた・・・この心臓を太いつららが深々と突き刺さったような気持ちになった。あんなオトコになんて二度と会いたくないわよ!と言って欲しかった。俺の心は引き裂かれた紙のような音をたててあちこちに散乱していった。もしこのまま毎月「元旦那」と会っていて、いつか「元旦那」から、

「お前ともう一度やり直したいんだ!」

と言われたら、智枝はなんて答えるのだろうか?そして信じている智枝から、

「そういうことになったからゴメンね」

と言われたら俺は一体どうなってしまうのか?飽きた人形のように簡単に捨てられてしまうのだろうか?子供たちのことを思えば復縁は正解だと思う。
会社員である旦那の稼ぎがあれば智枝は家事に育児に専念できるだろう。
だけど、その智枝の悪気のない何気ない一言で、俺は底が見えない谷底に叩き落とされたように平衡感覚を失っていた。正直、その嫌な予感がいつか当たりそうで、胸が不安でいっぱいになり、智枝の顔をみることが怖くてできなくなった。
もし復縁することを告げられたら、智枝はいったいどんな表情で俺にそのことを告げるのだろう?智枝は「元旦那」のことを、

「嫌いになって別れたんじゃない」

と、確かにそう言った。復縁になれば俺のことを邪魔な荷物のように簡単に捨てるのだろうか?悪い考えが濁流のごとく溢れ出てきて俺の思考をかき乱していく。
「どうしたの?黙っちゃって?」
そんな俺の気持ちとは裏腹に、無邪気な智枝が俺の顔を覗きこもうとした時、ちょうど昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったので、智枝と一緒にいることが耐えられなくなった俺は、
「あ、もう時間だ、ごちそうさま!」
と言って、残った弁当箱を包んだビニール袋をゴミかごに投げ捨てると、たまらず智枝から逃げるように席を離れた。智枝の顔をみることができなかった・・・
「急にどうしたの!」
立ち上がる智枝に俺は振り返ることも何も答えることもできなかった・・・ただ言い知れぬ不安と恐怖心だけが俺に覆いかぶさってきた。とにかく得体の知れない恐怖心が俺を智枝から遠ざけていく・・・智枝は、
「今夜の約束忘れないでね!」
と叫んだ。俺は振り返ることさえできなくて、自分のデスクに向かって行った・・・


第35話

俺は仕事をこなしながら今夜の智枝との約束を考えていたけど、こんな気持ちじゃ気が乗るわけがない。俺はイラつきを顔に出さないように今夜のことを考えていた。でも、智枝のあのひと言が、俺の頭の中にへばりついた泥のようにこびりついて剥がれなかった。グサグサと胸をナイフで抉るように俺を苦しめる。

「別に嫌いになって別れた訳じゃないからなぁ・・・」

 智枝が別れたはずの「元旦那」と毎月会っていたなんて・・・それが例え子ども達が一緒だとしても・・・俺は頭を強く振って自分に言い聞かせた。

智枝は「元旦那」と子ども達4人で出かけるだけじゃないか・・・

そう自分に言い聞かせてみても、どうしても俺の頭の中には智枝と「元旦那」がベッドの中でお互いの熱い体液にまみれながら絡みあっている場面しか映ってこなかった! 
そんな場面しか想像できなかった!夜の夫婦の姿がフラッシュバックして俺の頭の中を、見たくないものを無理やり見せつけるように映り変わって行く!俺の意思に反して、不安と恐怖心だけが加速していく!

 
俺は愛している智枝のことを信じることができないのかっ?

 なんで愛している智枝のことを疑ってしまうんだ?

俺は智枝を愛していないのか?どうして信じることができないんだ?
 

そんな汚れた言葉の羅列が俺の頭の中に螺旋を描いて落ちてゆく・・・
今夜智枝とデートする約束をしたけれど、そんな場面が俺の知らない所でされていると思うと、もう考えただけで怖くて怖くて仕方がなかった。5月になったのに真冬のように俺の指先が震えている。俺はキーボードの入力を何度も間違えては訂正する作業を虚しく繰り返すことしかできなくて、今日の午後からの業務はまったく捗らなかった・・・
業務が終わってもまだ恐怖で指先が震えている・・・いつか、いや、俺が思うよりももっと早く、もっと近いうちに智枝が俺の元から、怪我が治ったカナリアのように飛び去って行ってしまいそうな気がしてたまらなかった。
無心になるように心を落ち着かせてみたけれど、そうすればするほど顔が引きつっていくのが自分でもわかった。こんな顔は誰にも見られたくなかった。まして智枝には・・・
智枝は昨夜俺のことを愛していると言ってくれた。そしてキスもしてくれた。なのに、それらすべてがただの挨拶のように軽く感じてしまう。智枝の心が、気持ちが、わからない・・・苦しみと恐怖心が俺の後ろで銃の引き金を引こうとしているみたいだ・・・


第36話

智枝のことを信じていないわけじゃない。だけど、胸を張って智枝のことを信じているとは言えない俺がいることは確かだった・・・智枝に会うのが、怖くてたまらない・・・
 こんなに愛している人から逃げたいと思ったことが未だかつてあっただろうか?得体の知れない未知なる恐怖。人は目に見えないものほど恐れる。「神」を恐れるように・・・

 ベツニキライニナッテワカレタワケジャナイカラ・・・

 そんな酷いことを言って欲しくなかった。聞きたくもなかった。嘘でも何でもいいから適当なことを言って笑って誤魔化して欲しかった!
世の中知らない方がいい事が多すぎる。
 智枝に平気で嘘をつかせることや真実を歪曲させて語らせることがどれだけ困難なことなのか、俺は知っている。それほどまで智枝は身も心も「純粋無垢」なのだから。
まだあんな場面が俺の脳裏にこびりついて離れない。激しい眩暈に襲われる。
俺の智枝は、いったいどこへ飛び去ってしまったのだろうか・・・?
いくら手を伸ばしてみても何も掴めない現実に苛立ちを覚えて震え怯えた。
純粋なる「愛」は人の思考を嵐のように掻き乱す。俺はその場にしゃがみ込んだ。
誰にも見つからないように・・・不安と恐怖心から逃れるように・・・
智枝を心の底から愛するが故に蟻地獄のような負のスパイラルに堕ちてゆく。
もがけばもがくほど身体が暗闇に引きずり込まれていくようだ・・・
その先に待つ者はいったい・・・?
 身体が引きちぎられていくようだ・・・怖くて、智枝に会えない・・・
失恋するよりも苦しい・・・いつか智枝を失う日が来ることを想像することが、今の俺にとって、何よりも怖くて苦しい・・・

 ダレカイナイカ?オレヲコノクラヤミカラヒキアゲテクレナイカ!

頭がイカれそうだ!割れるように頭が痛い!きっと死ぬ時よりも今の方が何倍も苦しいに違いない。怖い!怖い!怖い!智枝に会うのが、怖いっ!
俺の勝手な妄想が俺を闇の中深くへと陥れていくっ!
「愛」は・・・「狂気」と紙一重なのだろうか?

 その時、どこかで誰かが叫ぶ声が聴こえたっ!

暗闇で一筋の光を見つけたかのように、ある考えが閃いた!

それなら今夜は智枝の気持ちを確かめるチャンスでもあるんじゃないか?

智枝が俺とつき合っているのは単に寂しさや孤独感を紛らわすだけの関係なのか?それとも本気で俺を愛してつき合っているのか?今夜はそれを確かめる絶好のチャンスだと思わないか?どこかで誰かがそう叫んでいた!俺はその叫び声に向かって一心不乱に走り出した!


第37話

智枝がどんな態度をとるか?どんな表情をするか?それですべてが解決するんじゃないか?どうやって智枝の気持ちを確かめるか、まだ手段は決まっていないけど、それは場面場面で臨機応変にチャンスを見つけていけばいい!こんなことをしたら智枝の俺への気持ちを疑っているみたいで気が引けるけれど、智枝の俺への気持ちが疑心暗鬼のままの状態じゃ、これからどうやって智枝と接していていいのかわからないのも正直な気持ちとして俺の中にある。
俺はもちろんエスパーでもなければ超能力者でもない。智枝の、俺への気持ち、そして「愛」が本物なのかわかるわけがない。だから今夜はそれを確かめたい!嘘偽りない智枝の俺への「愛」が本物なのかどうか。ただそれがはっきりわかればそれだけでいい。だから今夜のデートは余計な考えは投げ捨てて俺は今夜賭けにでることにした。俺の心の準備ができたと同時にタイミングよくスマホにメールが届いていた。

(何か急用でもあったの?今夜0時に川崎駅改札口に待ち合わせでいい?)

(OK!練習が終わったらすぐ行くよ)

と、俺は返事を返した。やがて業務終了を告げるチャイムが鳴ると、いつもは智枝と待ち合わせをして一緒に帰ってるけど、昼休みの時の智枝のあのひと言が「しこり」になっていたので智枝に見つかる前に逃げるように急いで一人でジムに向かった。


第38話

俺はジムに着くなり階段を駆け上って真っ直ぐにロッカールームへと向かって着替えを済ませた。さっそくストレッチをして身体をほぐすところまではできたけれど、いざ練習を始めるとまだ身体と心の歯車が噛み合っていない状態から抜け出すことができない。どうしても智枝と「元旦那」が愛し合っているところを想像してしまう。脳に錆がついたような気持ちの悪い落とし穴から抜けられずにいる。闇雲に拳を振り回しても、そこには何の手応えもなくて、ただ虚しく空回りするばかりだ。
こんな時こそ冷静にならなければいけないのに冷静になる事ができない。焦れば焦るほど、智枝と「元旦那」がベッドの上でお互いを貪り尽くしている場面しか想像できない。俺がいくらそんな嫉妬に満ちたシーンを振り払おうとしても、夜の夫婦の姿がリアルさを増して明確になってくっきりとした輪郭をかたどっていく。夫婦の熱い吐息や喘ぎ声までが聞こえてきた。俺はグローブをつけると一心不乱になってサンドバッグを殴りまくった。サンドバッグに映る智枝と「元旦那」の逢瀬を叩き壊すかのように、ただがむしゃらに殴り続けた。殴っても殴っても消えることのない不安に俺は怯えていた。俺の勝手な妄想は何度サンドバッグをぶん殴っても消えることはなかった。それどころかどんどん鮮明な映像になっていくばかりだ。俺は両拳のギアをトップにして、拭おうとしても拭うことのできない目に見えない不安をかき消すように必死にサンドバッグに拳を叩き込んだ。

すると突然横から誰かが俺の腕を力いっぱい掴んできた!俺は、邪魔すんじゃねぇよっ!と怒りの籠った目でソイツを睨みつけると、それは俺のトレーナーだった!

「いい加減もうやめろっ!バカ野郎!拳が潰れるだろっ!」

その瞬間一気に気が抜けて、酸欠の苦しみに息ができなくなった。俺はその場にしゃがみ込むとゼェーゼェーと荒い呼吸を鎮めるために必死になって身体中に酸素を送り込んだ。トレーナーが俺のグローブを外すとバンテージがうっすらと紅くなっていた。拳の皮が剥けて血が滲んでいた。
「もう今日はいいからあがれ!」
そう言われて俺はゆっくりと立ち上がると、ジム内のみんなに俺の様子がおかしいことに気がついたのか?みんな手を止めて俺を見ている。普段は怒声やサンドバッグを殴る音で騒々しいジム内が静まり返っていることに気がついた。俺は5ラウンドもの間、30秒のインターバル中も自暴自棄になって止まることなくサンドバッグを殴り続けていた。みんなの視線が俺に集中する。やっと呼吸が楽になってきた。
 しんと静まりかえったジムの練習用フロア・・・
 その沈黙を破る様に突然インターバルを終えて次のラウンドの始まりを告げるブザーが鳴ると、それぞれが自分の練習を思い出したかのように意識を戻して拳を動かし始めた。ジム内にいつもの気合に満ちた音が戻ってきた。俺の意識も、やっと冷静さを取り戻していた。もう、あの見たくもない映像が頭の中から大量にかいた汗とともに流されて消え去っていた。やっと身体と心の歯車が綺麗に噛み合ってゆっくりと回り始めた。
 もう、智枝に会うことが恐ろしくも苦しくもないほど何でも無くなっていた。これなら普段通りに智枝の瞳をみながら話すことができる、そう思った。


第39話

俺は練習を切り上げて、シャワーを浴びて着替えを済ませると、さっきまで「しこり」となって心に引っかかっていた智枝への不安な気持ちが、いくら振り払ってもとれなかった蜘蛛の糸がスルリと解けたようにすっきりした気分になっていた。これなら智枝と顔を合わせて自然に話ができる。時計を見ると智枝と約束した時間にちょうどいい感じで間に合いそうな時間だった。俺はジムをでてジムの目の前にある五反田駅に向かって歩きながらポケットからスマホを取り出して智枝にメールを送信した。

(今練習終わったから、約束の時間に間に合うよ)

と打つと、すぐに智枝から、

(お疲れ様!待ってるね!)

と返事がきた。今夜は智枝の気持ちを確かめるチャンスだ!どんな予想外の結果が待ち受けているかわからない。俺は智枝の本心が知りたい!あの夜の薄暗い公園での智枝の気持ちが本物かどうか、どうしても知りたかった。あの日の夜、月灯りが照らす公園で交わした言葉を使わなかったお互いの「愛」の告白は、言葉を使った「愛」の告白には勝てなかったのだろうか?俺はどちらが正しいのか白黒ハッキリさせたかった。だからどんな結果になっても構わない!真実を知りたい!ただそれだけだった。
どうして人は恋をすると不安な気持ちになるのだろう?心は幸福感に満ち溢れるはずなのに・・・俺はもう平常心でいるけれど、また智枝に、

「別に嫌いになって別れた訳じゃないないからなぁ・・・」

と、そんなことを言われたら、また練習前のような見るものすべてがグレー一色に映る、不安と恐怖心に怯えることしかできない世界に引き込まれてしまうかもしれない。

一体なぜ?何をすれば、どうすればこの胸に降り積もる灰のような不安感は消え去るのだろう?俺はその答えを知らない。智枝にもこんな不安感はあるのだろうか?あれこれ考えても仕方がない。歪曲された思考と勝手な妄想だけが突っ走っていく苦しみなんてもう2度とごめんだ。今は余計な考えはすっかり消え去っているのだから、俺は試合に向かう時の気持ちで覚悟を決めて、人混みでごった返す23時の五反田駅の改札口を人の波をかきわけて進みながら、智枝と約束した京急川崎駅へと向かった。


第40話

山手線で品川駅に着くと、今度は京急の下り電車に身体を捻じり込ませるようにして乗り込んだ。土曜のこんな夜中でも電車内は人、人、人、でごった返していた。そんな満員電車が京急川崎駅に着くと、俺の身体は人ごみに逆らうことができないまま、電車を降りる人たちの荒波に飲み込まれて流されていった。俺は身体が自由になると、もう智枝が待っているんじゃないか?そう考えただけで胸が高鳴っていた。今日怯えていた不安感が微塵もなかった。
純粋に愛している智枝とやっと会える!そんな恋愛に目覚めた思春期の少年のような甘酸っぱい気持ちで智枝を探し求めて急いで改札口すり抜けていった。
小さな改札口だけれど、終電間際の電車から溢れ出たこの人混みのどこかに智枝がいると思うとその人波の流れに逆らいながら俺は左右を何度も見渡して、智枝がどこにいるのか必死になって探した。智枝に早く会いたい!人混みの中をかき分けながら智枝を探した。見慣れているこの小さな京急川崎駅の改札口だけれど、今はとても広く感じて周りの、俺と一緒に降りてきた人々の群れが邪魔をする!早く智枝をつかまえないと、智枝がどこか遠くへ行ってしまいそうな気がして悲しくなってきた。その時小さな改札口の向こうにある柱に寄り掛かって時計を気にしながら俺のことを待っている智枝を見つけることができた!いくら春の夜でもやっぱりまだ肌寒い。智枝はデニムのジャケットを羽織っていた。その髪をかきあげる仕草が妙に艶っぽくて俺は見惚れたまま立ち止まってしまった。息を切らして突っ立っている俺と智枝の目が合うと、智枝はいつもの明るい笑顔で軽く手を振りながら俺に近づいてきてくれた。やっと見つけた俺のカナリア・・・

「待たせちゃったかな?」
「ううん、私も今さっき着いたところだよ。それより練習で疲れてない?無理な約束させちゃったかな?」
智枝が少しマユをひそめながら心配そうな顔で俺を上目遣いで見つめている。俺の気分はもうすっきりしていたし、作戦を忠実に実行するための覚悟もできていた。智枝の気持ちをどうしても確かめたいというそんな欲望?好奇心?
「いや、今日は軽く済ませてきたから大丈夫だよ」
と智枝を安心させるために言った。皮がずる向けになった両拳を隠しながら・・・
「ならよかったぁ~。キミに無理させてるんじゃないかなって、ずっと思ってて・・・」智枝はしばらく黙り込むと、俺の両手を握りしめて、
「キミに・・・会いたかったから・・・」
うん、ここまでは普通の心情だな・・・俺はそう嬉しく感じると微笑んで、
「俺も智枝に会いたかったよ」
「ほんとに?」
と、逆に俺の気持ちを確認するかのように智枝は聞き返してきた。智枝にも俺と同じような不安感はあるのだろうか?じっくり智枝の一挙手一投足を見逃さないように、俺は全神経を集中させながらピンと張りつめた緊張の糸を智枝に悟られないよう、そんないつもと変わらない自然な態度をとった。


第41話

「もう少しで上映時間になるから、そろそろ行こうか?」
と、いつものように俺の手を引っ張っていく。
真夜中の川崎の景色が俺の目の前を流れていった。俺は高校を卒業するまで川崎に住んでいた。横浜に引っ越してから10年は立っただろうか?もうそこには俺が幼いころから見慣れていた川崎の景色はなかった。時間は川の流れのようにとまることを知らない。川の流れが時間をかけてその流れゆく形を変えていくように、時間は街も人も変えていく。

「そう言えば何が観たいの?」
俺は智枝と一緒ならどんな映画でもよかった。
「ディズニーの映画だよ。この前子どもたち連れて行ったんだけどね、子ども達は夢中だったけど、私は混雑しててよく観られなかったから・・・でも途切れ途切れにしか観ることができなかったけど素敵な映画だなと思ったから、もう一度、今度はゆっくり観たいなと思ってね。だから、今回はキミと一緒に観たいの!ね?いいでしょ?」
智枝はおねだりをする少女のように体を揺すっている。そんな智枝の栗色のさらりとした髪の毛もサラサラと揺れている。家に戻ってからシャワーでも浴びたのだろう、智枝が使っているシャンプーの香りが夜の風とともに俺の鼻元に漂ってきた。智枝の匂いだ・・・それはとても愛しい匂い・・・安心する匂い、そして俺を酔わせる魔法の匂い・・・そして、「愛」の優しい匂い・・・
そっか、子ども達がいるとゆっくり観られないもんな・・・俺は二つ返事で、
「あぁ、いいよ。俺も観たいと思ってたし」
「よかった!今夜はゆっくり観られるわ!」
母親から一人の自由な女性として解放されたようで智枝は嬉しそうだった。その愛らしい微笑みに俺もつられて微笑んだ。智枝が喜んでくれれば何だっていいさ。俺はそう思った。 
その時にはさっきまで錆びた鎖のように絡みついて俺を苦しませていた不安感をジムでのハードな練習で流した汗と一緒に流してきたから、もう智枝に対して「しこり」になるような負の感情は微塵もなくなっていた。智枝の笑顔とつないだ手の温もりがすっかり俺の気持ちを優しく包んでくれていた。


第42話

人もまばらな深夜の映画館に着くと、智枝はあらかじめ上映時間を調べていたようで、ちょうど0時半からの上映を観る時間に余裕をもって間に合ったここまでくるとさっきの改札口のような喧騒は遥か遠くに流れていって、俺と智枝の逢瀬を邪魔する者などひとつもなかった。これから智枝との夢のような甘い時間が始まろうとしている。こんなに甘酸っぱい時間を過ごすのはいつ以来だろう?真夜中のデートだからかもしれないけれど、誰にも見つかることもなく、誰の目を気にすることもなく、甘く優しい2人だけの時間が頬を撫でる微風のように流れていく。智枝の手の温もりは俺に癒しを与えてくれる。

「時間ぴったりでよかったね」
「俺、レイトショーは初めてだな」
「うん、私も初めてだよ。途中で眠くならないといいね」

そう言いながら智枝は俺の左手をしっかり握ったまま小さく振った。
俺は2人分のチケット代を払い中に入ると、いつもの昼間の映画館とはうって変わってガラガラにすいていた。俺たちはちょうど観やすい席に座ると上映時間まで待っていた。館内が暗くなって映画館お決まりのつまらない広告映像が流れ始めた。
そんな映像を無視しながら、2人で世間話をしていたら智枝が、
「・・・なんか・・・ちょっと・・・寒いね・・・」
とポツリ呟いた。そして「クシュン」とくしゃみをひとつした。まだ梅雨時期にも入ってないのに館内には冷房がかなり効いていた。
「大丈夫か?風邪ひくなよ?」
と言って、俺が智枝の額にそっと手を当てると、智枝は気持ちよさそうに目を閉じて、
「・・・キミの手・・・温かい・・・」
と言って俺の手に智枝の手を重ねてきた。智枝の細い指と俺の指が重なり合って絡みあう。誰もいない貸し切り状態のような静かな映画館の中・・・俺はもう片方の手を智枝の頬に当てると、そっとキスをした。智枝はそれを待っていたかのように俺の首に自分の両手を絡みつけてると、

「ずっと一緒にいてね・・・」

と小さく囁いた。誰にも気づかれないように、声と音を殺しながら、2人はキスに夢中になっていた。絡み合う舌に2人は酔いしれて時の流れさえも忘れるほど夢中になっていた。智枝の吐息が艶めかしく俺の耳をくすぐる。俺は智枝の耳の奥に舌を滑り込ませると、智枝の身体がビクッ!と反応して仰け反った。俺は智枝の身体を抱きしめると、声を殺しながら身悶えている智枝の熱く激しい鼓動が俺の身体に伝わってきた。智枝の頬が微かに濡れている。俺は智枝が急に欲しくてたまらなくなった。すると、日中俺を苦しめた「元旦那」との夜のシーンが、俺と智枝がベッドの中で、互いの「愛」をぶつけ合うシーンに切り替わっていた。今、その智枝が俺の目の前にいて、そんな智枝を俺は抱きしめている。智枝の両腕が俺の首にギュッとしがみついてくる。俺は智枝の身体が欲しくなった。ベッドの中で裸になって「愛」を絡わせたくて我慢ができなくなった。燃えるような感情をかき消すことができなくなった。燃え盛る2人の「愛」の炎、消すことのできない2人の「愛の」炎が俺たち2人を激しく燃やし続けていく。智枝の嗚咽にも似た声が聴こえた。それは俺が智枝を求めるように、智枝も俺を欲しがっているサインだった。今夜、智枝とひとつになりたい・・・智枝の身にまとっているすべてを剥ぎ取って、産まれたままの姿になった智枝のすべてを、俺の物にしたくてたまらなかった。もはや2人は壊れた機械のように理性を失って、真っ暗で誰もいない映画館の中で「愛」の炎をさらに激しく燃やしていった。智枝が震えている。どうして震えているのか、俺にはわからなかった。でもきっと智枝も俺にその身のすべてを捧げる気持ちでいるのがわかった。智枝も俺とひとつになって重なり合いたいと思っているに違いない。胸の中で「愛」の膨張に耐えられなくなって流れ出る涙のように感じる・・・智枝を、これ以上待たせちゃいけない!


第43話

俺は男として覚悟を決めて、智枝の顔を直視して焦る気持ちを殺したまま智枝の瞳をみつめて、何も飾りのない素直な押さえられないこの想いをストレートに伝えた。

「今夜、智枝を抱きたい」
智枝はとくに驚いた顔もせず、それを予測していたようで、
「・・・うん・・・わたしも、キミが欲しい・・・それにね、わたし・・・怖くてたまらないの・・・」
「えっ?怖い?いったい何が怖いの?」
「あのね、キミのことをもっと知りたいの!キミのすべてを知りたいの!キミのことを考えるだけで悲しくて胸が苦しくなるの・・・いつかキミがわたしから離れて行ってしまいそうで・・・それが怖くてたまらないの!だから今夜、キミのすべてを知りたいの!わたしにキミのすべてを見せて欲しいの。キミのことが大好きで大好きで、いつも泣いてばかりいるわたしだから・・・わたしに、キミのわたしへの気持ちと言う「愛」を見せて欲しいの・・・だから、今夜、わたしを壊れてもいいから・・・頭の中が真っ白になって涙が枯れ果てるまで、わたしを激しく愛して欲しいの・・・」
と俺への不安をかき消すように囁いた。
そうか・・・智枝も俺と同じ苦しみを持っていたのか・・・俺がこんなにも智枝のことが好きで愛おしくてたまらない気持ちが、それが目には見えないものだから、怖くて悲しくて苦しかったんだね・・・俺が幾千もの「愛」の言葉を紡ぎだしていくよりも、もっとはっきりとした形で、智枝の心の奥底まで届くように俺の気持ちを伝えるためには・・・

もう、こうするしかない!と思った。と同時にそうしなければ、俺の、智枝への「愛」が伝わらないとも思った。きっと智枝もそれを望んでいるはずだ。

この世で1番不確かで不安定なモノ、それは人の「愛」だと俺は思う。
目に見えない不確かで不安定だからこそ、人は誰かと相思相愛になって「愛」を知ることができても、その「愛」の普遍的な性質故に、苦しまされることになるのだろう。
人はそれを具現化させて自分を満足させるために必死になって手を伸ばしても、「愛」は幻のように逃げていくばかりで、人をさらに奥深くにある疑心暗鬼へと陥れていく。
これは人間が未来永劫苦しみ続けなければならない最も大きな煩悩なのかもしれない。


第44話

ただ智枝の気持ちを確かめるだけでよかった映画デートのはずが、映画が始まる前に映画館を出て、歩いて少しの駅裏にあるラブホテル街に向かった。金曜の夜のこの時間じゃ、部屋はあいてないだろうな、と諦めの気持ちで智枝と手をつないでホテル前まできた。運よく「空室」の緑色に光る文字が2人を待ち構えていたかのようにホテルの入り口で光っている。

智枝は俺から繋いでいた手を離すと俺の腕にしがみついてきた。智枝が緊張しているのかと顔を覗き込んでみると、今にも泣きだしそうな切ない顔になっていた・・・2人は黙ったまま、なんの躊躇いもなくホテルの中に入っていった。
「本当にいいの?」
最後の確認をするかのように俺は聞いた。すると智枝は、
「・・・キミじゃないと・・・私・・・ダメだから・・・」
と言って、さっきまでこらえていた涙が頬をつたっていた。
入り口から部屋までの間、ずっと俺にしがみついていた智枝のちからはさらに強くなっていく。震えているのか?泣いているせいか?この涙は嬉しさの涙か?はたまた後悔の涙か?俺にはまだわからなかったが、2人はもう引き返せない。
部屋の鍵を開けるや否や、ドアが閉まる前に2人はお互いを貪るかのように貪欲に求めあった。まるでこのまま2人でこの世の果てまで堕ちていくかのように・・・
2人の長くて甘いキスが続く。智枝が吐息を漏らす。お互いに舌を結ぶかのように絡ませていく。ハァハァと2人の呼吸が静かな部屋に広がっていく。
俺は智枝の耳に舌を入れ、軽くかき回すとそのまま智枝の首筋を滑るように舌を這わせていった。智枝の「アッ・・・」という喘ぎ声が何度もベッドの上に響いた。右手は智枝の心臓の上に置かれて、その右側にある膨らみを優しく包み込む。すべてを脱ぎ捨てた2人・・・


第45話

俺は智枝のふくよかな胸の先端にある乳首を口に含むと吸っては舐めたりを繰り返していた。智枝の喘ぎ声がさらに大きくなり、この狭い部屋に響き渡っていく。
そして俺は智枝の両足を大きく開いて膝を立たせると、この世で最も美しいMの文字ができあがった。その智枝の「オンナ」は決壊したダムのように愛液で溢れていた。そこに俺は顔をうずめて味わう様に舌と唇を使って隅から隅まで舐めまわし、女性が一番乱れる蕾に吸いついている。
智枝の身体は仰け反り悲鳴に近い喘ぎ声をだして、俺の頭を鷲づかみしながら激しく逃げるように悶えている。そして俺が顔をあげると、智枝は俺の反り立ったペニスにしゃぶりつき、メレンゲのように泡立った唾液で濡らしていった。離婚以来、SEXは初めてなのだろうか・・・俺は我慢ができなくなって、

「智枝・・・もう、いい・・・?」
「・・・うん・・・私も、早くキミが欲しい・・・わたしの中に、出して・・・」

智枝はそれでもいいようだった。智枝の目が涙で潤んでいる。俺はゆっくりと智枝の子宮の入り口に自分の「オトコ」を差し込むと、智枝に絞めつけられながらもヌルリと智枝の奥へと入っていった。喘ぎ声をあげながら智枝がのけぞる!無意識に涙が溢れ出る!俺は今智枝に受け入れられている!俺が智枝の子宮を突き破るように何度も何度も腰を突き上げる!智枝は俺に強くしがみつき、イクッ!ハァ・・・アァァァ!と叫んだ!同時に俺も「ウゥッ!」っと声をあげた!俺は智枝の中に白濁のDNAを惜しみなく散りばめた!「妊娠したくない」そう思う女性ならすぐにシャワーで洗い流しにいくだろうが、逆に智枝はそれを願っているかのように俺にしがみついてきた。
お互いを破壊するかのように求めあった2人は、力尽きて倒れた旅人のように、静かに横たわりお互いを優しく包み込みながら抱きしめ合った。2人の、戦いの後のような激しい息づかいだけが、音のない部屋に響き渡っている。


第46話

すると呼吸を整えた智枝がさらにギュっとしがみついてきて、何かに祈るかのようにささやいた。

・・・キミノコドモガホシイ・・・ダカラ、ワタシヲ・・・ハナサナイデネ・・・

と俺の胸の中で顔を埋めて哀願するようにささやいた。それはまるで羽を痛めて飛べなくなったカナリアの、今にも消え入りそうなほどか弱い声だった。俺は、
「もう、独りなんかじゃないよ?」
そう言うと、
「うん・・・わたしね、さっき言ったようにキミの気持ちがわからなくて、毎日キミに会うたびに不安で怖くてたまらないほど苦しかったの・・・でも、今ははっきりとキミの気持ちが見えるから、もう大丈夫だよ」
「俺の気持ちが見えた?そうか・・・俺の気持ちをわかってくれてよかった。俺も智枝の気持ちがわからなくて智枝に会うのが怖かったんだ」
「どうしてわたしと会うのが怖かったの?わたしはこんなにもキミのことが好きなんだよ?」
「昨日さ、智枝からあんな事を聞いてから、眩暈がするほど不安で苦しかったんだ。いつか智枝が俺の元から離れて、『元旦那』さんのところに飛んで行ってしまうんじゃないかって・・・智枝を奪われて、失うことが、とても怖かったんだ・・・」
「あんな事?私、何て言ってキミのこと傷つけてしまったの?」
「智枝は悪くないよ・・・あの時智枝が『別に嫌いになって別れた訳じゃないから』って言ったの、覚えてない?智枝はたぶん無意識のままそう言ったと思うんだ。だから、もし
『元旦那』が智枝に復縁を申し込んできたら、きっと智枝は俺から去って行ってしまうだろうと思うと、いつかそんな日が来そうで不安で、怖かったんだ。智枝は嘘や誤魔化しをしない人だって言うのはじゅうぶんわかっているよ?だから、そのセリフが智枝の本心なのかな?と思うと、とても苦しかったんだ」
「・・・ごめんなさい・・・わたし、キミにそんな酷いことを言って、キミのこと傷つけてしまっていたんだね・・・でも、もうこれからは私のことを信じて欲しいの・・・離婚した時の気持ちと、今の気持ちは全然違うから。今はもうキミだけだから、安心していいんだよ?私の気持ちも今夜、ちゃんとキミにも見えたでしょ?」
「うん、確かに智枝の気持ちが見えたし感じることもできたよ。だからもう、昨日までの不安で苦しい気持ちなんてもうないよ」
「・・・私もキミの気持ちが見えたから、もう大丈夫だよ・・・私の不注意な言葉で大好きなキミを傷つけていたなんて知らなかった・・・あの人とはもうなんでもないから私のことを信じて、そして愛して欲しいの・・・もう絶対にキミに不安な気持ちや苦しい思いはさせないから・・・絶対に・・・」


第47話

そう言うと智枝は俺の胸の中に顔をうずめてきた。俺はそんな智枝の絹のような髪の毛を撫でながら、智枝を不安と苦しみから遠ざける言葉を探していた。智枝が昨日零れるように呟いたあんな台詞なんてもうすっかり気にしなくなった。だって、今俺の腕の中にいるのは俺にすべてを見せてくれた一糸纏わぬ姿でいる智枝なんだから。俺と智枝は生まれたままの姿でお互いのすべてを広げて見せた。過去の傷も今の幸福感も、何もかもを包み隠さず見せあった。2人の間にあった透明で薄いガラスがガシャガシャと音をたてて崩れ落ちていった。もう俺と智枝の間に邪魔なものが入ってくることがなくなった。だから今夜こうして身体と心が重なり合ってひとつになることができた。もう2人の間にはあんなに怯え震えていた不安や苦しみが入る隙間などなくなっているのだから・・・
やっと2人で本当の「愛」を見つけることができたのだから・・・

「もう俺も大丈夫だよ・・・俺も智枝のことが好きだから、もう寂しくて苦しい思いはさせないから・・・」
「うん・・・ありがとう・・・キミを好きになってよかった・・・」

智枝は安心したかのようにそっと微笑み、俺の言葉に安心したのだろう。深海に沈んでいくように静かに眠りについた。

智枝が、俺の子どもが欲しい・・・と囁いた。そんなセリフは女性にとって最大の覚悟だろう。俺は探し求めていた答えをやっと手に入れることができた。俺は智枝の子宮の中で白濁の体液をぶちまけるように果てた。そんな俺のDNAを智枝の子宮が求めていたかのように、すべてを飲み込んでいった。そう、智枝は俺のすべてを受け入れてくれたのだから・・・
智枝は確実に俺を愛しているんだ・・・そう思うと余計に智枝が愛おしくなった。俺はそんな智枝の絹のように滑らかな髪の毛を撫でながら、そっと無邪気な少女にかえった寝顔をしている智枝の頬に口づけすると、俺もゆっくり眠りに堕ちていった・・・


第48話

朝陽が昇る頃、智枝が寝ている俺の身体を揺さぶった。時計を見ると早朝の5時を少し過ぎたところだった。
「・・・おはよう・・・起こしてごめんね・・・もう、帰っていいかな・・・?そろそろ始発の電車がでるから・・・」
智枝が申し訳なさそうに聞いてきたので、俺はすぐにきっと子ども達のことが心配なんだなと思い、
「あぁ、帰ろうか・・・すぐシャワー浴びてくる」
「・・・うん・・・ごめんね・・・」
「気にしないでいいよ、すぐ終わらせるから待ってて」
シャワーを浴びて俺も身支度を終えると、俺たちはまだ夢の中にいる恋人たちが眠るホテルを後にした。

昨日の激愛が嘘のように静かな朝だった。土曜の早朝だからだろうか?通行人はおろか、走りすぎる車すらなかった。目の前にはアスファルトの迷路と無人のビルの世界が無機質に広がっている。車の代わりに誰かが投げ捨てた新聞紙が風とともに目の前を流れていった。俺は智枝を川崎駅の鎌田行きのホームまで送ると、

「今日はありがとう・・・私・・・嬉しかった・・・またこうして会ってくれる?」
と俺の手をしっかりと握りしめて聞いてきたので、俺は、
「あぁ、なるべく金曜の夜は空けておくよ」
そう言うと智枝もまだ眠いのだろう、まだ夢うつつのように微笑んだ。
「ありがとう・・・やっとキミのすべてがわかったから。それまでどれだけキミのことが大好きな気持ちは自分自身でもよくわかっていたんだけど・・・キミの本当の気持ちが見えなかったから、毎日が不安で悲しかったの・・・でも、もう今日からはそんな寂しさや苦しみに悲しまなくてもいいんだよね?」
「そうだね・・・俺も智枝に今までのような不安で苦しい想いはもうさせないよ。智枝もちゃんと真っ直ぐな気持ちで俺に智枝のすべてを見せてくれたんだから」
「嬉しいな・・・私たち、やっとひとつになれたんだね・・・もう怖いことも悲しむことも泣くこともないんだね・・・いつもキミが私のすぐそばにいてくれたのに、キミの心が見えなかったから、キミと手を繋いでいても、いつもキミが遠くにいるような気がして仕方なかったんだ・・・でも、今はキミと離れていてもきっとすぐ近くにキミを感じることができると思う・・・キミには私がいて、私にはキミがいる・・・それだけでもう何もいらないよ・・・あっ・・・でも、ひとつだけ欲しいものがあるの・・・聞いてくれる?」
「ひとつだけ欲しいものがあるの?俺に買えるものなら買ってあげるけど。その欲しいものって何?」
「あのね、それはね・・・キミと私の『赤ちゃん』が欲しいの・・・キミそっくりの、可愛くて元気で優しい男の子・・・」
「そっかぁ、子どもかぁ・・・ありがとう。俺も欲しいな。でも俺に似るのは勘弁してほしいなぁ・・・だって、目の前に自分のコピーがいるようでさ。受け入れるのに時間がかかりそうだよ。だから智枝そっくりの女の子がいいなぁ。そうしたら智枝の子ども達と3姉妹になるから、きっと仲良くやれるんじゃないかな?」
「ふふふ、そんなこと考えているんだ?でももう女の子はもういいや。キミそっくりの男の子がいいな・・・そうしたら子ども達もキミそっくりの男の子のほうが絶対喜ぶよ?ね?だから、もし妊娠したら・・・キミと私の『赤ちゃん』、産んでもいいよね?」
「もちろんだよ。実感わかないけれど楽しみだね・・・でも、出産費用ってかなり高いんでしょ?俺、お金がないよ?」
「大丈夫!その辺は私に任せて?」
「そう?わかったよ。あとは俺の経済力だな・・・」
「お金なんてその気になればなんとかなるもんだよ?共働きすればなんとかなるし」
「じゃ、誰が『赤ちゃん』の面倒をみるの?」
「その辺も心配しないで大丈夫だよ?意外とね、何とかなっちゃうものなの。私は2度も経験しているから任せておいて?」
「ははは、そうだね。でもまだ妊娠もしていないのに、ちょっと気が早すぎない?」
「だって、それだけ嬉しいんだもん!あとはキミのボクシングには口出しはしないけど、練習でも試合でも、絶対にケガだけはしないで、ね?ボクシングはキミの気が済むまでやっていいから。私も応援してるんだよ?次の試合が決まったら絶対に教えてね?」
「わかってるよ、大丈夫。ちゃんと智枝にチケット渡すから」
「ありがとう。あとね、キミに迷惑はかけないからさ・・・」
「ん?どうかしたの?」
「もし私が妊娠しても、私から『結婚して!』とか言わないから・・・キミに養育費とか渡して欲しいとか・・・そう言うことも言わない。私ひとりで育てるから・・・キミの重荷になるつもりもないから・・・だから安心してね?」
「え?それってどういうこと?」
「キミに迷惑かけたくないの・・・」
「急に変な話なんかするなよ!迷惑なわけないだろ?俺に智枝のことを放っておけっていうのか?そんなことできるわけないだろ?そんな悲しい事言うなよ・・・」
 
俺は智枝の細い身体を力強く抱き寄せた。

「じゃ、私が妊娠したら・・・『結婚』してくれるの・・・?」
「あぁ、智枝が妊娠してもしなくても、俺はそのつもりで智枝とつき合ってるんだよ?だからバカなこと言うのはもうやめてくれ。ボクシングにしても、ボクサー生命はとても短いんだ。もしかしたら次の試合で引退することになるかもしれないし・・・だから、俺が引退したら『結婚』しよう?もう俺は智枝で最後の恋愛にしたいんだ。もう智枝のことしか俺の頭の中にはないんだよ。引退したらすぐにちゃんとした職を探すから、それまで待っていてくれないか?」
「その言葉・・・プロポーズだと思っていいの?」
 智枝は今にも泣きだしそうな嬉し笑顔でそう言ってきたので、
「それ以外にどんな意味があるって言うのさ?」
 俺は躊躇うことなく智枝の涙で潤んだ瞳を覗き込みながらそう言った。すると智枝が、
「ううん・・・ありがとう・・・それまで私、キミのことずっと待っているから・・・」
 智枝が嬉しそうな微笑みを浮かべて、その頬にひとすじの涙を流した。
「お金がないから結婚式も挙げられないし、安い指輪しか贈れないけど・・・」
「そんなの・・・気にしなくていいのに・・・私にはキミがいるだけでいいんだから。キミと一緒になって、キミそっくりの『赤ちゃん』を産んで育てることが今の私の夢なんだよ?それだけでいいの・・・他にはなにもいらないから・・・だから、わたし、キミのことをずっと待っているから。私のキミへの最初で最後のお願い、聞いてくれるかな?」
「あぁ、ちょっと遠回りするけれど、俺のことを待っていて欲しいんだ」
「うん・・・わかった・・・私、待ってるから・・・」


第49話

やっと朝陽が完全に顔をだしていた。鳴きながら飛ぶ鳥たちの群れが2人の上を飛んで行く。反対のホームに始発の下り電車が入ってきた。金属を削るようなブレーキ音がきのせいか、いつもより柔らかく聞こえた。智枝とたくさん話をしたから、きっと俺の気持ちは明鏡止水の境地に飛んでいたのかもしれない。嘘偽りのない智枝への「愛」の気持ち。
智枝の温かな体温が俺の腕から身体全体に俺の血潮とともに広がって伝わっていく。

それは「愛」の温もり。新しく生まれ変わった2人の温もり。それこそが普通の「愛」。

俺たちは手をつないで特に話すこともなく、お互いの手の温もりで会話を楽しみながら電車を待った。始発を待つホームには両手で数えられる程度の人達しかいない。2人を包み込むそんな静寂の中で智枝がまた俺の腕に強く絡みついてきた。
小さなカナリアのように俺の肩に頬をすり寄せ、別れを惜しんでいるのか?俺に甘えているのか?やっぱり智枝も俺と同じように胸が締めつけられるような不安を持っていたのだろうな・・・今日、智枝の俺への気持ちが本物だとわかったことで俺は落ち着きを取り戻した。

2人きりの時間が静かに過ぎていく。今の2人には会話など必要なく、ただ寄り添ってお互いの温もりを感じ合うだけでよかった。やがて無情にも2人の結ばれたばかりの赤い糸を引き裂くように、鎌田行きの上り電車が到着するアナウンスが流れてくると、智枝はさらに力をこめて俺の腕にしがみついてきた。
俺との別れを惜しむかのように、言葉ではなく、ぎゅっと俺の肩に頬を寄せて、俺の温もりをその身体全体に刻み込むかのようにさらに強く、もっと強く、俺の腕が痛くなるほどしがみついてきた。もしかしたらこの痛みは智枝の胸の痛みと同じ痛みなのかもしれない・・・智枝はもう一度俺に確かめるように聞いてきた。

「・・・私のこと・・・放さないでね・・・?」
「あぁ、もう何も心配することはないよ、絶対に放さないから」

俺は智枝の頬を撫でながらそう呟いた。もう俺の心の中に巣くっていた悪魔のささやきのような不安で苦しい気持ちは完全に打ち砕かれていた。そして俺はそんな智枝の、優しいくもあり、寂しくもある温もりを感じていた。
やっと得たこの幸せ。このままずっとこの温もりに包まれていたい・・・
そう思わせる智枝の温もりが俺の身体から離れていく。ホームに鎌田行きの電車が来ていて、智枝は扉を挟んで俺と向かい合う様に俺の手を握りしめながら立っている。
扉が閉まると同時に智枝は俺の手を惜しむように放した。
智枝の顔が今にも泣きそうな顔になる。
完全に扉が閉まると、智枝はたった1枚の扉の向こうの俺が別世界の人間にでもなったかのように寂しい微笑みを精一杯浮かべている。
俺が扉のガラスに手を当てると、それに合わせるように智枝も俺の手に自分の手をガラス越しに重ねてきた。智枝の寂し気な微笑みが痛々しく胸に突き刺さる。たった一枚の扉が、残酷にも2人を別世界に隔離する。
近いのにずっと遠くにいるかのような錯覚に襲われる。智枝の寂しさが俺の手のひらを通じて伝わってくる。

すると、電車はゆっくりと走り出した。俺は居ても立ってもいられず、持っていた荷物を放り投げると智枝を乗せた昇り電車を追いかけた!すると智枝も俺に呼応するように電車の流れを逆流して泳ぐように走り始めた!電車のスピードがどんどん加速していく!俺は誰の視線も憚らずに電車に乗っている智枝を追いかけて全速力で走った!夢中になって智枝を追いかけた!智枝がどんどん離れて行く・・・それでも俺は走り続けた!その時何かが俺の脇腹に当たって俺を強引に止めた。それはホームの終わりを告げる鉄柵だった。もう智枝の顔が見えなくなっていた。智枝を乗せた赤い電車が2人をどんどん遠くへ引き離していった・・・電車は赤い点となり、やがて見えなくなっていった・・・
しばらく呆然として俺は電車が走り去っていった後を見ていた。
ホームに置きっぱなしのリュックサックを手に取ると、気が抜けたように俺も自宅に戻り、敷きっぱなしの布団にしがみつくように眠った・・・


第50話

夕方に目を覚ますと、俺はいつものように軽く食事を済ませてジムへ向かった。俺は必死になって練習をして帰宅すると、智枝からメールが届いていた。

(こんばんは。明日キミは仕事だね・・・会えないのがサミシイ・・・それに・・・)
 
(・・・それに・・・なに?)

(来週の日曜、あの人に会うの・・・イヤだなぁ・・・)

俺は正直、もう元旦那とは会わないでくれ!と言いたかった。
智枝の意思で会うんじゃなくて、子ども達のために「元旦那」と会うことは頭では理解しているのに、本能が「会わないでくれ!」と叫んでいる。しかし、それを言ってしまうと智枝を困らせてしまうだろう。俺は智枝を信じるしかなかった。そして智枝からおやすみのメールが来たので、俺もおやすみメールを送ると、落ち着くために冷たい水を飲み干した。ゴクリゴクリと乾いた喉が鳴る。

(明日、智枝はいないのかぁ・・・)

俺は仕事へ行くモチベーションを喪失していた。毎週の土日は智枝がいないのには皮肉にも慣れていたし、考えても無駄に疲れるだけなので、俺は早く眠ることにした。
智枝が横にいないまま眠るのはたった1度だけなのに、無性に寂しさが俺の身体を絞めつけるだけでなかなか眠りにつけなかった。
そして翌朝出勤していつも通り仕事をしたが、智枝がいないまま無気力で仕事を終わらせた。今頃智枝は・・・そう思うと切なくて苦しい・・・

その時俺はある不自然さに気がついた。俺たちはメールのやり取りは頻繁に送受信するのに、まだ電話で直接話したことがなかった。もちろんお互いの番号は知っている。
智枝には子供がいるからか?俺は遠慮していたかもしれない。もしかしたら、智枝も俺のトレーニングとかを気にして電話してこないのもしれないと思った。俺たちは電話をしない恋人?そう考えると俺はさらに切なくなった。
なら、自分からかければいいのだけれど、もし、智枝の邪魔になったら・・・と思うと電話をすることができなかった。いつも本気で好きになった女性に初めて電話をする時は照れが指先を邪魔する。今日は智枝に会えなかったから、せめて声だけでも聴きたい衝動に駆られたのにやっぱり指先が俺の意思に反してボタンをタップすることを拒否した。
もし電話をしたらこんな夜中でも智枝に会いたくなるからかもしれないし、直接智枝と会っている時に胸の中の全てが満たされているのかもしれないから、とも思ったし、電話が苦手なのもあった。智枝はどう思っているんだろう?


第51話

そんなつまらない日曜日が悶々と過ぎ去っていった。月曜の朝、駅に着くといつもの場所に優しい笑顔を浮かべながら智枝は俺を迎えてくれた。俺の到着がいつもより早かったから智枝は驚いた様子で、
「あれ?どうしたの?今日はいつもよりかなり早いんじゃない?」
と不思議そうに言った。
「うん、智枝に会いたくて仕方なかったんだ。いつも智枝は俺のこと待っていてくれるだろ?だから今日は俺が智枝のこと待ってようって思ったんだ」
俺がそう話すと、智枝は子どもを褒めるように俺の頭を撫でながら、
「そんなに慌てなくても私はいなくならないから大丈夫だよ?」
と俺の大好きないつもの智枝の笑顔で応えてくれた。俺たちはこうして待ち合わせをして、仕事が終われば駅まで一緒に帰り、俺はジムへ、智枝は子供たちが待つ家に帰っていった。

そして2人がすべてを曝け出して愛し合う金曜の夜になった。とても幸せな時間だ。少し訳アリだけど普通の恋愛とさして変わらない。夜はお互い身体の全てを使ってちぎれんばかりの「愛」を表現して朽ち果てた・・・

俺は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し半分飲むと、それを智枝に手渡した。智枝も乾ききった植物のように残りのミネラルウォーターをすぐに飲みほした。智枝の細い首がゴクゴクと鳴る。俺が眠りにつこうとした時、智枝がちからなく抱きついてきた。そして一言、現実逃避を求めるようにつぶやいた。

「・・・あさって・・・行きたくないな・・・」

そうか、あさっては5月の第一日曜日で、別れた旦那と子どもたちで出かけると言っていたな・・・俺は本心を吐露するように、願いをこめて智枝に言った。
「そんなにいやなら行かなきゃいいだろ?」
すると智枝は首を振り、
「ダメ・・・子どもたちが楽しみにしてるから・・・」
やはりそう言うことか、母親の悩みどころだな・・・智枝は俺の指をアマガミしてじゃれている。
「帰ったら連絡してくれる?」
俺は智枝にそう言うと、
「うん、メールするね・・・」
と呟いた。俺は「電話するね」と言う言葉を期待していたのに、智枝も俺に遠慮しているのか、恥ずかしいのかわからなかった。
この夜は朝まで眠らずに智枝はやたらと俺に甘えてばかりいた。まるであさっての日曜日から逃避行するかのように。そして短い夜があけると、お互いの家へと帰っていった。

智枝が明日「元旦那」と会う・・・俺の気持ちは不安で胸がいっぱいになり、頭が圧迫されて眩暈に襲われた。すべてに無気力になった俺は、今日はジム休んで寝よう、こんな気持ちじゃ集中して練習なんかできやしない・・・
「明日」が足音を立ててズンズンとやってくる。止まってはくれない・・・
そして、来ては欲しくない日曜日が否応なく訪れたのだった・・・


第52話

来て欲しくなかった日曜の朝が来た。わたしの心模様はどん曇りなのに、皮肉にも梅雨間近の空に浮かぶ朝陽は私の目を焼き尽くすように眩しかった。わたしははしゃぎ回る子どもたちの着替えを済ませると鏡に向かい化粧を始めた。
鏡に映るその憂鬱に満ちたわたしの顔は、どんなに化粧をしてもその憂鬱を隠し切ることができなかった。
だけど、そんな沈んだ顔を子どもたちに見せるわけにはいかない。わたしは無邪気にはしゃぐ子ども達をみていると、「今日だけは仕方ない」と降伏する兵士のように自分のやるせない胸の憂鬱を無理やり押し殺した。
そんな頃、アパートの外に聞きなれた車の音が響いてきた。わたしはできることなら今すぐにでもここから逃げ出したい気分になったけれど、ここから逃げることはできなかった・・・子どもたちのためだから・・・わたしが我慢すればいいのよ・・・そう自分に催眠術をかけるような言葉を、何度も自分に言い聞かせた。

カツンカツン・・・と階段を登ってくるあの人の足音が近づいてくる。わたしの鼓動が早くなる。わたしにはもはや逃げると言う選択肢はなくなった・・・
もしわたしと豊クンが赤い糸で繋がれているとするなら、わたしとこの人はどんな色の糸で結ばれているのだろう?うんん、違う!糸なんかじゃない!ハサミなんかで切れるような糸じゃなくて、ちょっとやそっとでは切ることのできない錆びたワイヤ―のようなものだ。これを断ち切るにはいったいどうしたらいいの?誰か教えて!切ない叫びがわたしの胸の中で鳴り響く。私は耳を塞いだ。
なんで離婚して別れてもこんなに嫌な思いをしないといけないの?わたしは豊クンと一緒にやっと普通の平凡な「愛」を見つけたのに!なのに、あの人はそんなわたしの気持ちなんてまったく考えもせずに、いつも人の心の中に土足で入ってきては、花々が咲く花壇の中を踏みにじって荒らしていくように帰っていく。もう、ここまでくると得体のしれない何かに憑依されたように、肉体だけでなく精神までもが支配されて気が狂いそうになる。豊クンの顔が思い浮かんだ。わたしはその彼の顔を「お守り」にして、今日一日を過ごすことにした。

元夫の晃一がチャイムを鳴らすと、子どもたちは待ちわびた「元父親」の晃一を迎えに玄関めがけて走っていった。
「パパ!おはよう!今日はディズニーランドでしょ?」
子どもたちは「元父親」に嬉しそうに抱きつくと、晃一は、
「おぉ!元気にしてたか?」
と、「元父親」ではなく、「父親」の顔で子どもたちに接する。
わたしと子どもたちを捨てて、他の女のところにいったのに!今さらそんな「父親」ヅラしないでよっ!わたしは心の中で叫んだ。

「智枝!もう準備できてるか?」
そう言って晃一がわたしの「家」に上がり込もうとしたので、わたしは思わず、
「それ以上入ってこないでっ!」
と叫んでしまった。せっかく築いた今の幸せを、また土足で踏み汚されそうな気がしたから・・・子ども達も一瞬何の事だかわからずに驚いた顔をしていたから、わたしは(まずい!)と思ってすぐに、
「ちょっと待っててね!車で待ってて。すぐに行くから!」
と出したくもない明るい声で演じて見せると、晃一は「家」に入らず喜ぶ子どもたちの手を引いて階段を降りていった。わたしの鼓動は悲鳴をあげる寸前だった。
わたしは「今日だけの我慢!」と鏡の中の自分に言い聞かせて、バッグを持つと、引き攣った笑顔のまま晃一の車に乗り込んだ。

高速道路を走る晃一の車。狭い車内で子どもたちがはしゃいでいる。それも仕方がない・・・大好きなTDLに晃一が連れて行ってくれるのだから。
シングルマザーのわたしには子どもたちを映画やファミレスに連れていくことが精いっぱいだった。
でも晃一は、子ども達が行きたいところならどこにでも連れて行ってくれる。わたしには経済的な理由でそんなことはできなかった。自分の無力さが鉛の重りとなってのしかかってきて、わたしを苦しめる。
わたしは自分の感情を絞め殺して、子どもたちの前では仲の良い「夫婦」を演じるしかなかった。とにかく子どもたちを悲しませたくはないから・・・


第53話

車はわたしたち「家族」を乗せて目的地へと進んでいく。「家族」を演じることが苦痛で仕方なかった。わたしの気持ちとは裏腹に、本物の「親子」であるこの人と子どもたちが楽しそうにはしゃいでる。わたしもそれに合わせて無理をしながら笑ってる。顔が引きつっているのが自分でもわかった。彼にみせる笑顔とは違う笑顔・・・
それは、わたしの・・・

ニセモノノエガオ・・・

誰が見ても幸せそうな普通の「家族」に見えた、と思う。こんなわたしの姿を豊クンにだけは見せたくなかった。皮肉にも大事にひとりで育ててきた子どもたちの笑い声までもが耳障りに聞こえる。

わたし・・・どうにかなってしまいそうだわ・・・

そんな気持ちを悟られないように、わたしは悲劇の舞台女優を演じるしかなかった。
そして渋滞になっている舞浜のICを車が降りてすぐに目的地に到着すると、
「パパ!ママ!早く早く入ろうよ!」
と子どもたちがわたしを急かす。
「はいはい!今行くからちょっとまってよ~!」
車内を出ようとしたわたしは、拷問のような密室からやっと解放されたと思った瞬間、晃一がいきなりわたしの手首をグッっと強く掴んできた!

「智枝、今日は話があるんだ。いいだろ?」

晃一の顔は真剣だった。わたしはそんなことも気にせずに「放してっ!」そう言って思いっきりこの人の手を払いのけると、
「ちょっと!どう言うつもりよ!」
冗談にもほどがあるわ!
「なにそんなにイラついてんだよ?」
晃一はちょっと困ったような顔をしている。
「あんたのその無神経な態度がムカつくのよ!」
わたしは我慢していた感情をついに吐き出してしまったけれど、子どもたちがすでに入場口に向かっていることが幸いして、子どもたちにこの会話を聞かれることはなかった。
「せっかくなんだから今日は『家族』そろってあの頃のように楽しまないか?」
わたしはこの人から「家族」と言う言葉を聞いた時あまりの気持ち悪さに吐き気がした。わたしは、
「もうあんたとは、『家族』じゃないのっ!気安く触らないで!」
「あとでオレの話を聞いて欲しいんだ、頼む!」
真顔で言ったその安いセリフに、今度は鳥肌がたった。わたしたちを呼ぶ子ども達の声で、わたしは再び引き攣ったままの笑顔に戻し、

「今行くから!迷子になるからそこで待ってなさい!」

と、子どもたちの方へ向かって行った。


第54話

入園するとまさにそこは煌びやかな夢の国だった。日曜日と言うこともあって家族連れでにぎわっている。それをみて、わたしは心底羨ましくなった。なにか独り疎外され、取り残されたようで・・・これは孤独感?
そして父親になつく子どもたち。仲のいい普通の「父親と娘たち」。
わたしは命より大事な子どもたちをあの人に奪われたかのような錯覚におちいった。

お願いだから、わたしから子どもたちだけは奪い去らないで!

本当ならわたしもこんな風にまわりにいる普通の幸せな「家族」だったのに・・・それをぶち壊した張本人が目の前にいるなんて!こんな皮肉なことってある?
その日はさすが日曜日だけあってどのアトラクションも混雑していて新しい靴で来たわたしは足が靴ズレになって痛かったから、
「ママはここで待ってるから、3人で遊んでらっしゃい!」
と、側にあったベンチに座りながら、まだ慣れない作り笑顔で手を振ると、晃一がわたしの横に座り、
「迷子になるなよ!」
と言って子どもたちを自由に遊ばせに行かせた。
だんだんと小さくなって遠くに離れて行く子ども達をみていると、まるでこの人がわたしから子ども達を奪い去っていく錯覚に眩暈がしたので、わたしはそれを否定するために頭を2、3度軽く振った。
そして子ども達だけはこの人がどんな手を使ってきても、わたしが守り抜く!絶対にわたしの元から奪わせない!と、そう強く決心した。


第55話

ベンチに座る「元夫婦」のわたしたちの目の前を幸せそうな「家族」たちがスローモーションのように流れていく。わたしは耳に入ってくる全ての家族たちの声に嫉妬した。しばらく沈黙が続いた・・・すると晃一が突然わたしの肩を力強く抱きしめて、

「なぁ、智枝・・・オレたちもう一度やり直さないか?」

わたしは一瞬耳を疑った。

「えっ?」

いくらなんでもストレートすぎるし、冗談だとしても笑えない!相変わらず人の気持ちを考えない強引な人!

「実はオレ、7月から北海道の札幌支店の主任になるんだ。もちろん給料だって今よりよくなるから、お前に無理なバイトなんてさせなくて済むんだ。もうお前たちを捨てたりなんかしない!お前たちを大事にする!約束する!あの後すごく後悔したんだ、お前たちがオレにとってとても大事な存在だったことを・・・だから、子どもたちも連れてオレと一緒にきてくれないか?」
そう言ってわたしを強く抱きしめてきたので私は力ずくで振りほどくと、、
「よくその口からそんなきれいごとが言えるわね!いい?あんたはね、わたしだけでなく、子どもたちまで捨てて『オンナ』のところへいったのよ?そんな人の言うことを真に受けるほど馬鹿じゃないわ!ふざけないで!」
そう言って、わたしは晃一から離れようと背を向けると、晃一はもっと強い力でわたしの腕を引っ張ってきた!もう我慢の限界だった!
「智枝っ!オレとまたやり直そう!オレはお前たちと別れたことをとても後悔しているんだ!もうあんなことは絶対にしないから!お前たちを大事にすると約束するからっ!」
そうこの人が言うや否や、わたしは振り返りざまこの人の横っ面に力いっぱい平手打ちをした!

パシーンッ!

乾いた音が響き渡った。晃一の顔はわたしに殴られたまま横を向いている。わたしと晃一の時間が、世界が、時間軸がずれたかのようにグレー一色に染まった!時が止まった!思いりきり打ちぬいた右の手のひらがじんじんと痺れている。
すると魔法が解けたように周りの風景が音を立てて動きだした。
この人はまるでわたしの態度が計算外だったかのように驚いた顔をしている。わたしはその顔を睨みつけている!絶対に許せない一言だった!

「オンナをどこまでバカにしてるの?ふざけないで!」

とわたしは叫んだ!その怒りに満ちたわたしの叫び声はこの人には届いたが、周囲の人々にはアトラクションなどの騒音で掻き消されて聞こえることはなかった。
この広い夢の国の片隅で、2人の「元夫婦」の存在を気にするものなどいなかった。
晃一はわたしの目を見つめてゆっくりと口を開いた。


第56話

「もう、好きなオトコでもいるのか・・・?」
わたしは間髪入れずに、
「そうよ!悪い?同じ職場の、真面目で優しい人だよ!」
と、わたしはこの人を打ちのめすように言った!
「と言うことは相手もフリーターか・・・?収入が不安定なオトコより、オレについて来てくれないか?また俺たち『家族』そろって・・・」
わたしはもう一発この人の顔面に思いっきり平手打ちをした!この人の口から「家族」なんて言葉を言わせたくなかった!許せなかった!全身の血が煮えたぎって沸騰しているようだった!わたしの身体は激しく興奮しているせいか、変な汗で濡れ始めていた。

「ふん、甘く見ないで!どうせ『オンナ』にでも逃げられたんでしょ?フラれて捨てられたんでしょ?違う?」
晃一は黙ったままわたしから視線を逸らした。目が泳いでいるのがバレバレだわ。まさに図星のようね!晃一はうつむいて黙り込んだ。子どもじみた言い訳、情けない・・・
「待ってくれっ!もうあの女とはとっくに別れて俺一人でやってきたんだ!一人になって気づいたんだ!オレはお前たちを捨ててしまった俺がどんなにバカだったか・・・」
今さらこんな陳腐なセリフなんて聞きたくもなかった!昔はこんな人じゃなかったのに!男らしくて優しくて強い人だったのに!今のこの人はとても小さくみえる。あの頃に見ていた頼れる大きな背中の姿など微塵もなかった。

人間って、わずかな年月でこんなにも変わってしまうものなの?わたしは悲しくなった。でも、それとこれとは話が別!この人はまた同じことを絶対に繰り返す!わたしの女のカンが全身に警鐘を鳴らす!一体あなたはどこでそんなに変わってしまったの?わたしのせい?人は過ちを犯し繰り返す生き物だけど、それを繰り返して成長していくのに・・・あなたは成長どころか、オトコとしてでなく、人間として犯してはいけない過ちを犯したのよ?あなたはまたわたしたちを捨てるわ!いつもあなたが吸っていたタバコの吸い殻のように!すっかりオトコとして変わり果てたこの人に、わたしは愕然とした。
「オレはお前じゃないとダメなんだ!子ども達のことも愛しているんだ!もうあんなことは絶対にしない!お前たちを大事にすると約束するっ!」
今さら遅いセリフだわ。わたしは晃一の情けなさがピークに達して、晃一を振りほどくとタイミング悪く子どもたちが戻ってきてしまった!幸い子どもたちはこの醜い「オトナ」の一部始終をみていなかった。すると子ども達は晃一の腕に絡みつき、

「ねぇ、パパ!今度はあっち行こう!」
「ママもおいでよ!」

何も知らない子ども達は無邪気にわたしと晃一を引っ張っていく。晃一と、その両手にいる2人の子ども達の後ろ姿を見た時、わたしは何とも言い難い罪悪感に襲われた。晃一が一人で札幌に行けば、まだ幼い子ども達は大好きな「父親」にもう会えなくなる。きっと子ども達は悲しむだろう。わたしにはとっくの昔に「他人」であっても、あの子たちからすれば唯一無二の本物の「父親」であることに変わりはない。まだ幼い今の子ども達には「離婚」と言うシステムが理解できないと思う。なぜ「父親」に会えないのか?悲しみの涙に濡れる子ども達をわたしは見なければいけないの?そんなの耐えられないよ!じゃ、わたしがすべてを我慢すればいいの?わたしがまた犠牲になればいいの?そうすればあの子たちは「シアワセ」になれるの?わたしはもう一度晃一を信じて一緒に暮らせばいいの?わたしたちをゴミ屑のように捨てていったこの人を、もう一度信じていいの?きっとまた裏切られるかもしれないのに?

ワタシハドウシタライイノ・・・?

ふと、「お守り」にしていた豊クンの顔が脳裏に浮かんだ。わたしのこの罪悪感は彼に対するものでもあったのだと気がついた。
もしわたしが自分の感情を殺して犠牲になって晃一と一緒に札幌に行けば、今度はわたしが豊クンに対して「ウラギリモノ」になってしまう・・・それは絶対にイヤだ!わたしは捨てられる者の悲しみと苦しみを痛いほど知っているから!そしてなにより彼を心の底から愛しているから!でも、でも・・・豊クンと一緒になれば、あの子たちは大好きな「父親」にもう2度と会うことができなくなって悲しみの海深くに沈めてしまうことになるかもしれない・・・もう・・頭が・・・割れそう・・・

  ワタシハドウシタライイノ・・・?ダレカオシエテッ!

究極の選択がわたしを容赦なく襲ってくる!わたしはそのどす黒い渦の中に巻き込まれていく・・・手を伸ばせども誰も助けてはくれない・・・わたしが豊クンのもとに行けばあの子たちはきっとわたしを許さないだろう・・・わたしはあの子たちの前で「ウラギリモノノハハ」として生きていかなければならなくなる。そうしたら、あの子たちはわたしから永遠に離れていってしまうような気がして、怖い・・・
そんなの耐えられないよっ!わたしは豊クンを取っても、晃一について行っても「ウラギリモノ」と言う最も嫌悪する女として生きていかなければならなくなるの?どうして今さらになって晃一はのうのうとわたしにあんなことを言ったの?わたしは・・・わたしは「シアワセ」になっちゃいけないの?ねぇ?どうして?

わたしは沈みかけている夕陽を見つめながら、心の中で泣いていた・・・でも、いくら泣いても答えなんてでなかった・・・豊クンに会うのが・・・怖くなった・・・彼はきっと壊れかけの天秤のように揺れているわたしの心を見抜くだろうと思うから・・・


第57話

すっかり日が暮れて夜の帳が降りた頃、たっぷりと煌びやかな夢の国を楽しんだ家族や恋人たちがとても楽しそうな笑顔で現実の世界へと戻っていく。父親の背中で眠る子どもや、手を繋ぎながらたくさんのお土産を手にした恋人たち。みんなとても素敵な笑顔でTDLの退場口から次々と溢れるように出てきた。わたしたちもそんな幸せそうな家族や恋人たちの群れに流されながら夢の国を後にした・・・
思い切り遊びすぎて相当疲れたのだろう。あれほど元気だった子供たちは帰りの車内で子どもたちは引き続き夢の中だった。
わたしと晃一は夜の高速道路の光と闇が交互に照らす外灯の中、何も話すことなくわたしのアパートへと向かっている。
明るくなっては暗くなる、そんな無機質な灯りがわたしを微睡に誘う。
だけど今眠るわけにはいかない。晃一が何をするかわからない。この人は切羽詰まった余裕のない顔をしている。わたしが彼が提案してきた「札幌転勤」に一緒に行くことを拒否したから・・・
それに今のわたしの顔はとても不機嫌で何を話しても無駄だと思わせるほど酷い顔をしている。車窓に映るわたしの顔がそれを教えてくれた・・・
晃一との付き合いはもう長いし、いちおうお互いの性格はわかっている。だから晃一はこうなってしまった今のわたしに何を話しても聞く耳すら持たないことをわかっている。
それでちょうどよかった。わたしは晃一なんかと一緒に北海道へ行く話なんてされても、わたしは頑なにその話を拒み続けるから。

アパートへの道のりが、とても長く遠く感じた・・・

22時近くだった。晃一の車がわたしのアパートに着くと、晃一は子ども達を優しく揺さぶって起こした。
「理絵、笑美、もうお家に着いたよ。起きて車から降りなさい」
華やかな夢から目覚めた娘たちはきょろきょろと辺りを見渡すと、2人とも不思議そうな顔をしていた。車に乗るとすぐに眠ってしまったから、退屈な帰り道に煩わされることなく家に着いたから、きっと瞬間移動でもしたような気持ちでいるのかもしれない。
そう思うとまだまだ小さな子どもだなぁ、と、娘たちがとても可愛らしくみえて、思わず自然な笑顔がこぼれた。

「あ、あれ・・・?パパ?ママ?」
 楽しかった夢の続きはまたすぐに見ることができるからね・・・
「もう着いたぞ、また遊びに来るからな」
晃一も車から降りると、まだ眠そうな子ども達の頭を優しく撫でると、
「今度は北海道に行こうか?キツネさんやお馬さんがいっぱいいるんだぞ?」
「それって、動物園なの?」
「違うよ。自然の中にいる動物たちだよ。北海道に行けば毎日いろんな可愛い動物たちに会えるんだよ?」
「え!ほんとに?笑美も北海道行きたい!お馬さんにニンジンあげたい!」
「そうできたらいいんだけどな。理絵はどうだ?」
「うん!あたしもたくさんの動物見てみたいな!」
「そうか、よかった。じゃ、決まりだな」
「やった~!パパ大好き!絶対に連れて行ってね!約束だよ?」
「あぁ、もちろんだよ。パパが約束破ったことなんてないだろう?」 

晃一が耳を弄りながら子どもたちの気持ちを「北海道」に向けている・・・
子ども達にまで平気な顔をして「嘘」をつけるようになってしまったの?
いったいいつからあなたは自分の子ども達にまで平気で「嘘」をつけるようになってしまったの?
何があなたをそこまで変えてしまったの?あれだけ「嘘」が嫌いな人だったのに・・・

子ども達に「人に『嘘』を突いちゃダメだからね」

いつもそう言ってそう言って子ども達を育ててきたじゃない!


第58話

よくその口から「約束を破ったことがない」なんて言えるわね!
あなたはこの子たちを捨てたのよ?まだ約束を破ってくれた方がマシだわ!
大人にはいろんな事情、休日出勤、残業、急な出張、冠婚葬祭・・・があるから、必ずしも子ども達との約束を守ることができない場合も少なからずあるわ。
それで娘たちとの約束を守れなかった場合は仕方がない。
もしそんなことになって子ども達が不機嫌になったり泣き出したりしたら、わたしもフォローして子どもたちに約束を守れなかったことへの穴埋めをすることができるけれど、「嘘」をついてまで子ども達を自分の思う様に誘導するなんて、そんな誘い方するなんてズルイよ!
そうなったらわたしの意思に関係なく、このわたしも「北海道」に行かなければならなくなるじゃない!
わたしが「北海道」に行くこと。それはつまり晃一との復縁を意味することになんだよ?喜んでいる子ども達には申し訳ないけれど、どうにかしてこの話を打ち消してしまわないと!
わたしがあれこれ必死になって晃一の策略を打ち破る言葉を脳の中から模索していたら、子ども達は残酷にもわたしの身体中の血液が一気に凍りつく言葉を放った!

「ねぇ?パパ、まだお家に帰ってこれないの?」
理絵が晃一のシャツの袖を揺さぶっている!
「まだおしごといそがしいの?」
笑美が眠い目を擦りながら晃一の手を握りしめている!
子ども達が、奪われていく!イヤッ!やめてっ!
理絵も笑美も、ママよりパパの方がいいっていうのっ?
どうして理絵と笑美までも捨てていったパパをそこまで愛してるの?
2人も目の前にいるパパに捨てられたんだよ?
早くそのことに気がついてっ!
パパの「嘘」の笑顔に騙されないでっ!
ママのそばから、離れて行かないでっ!

わたしの鼓動が凍りついてしまった・・・

もう、何も考えることができない・・・


第59話

もう心配いらないよ。またみんなで一緒に暮らせるようになるよ!なぁ、ママ?」
そんな無責任なこと簡単に言わないでよっ!晃一は残酷にもわたしに同意を求めてきた。
今ここでこの胸に鋭く尖った氷柱のような言葉を抜き去ることはできなかった。
わたしにはまたしても選択肢などなかった。
わたしも晃一に追い詰められて、晃一の思惑通りに誘導されていく・・・
本心ではない「嘘」がわたしの口から流れ出てきた。まるで汚物を吐き出すような、そんな汚い自分に嫌気がさしたけれど、わたしにはこう言うことしかできなかった。
わたしは自分で自分の傷口をさらに引き裂くような思いで子供たちに、

「そうだよ、もう少しだから我慢してね?」

それは初めて子どもたちについた「嘘」だった。わたしも晃一のように、どんどん汚い人間になっていくの?「『嘘』をついてはいけない」と言って子ども達を育ててきたわたしが平然と子どもたちに「嘘」をついたことで自分が恐ろしくなった・・・

  ワタシガ・・・コワレテイク・・・

「智枝・・・またすぐにくるからな・・・考えておいてくれ」

わたしはもはや蜘蛛の巣にひっかかって身動きすら取れない蝶だ。もうもがきあがくこともできない・・・
「・・・しばらく・・・時間をちょうだい・・・」
こんな言葉がわたしの意思に反して零れ落ちた。
わたしは唇を噛みしめた。
わたしが一方的に負けたみたいで悔しかったから・・・
「わかった・・・また連絡するよ」
そう言って晃一は行ってしまった・・・

わたしは子ども達の寝顔を見ながら、

(ねぇ・・・わたしも・・・裏切りの罪人になってしまうのですか?)

わたしは電気を消したまま、真っ暗な部屋の中で立ちすくんでいた。


第60話

その時私のスマホが鳴ったので見てみると豊クンからのメールだった!
わたしはなんだか胸を締めつける孤独感から救われたような気がした・・・

今すぐにでも豊クンに会いたい!このわたしを強くギュッと抱きしめて欲しい!

わたしはスマホをとりだして彼に返信メールを打とうとした時に、そう言えばわたしたちってまだ電話で話したことってなかったなぁ、と思ったから、今、電話してみようかな?今すぐにでも豊クンの声が聴きたい!
でも、今日のことでわたしの心はまだ嵐のように動揺している・・・
きっと彼に何かあったのかとバレるに違いない・・・
それはどうしても避けたかった。彼に心配をかけたくなかったから・・・
だからわたしは深呼吸をして気分を落ち着かせてから、いつも通りにメールを送信した。

(こんばんは、智枝です。今家に着きました)

(お疲れ様!今日は楽しめた?)

(ううん・・・疲れた・・・)

(なんかあったの?)

(明日出勤だよね、明日話すよ・・・)

(そう?・・・じゃまた明日、おやすみ。)

(うん、ありがとう。おやすみなさい。)

そうメールを終えると、俺はどことなくはっきりしない智枝の言葉が頭に引っかかって何度もメールを見返した。物事をはっきり言う智枝が言葉を濁している。
心が乱れている人が書きそうな文章だった。
きっと智枝は今日のことで何かあったに違いない。
俺に相談することも憚られるほどの大きな問題なのかもしれない。
俺はもう一度智枝とのさっきのメールのやり取りが並ぶ画面をみつめた。
みればみるほど意味深な言葉の羅列に俺の胸中は不安で塞がってしまった。
まるで智枝が俺に助けを求めているようだ。
読んでいて痛々しくなるほど智枝が悩み疲れているのがわかるほどの文章だ。

胸が苦しくなった。今日は「元旦那」と会っている。一体なにがあったんだろう?智枝に一体どんなことがあったのか?起こったのか?不安ばかりが冷たい雪のように積もっていく。
俺は今すぐにでも知りたかった!智枝に会いたくなった!落ち着かない!胸騒ぎがする・・・

(明日話すよ・・・)

その言葉がタロットカードを引くように、髑髏の死神の図柄が上にでるか?下にでるか?考えれば考えるほどネガティブの泥沼にはまっていくようだ。智枝が抱えている苦しいほどの悩みが俺の身体中を走り廻っていくようだ。動悸が早くなる。
いったい俺はどうしたらいい?
どうしたら今すぐに智枝の暗くて重い気持ちをラクにしてあげることができる?
俺はふだん飲まないビールを冷蔵庫から取り出すと、一気に胃袋にかっ込んで酔いにまかせて無理やり眠った。


第61話

月曜日の朝が来て、智枝のことがすぐに頭に浮かんだ。智枝とどんな顔をして会ったらいい?考えても仕方がない、智枝にすべてを聞けば俺も納得いくだろう。独りでウダウダ考えていても時間の無駄だ!準備を済ませると俺は職場へと向かった。
電車から降りて改札を抜けると、いつものように智枝がいた。なんだか2日会わなかっただけでずいぶん久しぶりに会うような気がした。
俺は智枝にやっと会えた嬉しさと、智枝の昨日のことの不安が気になっていて、どちらから先に伝えるか、聞くか、戸惑っていた。
智枝はそんな複雑な気持ちをした俺を見つけると小走りで駆け寄ってきて、
「おはよう、やっとキミに会えたね」
智枝もきっと俺と同じ気持ちだと思う。明らかにいつもと違うやつれた笑顔だった。

「このキミに会えなかった2日間がものすごく長く感じたよ」

やっぱり智枝も俺と同じ気持ちのようだ。俺はその言葉を聞いて素直に嬉しかった。
だけどあの意味深な、スマホの画面に浮き出た俺に不安を告げていた文字たちが、俺の頭
の中から消え去ることはなかった。

(やっぱり昨日、何かあったな・・・)

智枝の疲れが抜け切れていない顔、そして、思っている感情がそのまま顔に出てしまうほ
どわかりやすい智枝の顔をみて俺はそう思わずにはいられなかった。 
昨日、どんなことがあったのか?「元旦那」とどんな話をしたのか?
今すぐ聞き出したかったけれど、もう少し智枝をそっとしておくことにした。
智枝の方から話を切り出してくるまで待つことにした。
その方が智枝の頭の中も整理されて俺に説明しやすくなるだろうと思ったからだ。
きっとまだ智枝の頭の中は、いろんな感情が糸のように絡まって解くことができない状態だろう。
だから俺は智枝がその美しい唇から昨日の出来事が零れ落ちてくるまで待つことにした。
無理に智枝の唇をこじ開けて聞いても、きっと何から話していいのかわからないだろう。

俺たちはいつものように手を繋いで近道となる緑の木々に囲まれた公園の小道を通っていた。
やはり昨日智枝に何かあったのだろう。おしゃべりな智枝が切ない微笑みを浮かべながらさっきからずっと黙り込んでいる。
何から話していいのかまだ自分の気持ちの整理ができていないのか?
それとも俺が聞き出すまで待っているのか?
俺には智枝がどちらを考えているのかわからなかった。
いつもは俺の手を引っ張って少し前を歩く智枝の足取りが今日はなんだか重い。
そしていつもの近道になる公園の脇道を通っている時だった。智枝が公園の通路の脇にむかって、

「あっ!ねぇ!見て!」

と叫んで突然脇道の草むらの前でしゃがみ込みこんだ。


第62話

「ねぇねぇ!豊クン!この花みて!」

と俺に言うので、俺もしゃがんで智枝が指さす小さな薄い青色の花を見た。
すると智枝は今日初めて嬉しそうな明るい笑顔になって、

「ねぇ、豊クン、この花の名前、知ってる?」
「いや、知らないよ」
「これね、『忘れな草』っていうんだよ」
「ふ~ん、『わすれなぐさ』って言うんだ?で、この花がどうしたの?」
「わたしね、この花と、この花の伝説が好きなの」
「伝説?どんな伝説なの?」
「中世ドイツの悲しい恋愛物語の伝説なの。昔、騎士のルドルフが、ドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人のベルタのために取ろうとして岸に降りたんだけど、途中で足を滑らせて川に落ちて流されて溺れてしまったの。でね、ルドルフは最後の力を振り絞って、岸辺にいるベルタに、『僕を忘れないでっ!』と叫んで彼女に向かってその名もなき花を投げて溺れて死んでしまったの・・・そして独り残されてしまったベルタは、ルドルフのお墓にその花を添えたの。でもまだ名前もなかったその花に、ベルタは彼の最後の言葉、『僕を忘れないで』と言う名前をつけたの。英語だと、『Forget-me-not』って言うんだよ。悲しいお話だけど、なんか強い愛を感じる素敵なお話だと思わない?だから、わたしこの花好きなの。ウチにもあるんだよ」

智枝はじっとその花を見ながら優しく微笑んでいる。俺は感心しながら智枝の話に聞き入っていた。
しかし、その智枝の屈みこんだ小さな背中はその笑顔とは裏腹にどこか悲しげだった。
やはり昨日なにかあったのだろう。 
俺に何か助けでも求めているように思えた。
そんな小さな「忘れな草」を見つめる智枝の目が俺に何かを伝えたがっているように思えて仕方なかった。
俺は遠回りせずに智枝に思い切って聞いてみることにした。
あまりにも智枝の後ろ姿が寂しそうだったから。
だから俺はもう智枝に昨日のことを聞かずにはいられなかった。

「智枝・・・昨日・・・なんかあった・・・?」

智枝の顔からさっきまでの明るい笑顔が、波が引いていくようにさーっと消えていった。
すると智枝は黙ったままうつむいてしまった。


第63話

すると智枝はゆっくりその場から立ち上がると俺の手を強く握りしめて、
「・・・あのね・・・」
俺はすぐにただ事ではない話だと思い、ぐっと身構えた。
「・・・わたし・・・どうしたらいいか・・・わからなくって・・・」

智枝の笑顔は曇りだし、俺の身体に力強くしがみつくと、その瞳から大粒の涙が洪水となって溢れだしてきた。智枝は俺に救いを求めるかのように強く抱きついてきた。
俺の胸の中で、昨日の出来事と今の気持ちを話し出す智枝。
俺は智枝の話を一言一句漏らさずに聞いた。その智枝の悩む言葉の一言一言が俺の胸にズキズキと突き刺さり、そして引き裂いてゆく。俺が一番恐れていたことが起きてしまったのだから。
俺はタロットカードの死神を引いた気分だった。同時に、智枝がどれほど苦しんでいるか、その辛さや苦しみも自分の痛みのように伝わってきた。
俺は智枝を苦しめたくなかった。だからと言って簡単に智枝を諦めてしまうのも何か間違っているように思った。
こんなぐらついた精神状態じゃ、2人ともこれからまともに仕事なんてできやしないのは明らかだったから、

「なぁ、智枝、今日は仕事サボれないかな?」
「えっ?急に・・・どうして・・・?」
「智枝の話・・・智枝の気持ちをもっと聞きたいんだ。2人で考えよう?」
「でも・・・わたし自身、どうしていいのかわからないんだよ?」
「だから今日は仕事休んでさ、これから2人で話し合おうよ?それにこんな気持ちのまま                            じゃ、まともに仕事なんて手につかないんじゃない?」
「・・・うん・・・ミスするわけにもいかないしね・・・」
「ファミレスか喫茶店にでも行こう?」
「・・・人がいるとこじゃ・・・話しにくいな・・・誰にも聞かれたくないし・・・」
「そうか・・・じゃ、どこがいいかな?」
「・・・ねぇ、もしよかったら・・・ウチにこない?」
「ウチって、智枝のアパート?」
「うん・・・ウチなら誰もいないから、人のこと気にしないで何でも話せるから・・・」
「智枝がいいって言うなら、行こうか?」
「うん、そうして欲しい・・・」
「わかったよ。智枝が落ち着いて話せる場所が1番だからね」
「うん・・・ありがとう・・・」

そう決まると俺たちはそれぞれ少し時間をずらして会社に欠勤の電話をした。
さっきまで混乱していた智枝がやっと落ち着いたみたいだ。
こうして俺たちは2人して仕事をさぼることになった。
そして初めて来た智枝のアパートへついてひと息いれると、智枝が力ないため息をついた。それを見た俺はやっぱり昨日のことが原因だな、とすぐにわかった。
俺はまた泣き出してしまいそうな智枝を安心させようと、その細い肩を優しく抱きしめた。智枝の細い肩が微かに震えていた。飛べなくなったカナリアのように・・・
すると智枝は俺の肩にその頭をのせて、深い悲しみの底から助けを求めるように俺の手を握りしめてきた。

「苦しいから、抱きしめて・・・」

智枝がそう微かに呟いた。俺はそんな智枝を優しく包み込んだ。智枝に叩きつけられた「二者択一」の問題・・・それがどれほど耐え難い痛みなのかわかったし、そんな鉛でできた十字架を独りで背負っていた智枝の気持ちを考えると、数式を解くように簡単に「答 え」が出てくるものでもない。
もちろん俺は智枝の「シアワセ」を最優先に考えている。
智枝がもし「元旦那」の元に戻ると言うなら、子ども達は再び本当の「父親」と暮らせるわけだし、「元旦那」が懺悔をするように智枝たちと誠意ある生活を送れば、やがて智枝も「元旦那」を許し、信じて、そして「夫」として受け入れることができるようになるかもしれない。それは時間が解決することだけれど、それで、「本当の家族」に戻れるなら俺は喜んでこの身を引こうと思う。 


第64話

でも、理由はわからないけれど、もし昔のままの単なるスケコマシに過ぎない「元旦那」の虚言で、智枝と子どもたちを何らかの理由で無理やり連れ去ろうとするなら、俺は智枝の盾になって智枝と子ども達を守ってみせる!
智枝や子ども達をまた不幸にするようなヤツには絶対に智枝たちを渡せない!
俺が素直に思ったことを智枝に話すと、

「ほんとにそれでいいの?もしかしたら、わたし、キミを裏切ることになるんだよ?」

智枝がその澄んだ瞳に涙を浮かべながら俺に訴えた。
そして、ついにひとすじの涙がこぼれ落ちた。一粒、二粒と、とめどなく悲しみの涙が雫となって床に落ちていく。

「智枝がどれほど苦しんでいるか、俺には痛いほどよくわかるよ。結果がどうなっても俺のことは気にしなくていいんだ。それより智枝は自分たちの『シアワセ』だけ考えればいいんだよ。『元旦那』が本気で改心したのなら、子ども達にとってもいいことだし、智枝も『元旦那』を許せる日が来るかもしれないだろ?俺はむしろそうなることを望んでいるんだ。『嘘』じゃない!智枝と子ども達に本当に幸せな『家族』に戻ってもらいたいんだ。俺はそう思ってる」
すると智枝は俺の手を強く握りしめながら呟いた。
「でも、今はまだキミと離れ離れになることなんて考えられないよ・・・それにね、わたしの『カン』なんだけど、あの人は改心してわたしたちを『シアワセ』にすることなんてできないと思うの・・・またわたしたちをゴミ屑のように捨てて、新しいオンナのところにいくわ、きっと・・・」
「なんでそう思うの?」
「だって、『人』ってそんな数年で変われるものじゃないでしょ?例えば誰にでも優しいキミが、明日になったら急に冷たい人になることはないでしょ?キミが世の中で一番怖いものって何?わたしは『人間』だと思うの。きっとキミは優しいから、信じていた人や友人から裏切られたり、捨てられたり、傷つけられたことはないと思うけど。ごめんね、こんな、キミがまるでほのぼのと苦労なく生きてきた人みたいな言い方して・・・でもね、わたしは確かにあの人を愛して、結婚して、子どもたちを産んだ・・・そしてある日、オンナができたから別れてくれ!と、暴力まで振られた・・・そしてわたしを飲み干した空き缶のように握りつぶして捨てたの。でもね、そんなことはどうでもいいの。わたしが許せないのはね、わたしがあの人をどうしても許すことができないこと・・・それはね、子ども達まで捨てたことなの!まだよちよち歩きのあの子たちを、タバコの吸い殻のように捨てていったんだよ?そんな人のことをもう一度『信用』しろなんて無理な話だよ!『信用』はさ、不安定な積み木を2人で頑張って築いていくものだと思うの。でも、たった一瞬の衝撃でこれまで2人で積み上げてきたもの、『信用』と言うものがいとも簡単に冷たい音をたてて崩れ去ってしまうものなの・・・特にわたしたちのような『夫婦』はね。捨てられた方はそこら中に散らばったガラスの破片で心にいろんな傷を刻み込まれるの。胸に突き刺さって抜けない傷、尖ったガラスの先で深くひっかけられたような傷。いろんな傷が心に、身体に、記憶に、その決して消えない爪痕を残していくの・・・わたしにはそんな傷がこの先も消えないような気がするの。そしてわたしのように、この世で一番怖いものが『人間』だって脳裏に刻まれていくの。何て言うか、人間不信もあるのかな?でもキミだけは『信用』できる人なの!キミにはそう言う『怖さ』がないの!優しくて純粋なの!だからわたしはキミを愛してるのっ!やっと見つけた『宝物』のようなキミを失ったら、わたしはこの先いったい誰を信じて生きていけばいいの?そんなことできないよっ!」

智枝の涙はすでに枯れ果てていた。
俺はそんな智枝を強く優しく包み込んでいた。
智枝の嘘偽りのない言葉たち。
智枝の甘い香りと数えきれないほどの涙の雫が胸に滲みる。
俺はその「元旦那」の、智枝たちに対する誠意が本物かどうか知りたかった。
時間の迷宮に迷い込んでしまったように、どうすることもできない俺たちは時間が過ぎ去っていることを忘れたまま、ただ抱き合っていることしかできなかった・・・


第65話

「ただいま~!ママ、誰か来てるの?」

その明るい声が俺たちにのしかかっていた重い空気を切り裂いた!きっと俺の靴をみて智枝の子どもがそう叫んだのだろう。飛ぶようにその子はやってきた!
そして俺の顔をみると、智枝の子どもらしく母親似の明るい笑顔で、
「あ、こんにちは!」
と小さな頭をちょこんと下げてきた。
ママ、この人だれ?と言いたげな表情で智枝にアイコンタクトを送っている。
きっとこの子は以前聞いていた次女の「笑美ちゃん」だな、俺はそう感じ取って笑顔で挨拶をかえした。
「こんにちは、笑美ちゃん」
すると、今の子どもはそうとうマセているようで、
「ねぇ、ママ。この『お兄ちゃん』が、ママが言ってた新しいカレシなの?」
そのいきなりの質問に俺も智枝もお互い顔を見合わせながら苦笑いをした。
すると智枝が少し恥ずかしそうに、
「そうだよ。優しいお兄ちゃんだからね」
と言うと、笑美はいきなり俺の胡坐に乗っかってきてじゃれついてきた。
俺は素直にかわいいな、と思ってそんな笑美の幼い頭をクシャクシャとしてやると、
「キャーッ!」と嬉しそうな悲鳴をあげた。小麦色の肌、綺麗と言うよりは可愛いその瞳と薄い唇と、初対面の俺にまったく物怖じしない度胸のある性格まで智枝にそっくりだった。

よほど俺のことを気に入ってくれたのだろう、笑美は俺にちょっかいをだして絡みついて離れない。智枝をみると母親の顔になっていて微笑んでいた。
それはおれの「彼女」としての智枝ではなく、ひとりの「母親」としての微笑みだった。俺はこんな智枝の表情もまた魅力的で好きだ。
笑美とそんな風に遊んでいたら、また玄関が空いた音がした。目をやると、笑美よりひと回り大きな女の子だった。この子が長女の理絵だな。
「理絵ちゃん、こんにちは」
と今度は俺から先に挨拶した。すると理絵も、こんにちは!と言ってチョコンと頭を下げた。理絵は笑美とひとつしか年が違わないのに相当ませていた。
「ねぇねぇ!もしかして『お兄ちゃん』、ママの彼氏なの?もうママと『キス』はしたの!」理絵は俺に身を乗り出して聞いてきた!再び智枝の顔をチラ見すると智枝は笑いをこらえていた。

(今のコドモって相当な耳年増だなぁ・・・)

俺も智枝のように笑いをこらえた。
「理絵ちゃんも笑美ちゃんもこれからよろしくね?」
そう俺が言うと子どもたちは嬉し恥ずかしそうに黄色い声をあげて喜んでくれた!
それを見た智枝は、子どもたちが俺のことを受けいれてくれたことに喜んでいるようだ。
子どものもつエネルギーは凄い!俺にはまだ子どもはいないけど、その姉妹の明るい声はさっきまで張りつめていた重い空気を一瞬で別世界のような明るい世界に変えてしまったんだから!

(「家族」か・・・温かくていいもんだな・・・)

俺は素直にそう思った。例え血が繋がっていなくても、智枝の子どもたち、理絵と笑美たちとうまくやっていけそうな気分になった。それはこの姉妹に智枝のDNAが脈々と受け継がれている証拠だ。これならきっとうまくいく!そんな思いが俺の頭の中をよぎった時だった。「シアワセ」に浸っている俺たち4人の元へ「招かれざる客」が予期せぬ嵐が如くやってきた!
もしこの世に「神」と言うものがいるならば、それは人の「シアワセ」に嫉妬深い残酷な存在なんだろうな、と思わずにはいられなかった・・・


第66話

「智枝?もう帰ってるのか?入るよ」
突然見知らぬスーツ姿の男が、まるで自分の家の中に入ってくるように自然な態度で俺たちがいる居間にはいってきた!子ども達の喜ぶ声で智枝は迂闊にも「元旦那」の車の音に気づかなかったようだ。俺にはすぐにこの男こそが智枝の「元旦那」だとわかった。そのアポなしの突然訪問が智枝の怒りを買った!
智枝の気持ちはせっかく築いた「シアワセ」の花壇をこの男に踏み躙られている気分だろう。智枝が、冗談じゃない!と言わんばかりに一気に男に詰め寄った!
「元旦那」は俺を一瞥すると、そのまま智枝に近寄っていった!
冷静な表情の男と怒りに満ちた智枝の顔。相反する表情をした2人が一気に距離を詰めた!
突然俺たちの目の前に現れた男はいつか智枝が言っていたように、短髪で背が高い爽やかな好青年といった感じだった。いい人のように見えたけれど、この人が智枝たち家族を投げ捨てて他のオンナのところへ行ったなんて信じられないほど誠実で優しそうな、いかにも智枝にお似合いの夫のように見えた。智枝が言ったように人は見かけによらないものだし、人は雲の流れのように心移りしてしまう生き物だ。人は見かけじゃわからないもんだ。
 なんでこんな文句のつけどころがない人が大事な家族を捨ててまで別のオンナのところに走ったのか?智枝のどこがイヤになったのか?俺にはさっぱりわからなかった。きっとそれが「夫婦」と言うものなんだろうな、とそう感じた。
「愛」は盲目と言うけれど、それは妻子持ちの男にはまったく無縁のものだ。
時として「愛」は突然その姿を変えて、人を狂気へと走らせてしまうほどの恐ろしいものにもなる。世間では「愛」のもつれから相手を殺してしまう事件なんてよくある話だ。  
智枝の「元夫」はどうして高校卒業してすぐに智枝と結婚するほど智枝のことを愛していたのに、智枝と「元旦那」の間にいったいいつ、どんな「愛」の不純物が混入して2人の「愛」、いや、「元夫」の智枝と子ども達への「愛」を壊していったのだろうか・・・

智枝が悲鳴のような叫び声をあげた!
「ちょ、ちょっと!どうしていきなり入ってきたのよっ!出て行ってよっ!部屋には入ってこないって『約束』でしょっ!今すぐに出て行ってよっ!」
智枝は「元旦那」を両腕で押し出すように部屋から追い出そうと必死になっている!
「智枝!落ち着いてオレの話を聞いてくれ!」
男が智枝の両肩を必死になって押さえつけている!2人とも子ども達の目の前であることをすっかり忘れてさらにヒートアップしていく!両親の争う姿を止める術を知らない幼い姉妹はいつも見ている「パパ」と「ママ」ではないことに戸惑いを隠せないようだ!子ども達はドーベルマンに睨まれた仔犬のように怯え、震えている!とにかく俺は子ども達が智枝と「元旦那」のいざこざに巻き込まれないように俺の背後に避難させた!
幼い子ども達の目の前で、今まさに「元夫婦」の醜い争いが嵐のように唸っている!智枝は悲鳴のような叫び声で「元旦那」を拒み続けている!「元旦那」であるその男は、智枝の両肩を掴んで何か必死に説得でもしているかのように激しく揺さぶっている!子どもたちが泣き叫ぶ声で、智枝と「元旦那」が何を話しているのかよく聞き取れなかった。俺はどうやら「修羅場」と言うヤツに巻き込まれてしまったようだ。動くに動けない!


第67話

5分ほどそんな状態が続いた。そして先に力尽きたのは智枝の方だった。ぐったりとその場にへたりこんでしまった。さすがに男の重圧にはかなわない。
すっかり息があがって声すらでなくなった智枝に目線を合わせようと「元旦那」がしゃがみ込むと智枝に何か語り始めた。
俺はその話の内容を一部始終聞くことになる。「元旦那」の出方次第では、俺は智枝を譲るわけにはいかない!「元旦那」は気力がすっかり枯れてしまった智枝に有無を言わせず一方的に話し始めた。

(こう言うタイプの男が家庭を平気で壊して捨てるのか・・・)

「6月末、オレたちは北海道に引っ越すんだ。だから、お前達も準備しておいてくれ。また迎えにくるから」
「元旦那」がそう言い放つと、智枝は自分の無力さで「元旦那」の言いなりになってしまった屈辱感に襲われ、子ども達の目の前で両手で顔を覆って泣き崩れた!智枝の悔し泣きが部屋に響く。
俺の背後に隠れていた子どもたちが「ママッ!」と叫びながら智枝にしがみついている!俺は「元旦那」のやり方が気に入らなかった!それだけじゃない、智枝を泣かすだけでなく、娘たちまでも泣かして平気な素振りでいる態度に腹がたった!その時大好きな母親を泣かせた「父親」に幼い娘たちが噛みついた!

「パパッ!どうしてママをイジメるのっ!」
笑美が悲痛な叫びをあげる!
「どうしてママにこんなことするのっ?ママが可哀そうじゃない!」
続いて理絵が叫んだ!

小さな汚れなき2つの瞳が父親を必死に睨みつけている!最愛の母親を守るために!男が幼い娘たちに手を伸ばす!その瞬間、娘たちはその小さな身体を張って「パパ」が自分たちの大事な「ママ」に触ることができないように両手を必死に広げて身体を張ってとおせんぼうをしている!智枝と娘たちの「絆」は海のように深く、鋼のように強い!
男は一瞬怯んだが、見るからに作り笑顔を浮かべた顔のまま、

「お前たち、ママから何も聞いていないのかい?」

男は愛する娘たちの前では優しい「パパ」となって、子ども達を刺激しないように近づくとその目線を子ども達に合わせた。すると「元旦那」は娘たちにわかりやすい言葉で話し始めた。


第68話

「2人ともいいかい?別にパパはママをイジメにきたんじゃないんだ。この前ママに言ったように、7月からみんなで北海道の新しいお家に引っ越しをするんだ。学校のお友達にさよならをちゃんと言っておくんだよ?だから、もう泣かなくていいんだよ。それに寂しい思いもしなくていいんだ。だってこれからはパパとママ、そしてお前達家族4人で暮らしていけるんだから」

そう言うと、男は温かな笑顔を浮かべて愛する娘たちの頭を優しくなでた。
しかし子ども達はなおもその男を睨み続けている!智枝は力尽きて今この状況が飲み込めない状態だ。持っていた体力をすべて出し切ってしまったのだろう、乱れた髪、そして肩で激しく呼吸をするので精一杯だ。それでも男は容赦なく耳たぶを掻きながら話し続ける。

「何にも心配することはないからね。今日のママはちょっと具合が悪いだけだから大丈夫だよ。だから心配することは何にもないんだよ。いいね?」

男がそう言っても娘たちは「パパ」を睨みつけたままとおせんぼうをやめなかった!小さな2人は身体を張ってかけがえのない「ママ」を守る「鉄壁」となっている!この最愛の「ママ」を泣かせた男を「ママ」に近づけないために!智枝はたった一滴の回復した力を振り絞って、そんな幼い娘たちを守るため必死になって2人に覆いかぶさった!母と子の強い血の繋がりが見えた!智枝のDNAと一緒に流れているはずのこの「元旦那」のDNAなどとっくの昔に浄化されていて、もう姉妹たちにこの男の「血」など流れてはいないのかもしれない。
時間の流れが幼い少女たちを、この男から完全に切り離していた!

「もうイヤだッ!ママをイジメるパパなんて大っ嫌いっ!」

幼い姉妹が再び声を揃えて叫んだっ!こんな「元父親」でも、子ども達への「愛情」については嘘偽りなど微塵もなかったようだ!男の顔が一気に青く染まっていく!子ども達の悲痛な叫び声が巨大なハンマーとなって、男の胸の中にある娘たちの姿をした美しい純白の像を粉々に破壊していった!


第69話

愛する者からの拒絶・・・

自分は娘たちから愛されているとばかり思っていた父親はその悲痛な叫びに、ショックのあまり膝が震え、眩暈に堕ちていった!一気にその顔が真っ青になっていく!男の額には大粒の脂汗と青く染まった血管がグンググンと不規則な脈を打って震えている!男の顔が引き攣って、その唇がピクピクと小刻みに震えている!目の焦点が定まっていない!男は相当の精神的ダメージを負ったようだ!男の頭の中がパニックで揺れ動いているのが手に取るように俺にもわかった。男から完全に冷静さが音を立てて崩壊していった瞬間だった!
「愛する者からの拒絶」、それはとても重く悲しいものだ。ましてや血の繋がっている愛する娘たちからの「拒絶」、それは「元父親」にとって死刑宣告に勝るとも劣らないものだろう。そして追い打ちをかけるように理絵が思いもよらなかったことを叫んだ!

「あたしね、パパとママがずっと前に『りこん』してたの知っていたんだよっ!だからこれ以上ママを苦しめないで!」

まだ幼い娘たちには「離婚」と言うシステムがわかっていないだろうとタカをくくっていた「元旦那」の計算は大誤算だった!順調に回っていたと思っていた歯車の歯がひとつひとつ崩れ落ちてゆき、ついにその歯車の回転が止められてしまった!
それでもまだ微かに息の根が残っている男は、いったん深呼吸をして態勢を立て直すと愛する娘たちへの説得を再び話し始めた。
「元父親」は耳たぶを弄りながら、

「違うんだ、パパとママが『りこん』だなんて誤解だよ!パパは今までお仕事で外国に行っていたんだよ!もう外国でのお仕事は終わったから、またみんなで一緒に暮らせるんだよ?」

その瞬間笑美が叫んだっ!

「パパッ!『ウソ』ついてるっ!」

男が「ウソ」をつく時に必ず耳たぶをいじるクセがあるのを笑美は見逃さなかった!
その瞬間、男はトリックを簡単に見られてしまった哀れなマジシャンになった!
もはや言い訳の言葉もでない!男の身体が石像のように固まっていく!男の顔にさっきとはまた別のイヤな汗が流れてきた!そして男の顔が、枯れる寸前の紫陽花のような黒い青色に染まっていく!男が激しい眩暈の中に落ちていく!
そして子ども達が「元父親」にその息の根を止めるトドメのひと言を鋭い矢のように言い放った!

「ママを泣かせるパパなんてもういらないっ!もうウチに来ないでっ!」


第70話

まさに会心の一撃だった!その瞬間、「元父親」はその心臓に深々と突き刺さった言葉の矢に呼吸を奪われ、脈は止まり、目に映る光を失い、そのまま魂を引きちぎられたかのように膝から崩れ落ちていった・・・
男はそのまま力なく崩れ落ちて四つん這いになった・・・
すべてを失った者のように・・・
「元父親」の汚れた目から大粒の涙が堰を切ったように流れだした。
「元父親」は娘たちのことをどれだけ「愛している」かと言うことを今さらになって改めてわかったようだ。
そんな愛する娘たちから、「パパ」として死に値するほどの鋭い言葉の矢をその心臓に突き刺されたのだから。
「家族」を捨てた男の胸の中に、信じている者から今度は逆に、捨てられる者の悲しみをその身体に突き刺されてしまった。その大きくてとても罪深い感情がその胸の隅々までガラスの破片のように散らばって、男に数えきれないほどの傷あとをつけていった。

そんな落雷にも似た激痛に全身を打ち抜かれた男は苦しみながら苦悶の表情で自分の心臓を握り絞めた!3年前のあの日どこか遠くへ飛び去って行った「家族」への愛情がその胸に戻ってきたかのように。男の思考はスイッチを切り替えたように180度回転し、魔女にかけられていた魔法が解けていったような澄んだ表情になった。嘘偽りのない本当の顔。男の仮面が剥ぎ取られた瞬間だった。
男は今さらになって自分の犯した罪の重さを、無責任さを嘆き始めた。どうして自分は大切な家族を捨ててまでして別のオンナの元へ行ったのか?何よりも大事なはずの家族を大事にしてこなかったのか?そして自分の犯した過ちに対する償いも智枝と子ども達に許してもらえるほど何故しなかったのか?と、そう自分を責めたて始めた!男の太い声が嗚咽となって部屋中に響き渡る!

(どうして今になって、この子たちの「父親」であるオレがオレを苦しめるんだ?)

「良心の呵責」が重たい十字架となってオレに覆いかぶさってきたようだ!
わかっている!今さらどんなに後悔しても遅いのは痛いほどわかっている!
愛しい娘たちのオレへの叫びが、オレの鼓膜を突き破り心臓に突き刺さったようだ!
何もかもこのオレが悪いんだ!あのオンナに引っかかったオレがバカだったんだ!
こんなにも狂おしいほど娘たちを愛しているのに!
お願いだからパパのことをそんな目でみないでくれ!
お前たちの言う通り、ママを泣かせたパパが全部悪いんだ!
だから、せめて、せめてもう一度だけでも智枝とお前たちに今までのことを謝罪しよう!簡単に許されるなんて思っていない!いったいどうすればパパを許してくれるんだ?許されるのなら懺悔でも何でもしよう!土下座で済むならいくらでもこの額を床に擦りつけても構わない!とにかく、もう一度、もう一度だけ、最後でいいから、やり直すチャンスをオレに与えて欲しい!とにかく、「ママ」に今のこのオレの気持ちを伝えさせてくれ!


第72話

男がワナワナと震えるその両腕のなかに幼い娘たちを抱きしめようとした瞬間だった!

「わたしから子ども達を取らないでっ!」

そう叫びながら智枝は乱れた衣服のまま玄関にふらつきながら向かった!今にも崩れ落ちそうな智枝が身体を引きずりながら薄暗い玄関の方に向かっていった!いったいどうするつもりだ?いや、そうじゃなかった!智枝は玄関に行ったのではなく、人1人が使える程度の小さなキッチンから包丁を取り出してきたのだった!智枝は乱れた前髪の隙間から鋭い眼光で男を睨みつけている!両手でしっかりとその鈍く光る包丁の柄をぎゅっと握りしめている!今にもその男に向かって体ごと突っ込んでいって男を刺し殺す気だ!まずい!俺は思わず叫んだ!

「智枝っ!馬鹿な真似はよせっ!その包丁を捨てるだっ!」
「豊クンは黙っててっ!これはわたし達の問題なのっ!余計な口出しはしないでっ!」

男は愕然とした表情で立ち竦んでいる。子ども達はそんな見たこともない狼のような顔をした「母親」の後ろにすがるように隠れた!智枝は子ども達を後ろに隠し、これから起こる出来事に巻き込まれないように必死になって子ども達を守っている!子ども達は声さえ出せないっ!智枝の荒い呼吸が部屋中に響き渡る!このままじゃ本当にマズいことになる!智枝に一線を越えさせてはならない!俺はもう一度叫んだっ!

「智枝っ!子ども達が見てるんだぞっ!やめろっ!」
「うるさいっっ!アンタなんかに何がわかるって言うのよっ!」

ダメだ、もう俺の説得すら耳に入らないほど智枝は激高しているっ!このまま男に包丁を持ったまま突っ込んでしまえば智枝は「犯罪者」になってしまう!ぼろぼろの身体で立っていることがやっとのはずの智枝の眼光だけは、ハンターに崖っぷちまで追い込まれて傷を負った狼のようにギラギラとしていた!玉砕覚悟の最後の抵抗だっ!今にもハンターを喉を喰いちぎりそうな腹をくくった眼つきだ!こうなった人間はいったい何をするかわからない!肩で息をしている智枝。その鋭い眼光だけはしっかりと生きている!どうする?俺はどうすればいい?俺の頭の中が混乱する!6畳一間の狭い部屋だ、男には逃げ場がないっ!どうする?どうする!俺はどうすればいいんだっ!と同時に男が叫んだっ!

「智枝!お前から子ども達を奪うつもりはないんだ!本当だ!だから落ち着いてくれ!」
「うるさいっ!アンタなんかこの世から消えればいいのよっ!」

 智枝が最後の力を振り絞って男に向かって包丁を強く握りしめたまま身体ごとぶつかっていったっ!

その瞬間、時間が、すべてが、止まった・・・


第73話

俺は不覚にも智枝を止めることができなかった・・・
何も聞こえない、音のない、暗闇の部屋・・・
そっと目をあけると・・・男は智枝に腹部を刺されながらも智枝のことを、智枝のその細い身体を包み込むようにぎゅっと強く抱きしめている・・・男のスーツの上着に鮮血が華のようにジワジワと広がっていく・・・智枝は、遂に一線を越えてしまった・・・

男は腹部を刺されたまま智枝を強く抱きしめている・・・
智枝が正気に戻ったようだ・・・

「あ・・・あぁ・・・わたし・・・わたしっ!なんてことをっ!」

そう言いながら智枝の身体から殺気が消えてガクリと崩れそうになった・・・
そんな崩れ落ちていく智枝の身体を男はグッと引き上げて力強く智枝を抱きしめ続けている・・・

どうやら男の傷は思ったよりも浅く、致命傷になるほどではないようだ。いくら智枝が刺したとは言え、フラフラの状態で僅かにしか入らない力では男に致命傷を負わせることはできなかったようだ。
それに男が女の力で刃物を通すには厚いスーツが男を守る鎧となって刃物が奥深くまで突き刺さるのを防いだ役目を果たしたようだ。
それらの偶然はまさに不幸中の幸いだった・・・

男は智枝を強く抱きしめながら、穏やかな口調で智枝に語り始めた。

「智枝、今まで苦労をかけてきてすまなかった・・・簡単には許してもらえないのはわかっている。でも6月末になったらオレと一緒に北海道に引っ越してきて欲しいんだ。智枝やこの子たちに酷い仕打ちをして、そして裏切って捨ててきてしまったことをオレは心の底から後悔して反省している。オレがそんなに憎いならいっそこのままオレを殺してくれてもかまわない。それでお前たちがこんなオレを許してくれると言うなら喜んでこの腐りきった命をお前たちに捧げて、オレはお前たちの前から永遠に消え去ろう・・・智枝と子ども達にどれだけ謝罪しても、そう水に流すように許してくれるとは思ってなどいないけれど、これからは心を入れ替えてオレが犯した『罪』を償っていくつもりだ。頼むからこんなオレをもう一度だけ信じてついてきて欲しいんだ・・・」

「どうして?どうして・・・わたし、こんなことしてるの・・・?」
パニック状態から我に返った智枝が男の胸の中で震えながら声にならないほどの疲れ切った声で智枝に話しかけた。


第74話

「もう気が済んだか・・・?まだ気が済んでいないなら、オレはまだ生きてるぞ・・・?オレを殺したいならもっと力を込めて突き刺せっ!」
男は覚悟を決めて智枝に怒鳴った!

「い、イヤッ~ッ!」

男の腕の中から逃れるように暴れる智枝を男は決して放さないように強く抱きしめている!
智枝の手から包丁だけが落ちていった・・・
やはり力尽きていた智枝の力では、男に致命傷を負わせるほど深く包丁を刺すことはできなかったようだ。
幸いにも男の傷は浅かった。本当に不幸中の幸いだ。智枝が「殺人犯」にならなくて済んだのだから・・・

 男は初めて見た時の印象とは打って変わっていた。
誠実さに満ち溢れた美しい表情だ。
俺はそんな男の「命」を懸けた哀願の言葉にとても誠実さを感じた。
言葉には魂が宿ると言うけれど、この男の哀願にも似たその言葉に、俺は熱い言葉の魂を感じた。
人は生きていれば大なり小なり何らかの「過ち」や「罪」を犯しながら生きていく生き物だ。
そしてその被害者はその人間が犯したそれを責め続ける。それは決して避けられないことだ。
だから人間は自らその手で起こした「過ち」や「罪」に対して「罰」と言うものを与えられ、長い年月をかけてその自分に与えられた「罰」を苦しみ悶えながら生きていくことでいつか晴れて「許し」が与えられるんじゃないかと俺は思う。
例えそれが許されなかったとしても、その罪人はもう2度と同じ「過ち」や「罪」を絶対に犯さない!と心に誓うだろう。
そんな苦しみを抱えてきた罪人にとって、その苦しみ続けてきた時間の中で得てきたもの、つまり「被害者の痛み」を知ったことがこれから心新たに生きていく上での「糧」となって光り輝くものになると思う。

「罰からの脱皮」

そして美しい羽を広げる蝶のように生まれ変わることが許される。生きていくことが許される。この「元旦那」はこれからどんな「罰」を受けて苦しみ悶えながら生きていくのだろう?そして大事な子どもたちや智枝から許される日がくるのだろうか?


第75話

懺悔、贖罪、哀願・・・見ている俺の胸を絞めつけるほどの純粋な謝罪の言葉だった。
男はそう力強く智枝に許しを請うように己の罪を悔いながら、俺や子ども達のことを憚らず智枝に対して自分の身体を震わせながら何度も懺悔の言葉を紡いでいる。
智枝の顔から視線を逸らすことなく赦しを求めている。
その男の姿は俺からみても本当に自分が犯した大きな過ちを後悔しているように見えた。
ただ純粋に智枝に許しを請う姿に見えた。

男の後ろ姿だけで俺はこの「元旦那」が智枝たちともう一度やり直したいのだと真摯な態度で訴えているように見えた。
同じ男として俺にも「元旦那」の罪を悔い改めたその誠実な姿は、智枝たちに対する反省の色がどんな原色の色よりも濃く、深く感じられた。
男は刺された腹部に左手を当てたまま、いつものように優しい「パパ」と言う笑顔をして、泣き崩れた笑顔を浮かべながら子ども達を刺激しないように近づくと、片膝をついて涙を浮かべた目線を子どもたちに合わせた。
すると父親である男は娘たちがわかりやすい言葉で話し始めた。

「ママだけでなく、お前たちにまでパパはものすごく酷いことをしたんだよ。パパはどうかしていたんだ。自分でもなんでこんなに可愛いお前達やママのことを捨てたのか、自分でもわからないんだ。だから、今度こそママとお前たちを幸せにするために今まで通りに一生懸命働いてお前たちを必ず幸せにするから、だから、パパを許してくれないか?」

そう言って男は娘たちの頭を優しく撫でながら2人を強く抱きしめると、耐えることに限界がきたかのようにまた大粒の涙を流し嗚咽した。
父親の娘たちへの「愛」が、その温かい涙が、2人の幼い姉妹に伝わったのだろう。
理絵と笑美も、「父親」の切実なる愛情に心を打たれたようにわんわんと泣き始めた。
幼い姉妹の涙は父親の犯した過ちを洗い流す「許し」の涙のようにみえた。
あとは智枝が「元旦那」の罪にどんな判断を下すか?俺は固唾を飲んで見守っていた。

有罪か?

無罪か?

まだ智枝は力尽きていて積乱雲のように意識が混乱し、目の前の状況が飲み込めない状態になってしまっているだろう。致命傷でないにしても人ひとり包丁で刺してしまったのだから。頭の中はおもちゃ箱をひっくり返したかのようにごちゃごちゃに混乱しているだろう。


第76話

智枝からは燃え尽きて灰になった人のようにまるで生気が感じられなくなっていた。
まだ智枝は肩を上下させて呼吸している。だらりと下がったままの頭に、絹のような栗色の髪の毛が柳のように垂れ下がっている。
意識が回復したら智枝はこの男にどんな判決をくだすのだろうか?
見ているだけの、第3者である俺の鼓動が、心臓が、この俺の胸を突き破って飛び出しそうになるほど緊張している!背筋に、額に、熱いシャワーのような汗が流れる・・・
もう子ども達は「父親」を許しているのがわかった。あとは智枝が「元旦那」を許すことができればすべてが元通りになり、また1からしばらく休んでいた「家族」を再び始めることができる。だから俺は智枝に、

どうか「元旦那」のことをもう許してやってくれないか?そうすればまた元の「家族」に戻ることができるのだから。
それが智枝と子ども達にとっての最高の「シアワセ」になるのだから・・・

だから俺も智枝には「元旦那」の誠意ある謝罪に「無罪」の判決を下して欲しいと思った。そうすれば必然的に俺は智枝と別れることになるし、もしかしたらもう2度と会えなくなるかもしれない。そして誰よりも愛する智枝を手放さなければいけなくなる。そうなれば俺は自分の心臓を引きちぎられてしまうような痛みと悲しみに苦しむことになるだろう。
でも、今の俺にはそんな事よりも智枝が「元旦那」を許して、また「家族」に戻って普通の家族と同じ、普通の「シアワセ」を手に入れて欲しいと心底思っている。
この気持ちに嘘偽りはない。
俺は、智枝が幸せになってくれればそれ以上望む物など何もないのだから。
だから智枝、どうか、子ども達のためにも「元旦那」をもう許してやってくれないか?
絶対に男を「有罪」にして俺のところへなんか来ちゃダメなんだ!
俺にはいくらでも新しい恋愛をするチャンスがあるけれど、智枝、お前には今、このチャンスしかもうないんだ!簡単に許せないのはわかる。
でも、智枝!お前は俺を選ぶんじゃなくて、どうかこの「元旦那」の胸の中に、子ども達のように飛び込んでいくんだ!

俺は心の中でそう強く願った。


第77話

娘たちは父親の、初めて見る胸の奥底から流すその涙に心を揺さぶられたのだろう。
2人とも泣きながら、

「もうママを泣かしちゃダメだからね?」

「あぁ、約束するよ、もうお前たちにつらい思いは絶対にさせない!だから、お前たちもパパのこと許してくれるかい?これからはママのことも、お前たちのことも大事にすると約束する!神様にも誓う!お前達とゆびきりげんまんもする!だから、だから、こんなパパをもう一度信じてくれないか?許してくれないか?」

父親の贖罪、それは娘たちとの固い約束。父親の必死の懺悔が愛する娘たちによって許された瞬間だった。純粋な親子の姿はどんな光よりも眩しくみえた。 
その母と子の血の繋がり、それは美しく強い「絆」。智枝のDNAと一緒に流れているこの男のDNAが娘たちと重なって融合して、再び父子の鼓動を熱くシンクロさせていく。
ガラス細工のように割れてしまって修復不可能と思われたその父子の「絆」は、時計の針を逆戻りするように元のカタチに戻っていくのが俺にもわかった。再び繋がり始めた父子の「絆」、それは何よりも強く、そして美しい。父親と母親と愛すべき可愛い娘たち。
その汚れた「絆」が美しい「絆」となって再び繋がることができたなら、それは、その「絆」は永遠に、どんな宝石よりも美しい光に満ち溢れたものになるだろう。俺はそうなることを本気で願っている。

やっと落ち着きを取り戻した智枝がゆっくり立ち上がると、涙を拭いながら一歩一歩、疲れ果てた身体を引きずるようにして俺に近づいてきた。智枝はその栗色の髪の毛を乱したまま俺にもたれるように力強く抱きついてきて、止まることのない嗚咽をもらしている・・・俺は智枝の傷ついた身体をしっかりと抱きしめながら、

(どうして俺のところに来たんだ!お前が行くべきところは「家族」のところだろ!)

 智枝に俺の気持ちが、元の「家族」に戻って欲しいと言う俺の願いは届かなかったのか?智枝、お前が帰る場所は俺の胸じゃないんだ!お前が寄り添う胸は「元旦那」の胸の中なんだよ!だから、今ならまだ間に合うんだ!俺のことを振り切って、「元旦那」の胸の中に飛び込んでいくんだ!智枝を本当に「シアワセ」にするのは俺じゃない!「元旦那」と子ども達だ!だから俺の胸の中で泣かないでくれ!頼むから!頼むから、俺を振り払ってくれ!


第78話

俺の身体にしがみつきながらヒックヒックと息を切らしている智枝の肩を掴んで、小舟を砂浜から押し出すように俺の身体から智枝をゆっくりと放した。智枝の熱が俺の身体から離れてゆく。智枝はそれと同時に俺の両肩にその細い手をのせると、俺の目を見つめたままその薄桃色の唇を震わせている・・・
歌が歌えなくなった美しいカナリアは、じっと俺の瞳を見つめながら微かな鳴き声で、

・・・ごめんね・・・ごめんね・・・

 そう何度も嗚咽とともに囁いた。その美しいカナリアの泣き声は切なくも悲しくも聞こえた。そして俺はそんな智枝に微笑みながらその美しい涙を拭ってやると、傷ついたカナリアはゆっくりと「家族」の元へ飛び立っていった。

そう、これでよかったんだ、これで・・・

俺はなぜかとても安心した気分で、ツガイと2匹のヒナが待つ巣へと戻っていく傷を負ったカナリアを見守っていた。
それが意味するもの、つまりそれは、

「無罪」・・・それが、智枝が下した「元旦那」への判決だったのだから。

智枝は3人を抱きしめて泣いている。失われた「家族」が、今俺の目の前で新しく蘇生して息を吹き返して固い「絆」となった瞬間だった。「家族」4人がひとつになって強く抱きしめ合っている。これで「元家族」が3年と言う長い年月をかけて新たな「絆」と言うカタチで強く結ばれて本物の「家族」になっていった。
俺はその美しさに安堵のひと息をついた。
どうやらそこに俺が入り込む隙間はなさそうだ。
俺はそんな元通りになった「家族」をみて、もう一度ホッと息をついた。


第79話

もう、智枝に俺は必要ないんだ。俺は智枝に捨てられたなんてこれっぽっちも思っていないし、恨みも嫉妬もなかった。逆に新婚夫婦を祝福するような清々しい気持ちだった。
また「家族」そろって1からやり直せばいい。人間は誰でも「過ち」を犯す生き物だけど、その素晴らしいところは、反省し、謝罪し、己の犯した罪を悔い改めることができるところだ。そうして人はまた一歩、成長して前に進んでいくことができるのだから。

もしこの世に生きとし生ける者のなかで、

「自分は罪を犯したことがない!」

と豪語するヤツがいるのならそいつは絶対に頭のイカれたヤツだけだろう。そう言う俺だって、数えきれないくらいの罪を犯してそして懺悔を何度も繰り返して今日まで生きてきたんだから。

罪を「許す」ことはとても難しいことだ。1度でも失った「信用」を取り戻すことも想像できないほどの労力がいる。己の誠意を見せること。それはきっと自ら石像のように重い十字架を背負って生きていくことになるのだから。しかも、どんなに尽くして苦しんでも相手にその誠意が伝わらずに「許し」を与えられることなく独りよがりの徒労に終わることもあるかもしれない。でも、もしそのような結果になったとしても、それはその罪を犯した人間にとってこれから正しく生きていくための「糧」となっていくだろうと、俺は思う。

「またみんなで、『家族』揃って頑張っていこうね?」
「と、智枝・・・オレを、許してくれるのか・・・?」
「・・・うん・・・」

 そう呟いた智枝のひと言によって、俺と智枝を結んでいた運命の赤い糸がプツリと小さな音をたてて切れたのがわかった。そう、これでよかったんだ、これで。俺には悔しいとか嫉妬心のような醜い感情が不思議と湧くことはなかった。まるで映画のハッピーエンドをみているように、清々しい気持ちになったし、素直に嬉しかった。


第80話

智枝は以前俺に、世の中で一番怖いものは「人間」と言ったことが、今、俺の目の前でそれが具現化している。もちろんいい意味で。一安心した時だった。嬉しそうに理絵が白状した。

「あたしね、パパとママがずっと前に『リコン』してたの知っていたんだよ?だからこれ以上ママを苦しめないでね?ずっとママのこと大事にしてね、パパ!」

その娘たちの拙い言葉で、夫婦は一瞬樹氷のように凍りついた。お互い顔を見合わせ、あまりの驚きに心臓が止まったように見えた。まさか、子ども達に「離婚」していたことがバレていたなんて・・・
モトサヤに戻った夫婦は子ども達に誓う様に言った。

「あぁ、もちろんだよ。ママだけじゃなくてお前たちのこともずっと、ずっと大事にするから。だからパパを信じてくれないか?一緒に『札幌』に来てくれないか?」
「うん!みんなで一緒に『札幌』行こう!ママもいいよね?」
「うん、うん・・・これからはみんなで『札幌』で暮らそうね?」
「ねぇ、『さっぽろ』ってどこにあるの?」

新たな船出をする家族が笑美の幼いセリフに笑った。それはこの狭いワンルームのアパートに美しい旋律となって響き渡った。
まだ幼すぎると思っていた娘たちには「離婚」と言うシステムがわかっていないだろうとタカをくくっていた父親の計算は誤算だった。まだ「離婚」と言うシステムがわからないだろうと思っていた幼い娘たちによって順調に回っていたと思っていた計画の歯車がひとつ、またひとつと崩れ落ちてその回転を止められていったに違いない。子どもは理屈ではわからなくても、その小さな感受性はどんな空気をも読み取ってしまうものなのかもしれない。「オトナ」は演技が下手なんだな、と、そう思った。


第81話

「みんな、よかったね。パパさんも智枝も子どもたちのこと甘く見てたみたいだね?」
「えっ?いったいどういうこと?」
「子どもたちはとっくに夫婦2人が『離婚』していたことを知っていたんだよ」
「まさか・・・そんなはずがあるわけないじゃないか?こんな幼い娘たちが?」
「でもね、説明してもわからないかもしれないけど、子どもたちも『バカ』じゃない。両親の異変くらい、きっとずっと前から気づいていたんだろうね。そればかりはどんなペテン師でも隠せないものだったんだよ。パパさんは子どもたちに事実を隠していたつもりだったろうけど、子どもって、そう言う『空気』を本能的に敏感に読み取るようにできてるんじゃないかな?」
「そ、そんな・・・じゃ、オレはうまく誤魔化していたつもりの子どもたちに、逆に操られていたってことか?そんな・・・」

男は自分を恥じるように頭を掻きむしった。すると理絵が言った。

「あたし、わかってたもん!パパがママを『捨てた』こと・・・」
「ママがね、パパがお家出て行ってから夜中に泣いてたの、笑美も知ってるもん!」
「でもね・・・」

誰もが動けなくなるほどの沈黙を置いて、意を決した表情で理絵が小さな身体を震わせながら続けた。

「でも、一緒にお出かけしていれば、いつかパパとママが仲直りして、パパが帰ってきてくれるって、笑美と一緒に信じてたの・・・でも、いつまで経ってもパパとママは仲直りしなかったから、あたしも笑美もとってもつらかったんだよ・・・」

父親は塩をかけられたナメクジのようにどんどん小さくなって、自分の居場所を失っていった。自分の演技がこんな幼い子どもたちにすべて見抜かれていて、逆に自分がまた智枝と復縁するように導かれていたなんて・・・
智枝と離婚してからの3年間で、父親が想像していた以上に娘たちは強く賢く優しく智枝に育て上げられていた。その小さな胸の中にどれほどの苦しみと悲しみを抱いて生きてきたかと言うことを想像することはたやすいことだった。
俺もそんな理絵のひと言に胸を射抜かれたように、子ども達の悲しみや苦しさがこの胸に痛いほど突き刺さったのだから。

その理絵からの切実な訴えにも似たひと言に、「元夫」は自分が「父親」であることを名乗る資格がないことを恥じているようだった。そんな娘たちの苦しみや悲しみも知らずに生きてきた「父親」は肩をガクリと落としたまま、顔を上げることさえできないほど柳のようにただうな垂れていた。魂を抜き取られた人間のように。 
俺にはそんな智枝の「元旦那」が蟻のように小さく見えた。
「元父親」が幼い娘たちに天誅を下された瞬間だった。
だが、娘たちはそんな「元父親」を見放すことはしなかった。
幼い娘たちはそんな父親に優しく手を差し伸べている。そして赦している。

「でも、これからはママのことを大事にするって約束してくれるんだよね?」

父親は飛び跳ねるように項垂れていた顔をあげると力強く誓った!

「これからはママだけじゃないよ!お前たちのことを誰よりも大事にして絶対に幸せにしてやるから!こんなパパを許してくれて・・・ありがとう・・・ありがとう!」


第82話

「あの、ひとつ聞いていいですか?」
俺はある疑問があったので、男に尋ねた。
「どうしていきなり智枝たちを札幌に一緒に連れていきたかったんですか?」
男は己の生き恥を晒すように言った。
「オレはとっくの昔にオンナに捨てられたんだよ・・・その時に気がついたんだ。智枝と子ども達の存在がオレにとってどれほど尊い存在だったかということに・・・あのオンナに夢中になっていたオレは、まるで哀れで情けないピエロだよな・・・」
男は全ての気力を失ってまたうな垂れた。本当に捨てられたピエロのように見えた。
「でも、そんなオレにやっと出世のチャンスが巡ってきたんだ。だけどその条件の一つに離婚歴のない人間に限る、とそう書いてあったんだ・・・つまり『家族』がいないとオレの出世は反故にされてしまうんだ・・・だからオレは焦ったんだ。つまり、智枝ともう一度やり直したいと、そう思ったんだ・・・出世のためだけじゃない・・・オレにとって、智枝と娘たちがどれほど大事な存在かと言うことに気がついたんだ・・・」
「つまり『家庭』をもっていないと出世できないんですか?そんな会社珍しいですね?」
「会社の方針さ・・・『家庭』を守れない人間に、『仕事』が務まるかってね・・・まさに正論だよ、会社がそう言うスタンスをとっていることは・・・」
「でも、ちょっと自分勝手すぎませんか?大事な家族の気持ちも考えないで、自分の都合のいいように勝手に捨てて、今度は『家族』が必要になったから、戻ってきて欲しいなんて。誰もそんな言葉なんて信用しないんじゃないですか?」

今度は俺がこの男を「許す」番だ。確かにこの男の言葉に嘘偽りがないのはじゅうぶんわかっている。罪を償うために相当苦しんだろうことは想像できた。
俺は大事な智枝をこの男に託すことになる。俺は男の「覚悟」をこの目でしっかりと見届けたい気持ちになった。この男に智枝と子ども達を絶対に「シアワセ」にして欲しいからだ。だから敢えて俺は男に釘を刺す言葉をぶつけた。

「そうだろうな・・・今月中にオレの身辺審査があるからオレが離婚していることが会社にバレると・・・まぁ、別居も同じ扱いになるけれど、オレはせっかくのチャンスを棒に振ることになるんだ。高卒で智枝たちと一緒に住んでいた頃はただ必死に働いて、見下してくる大卒の奴らをぶち抜いて出世してやろうと思ったんだ。今その願いが叶うかどうかの瀬戸際なんだ。オレは智枝を捨てて、オンナに捨てられてからいろんなものを犠牲にしてやっとここまで登りつめてきたんだ。魔が差してしまったとしか言いようがない。だから、智枝たちに懺悔して謝罪して、土下座してでもいい!もう少しで、この手に届きそうなのに・・・また、もう一度『家族』に戻れるのならオレはなんでもする!オレが馬鹿だったんだ、あんなオンナに引っ掛かるなんて!本当にオレはどうかしていたんだ!後悔して復縁を願っても、それはまた智枝たちと子ども達を傷つけるだけの我儘なのかもしれない。何もかもがオレの我儘だったんだ・・・オレは自分が、心底恥ずかしい・・・」
「そうですか・・・また他の新しいオンナを探すより、智枝と復縁した方が手っ取り早かった、ってわけですか?」

俺はこの男の本音を引き出すためにわざと意地の悪いことを言って見せた。
この男の胸に強くて太い、自分では決して抜くことのできないほどの釘を指すために。
同じ「過ち」を絶対に繰り返さないために。
俺の代わりに智枝と子ども達を必ず「シアワセ」にすることを託すのだから。
だから俺はこの「元夫」の覚悟をこの目でしっかりと確かめる必要があった。


第83話

「違う!そんなつもりなんてあるもんか!オレは、オレは何度懺悔しても許されることのない『過ち』を犯したことに気がついたんだ。暫くの間、確かにオレは今までの自由を取り戻したかのようにオンナと一緒に遊んでいた。毎晩のように酒を飲み、そしてオンナとも、何不自由のない自由気ままな生活を送っていたんだ。自分勝手な生活だった。オレが智枝から離婚届けを無理やり受け取ったのは、そのオンナに『離婚して3か月過ぎたら私と結婚して欲しいの』とそのオンナが言ったんだ!オレはそのオンナを心の底から愛して、そして信じていた。その言葉も含めてすべてを・・・ところがどうだ、離婚して3か月経つ前に、突然そのオンナが言い出したんだ。オレは騙されて裏切られたよ。『もう他に好きな人ができたから私と別れて』って言われたんだ。本当に信じていた、そして気づいたんだ。愛していた人間に裏切られることが、相手をどれだけ傷つけるかと言うことに・・・オレは身も心も鋭い爪で引き裂かれたような気持ちになったよ・・・そして初めて本当の『孤独』と言うものを知ったんだ・・・身から出た錆だった・・・オレは、智枝と子ども達にこんなにも惨くて酷いことをしてきたのか・・・もう、自分自身の愚かさを呪うしかなかった・・・痛みと悲しみがオレの傷口をえぐり、そして悪戯に広げていく毎日が続いた・・・
キミの言う通り都合のいい話さ、オレはその日から『人間不信』になったよ。どう人々から目を逸らせても、いつもオレにはその人の言葉のすべてが『裏切り』という落とし穴にオレを突き落として嗤うんじゃないかって、そんなことばかりに怯え暮らしていたんだ。でもオレのことを愛してくれた人がたったひとりだけ、いや、3人もいたことに気づいたんだ!」
「それが智枝と子ども達だったって言うことですか?でも、それってムシがよすぎるんじゃないですか?本当にあなたのことを唯一愛してくれて信じてくれたのが智枝だけだったって言うあなたの言い分もわかりますけど・・・でもそれって、本心ですか?」

俺はこの父親が2度と同じ過ちを絶対に繰り返してしまわないように敢えて厳しく、そして何度も鋭い釘をその男の心臓に刺していった。その男自身では決して抜き取ることができないほどの大きくて鋭い釘を。最愛の智枝から俺自ら身を引いて、この「元夫」に智枝たちのすべてを託すのだから。智枝と子ども達のことを責任もって「シアワセ」にできる、してくれるように願いを込めて。敢えて俺は心を鬼にして「元旦那」を崖っぷちに追い詰めていくようにこの男の心臓めがけて太くて鋭い釘を刺していった。自分が犯した罪の重さと2度と同じ「過ち」を犯さないことを祈りながら・・・
 
だが男には俺の言わんとしていることがわからないらしい。白い能面のような顔になった。俺は智枝を愛している男として、そう簡単に目の前にいるこの男を許すことができなかったから、腕力による「暴力」ではなく、心が崩壊してしまうような悲しみと苦しみを与える言葉による「暴力」で、男をもう2度と同じ「過ち」を起こさせない崖っぷちまで追い詰めてやる必要があった。智枝が受けた苦しみと悲しみがどれだけ深く「孤独」の世界へと突き落としていったことを教えるために。こういったカタチで俺が本気で愛した智枝を、この身を引きちぎられるような思いで手放すことになるんだ。智枝と子どもたちの人生をこの男に任せることになるんだ。この男に「父親」としての自覚と、大事な「家族」を守っていくための「責任感」を、その心にもう一度植え付けてやるために。もう2度と同じ過ちを犯すことがないように、そう強く願いながら・・・
 でも、俺の言葉なんて、智枝がどれだけ苦しんみ、悲しんできた気持ちの米粒程度かもしれないけど。


第84話

智枝がこの男を許せないと言った理由は、まだ幼い自分のDNAを受け継いだ娘たちを吸い殻のように捨てていったと言うことだった。
「再犯」は絶対に許されることのない「極刑」へと向かう片道切符となる事をこの男に教えるために。俺は、智枝たちがまた同じことをされて泣く姿を想像するだけで怒りがこみ上げてきたけれど、俺は冷静になってその怒りを握り殺した。
 そのかわりに俺はこの男の心臓に何度もグサリとぶっとい釘を刺して、意地の悪いオトコを演じ続けた。智枝と子ども達が、いまさらどうしてそんなことを言うの?と言いたそうな顔をしていたけれど、同じ「男」だからわかることがあったから俺は心を鬼にして男に忠告した。もう許しを得ただろうと思っている男が納得のいかない顔で俺に言った。

「オレの本心・・・?それはいったいどういう意味だ?」
「もし、あなたが裏切られたオンナの他に、また別の都合がいいオンナがいたら・・・あなたは智枝の元に戻る気になりましたか?智枝なら自分のこと許してくれて簡単にモトサヤに戻れると思って、智枝のところに戻ってきたんじゃないんですか?」
「・・・・・・・」
 
上っ面だけはもっともなことを言っていた男にとって、俺の吐いた毒が身体中にしみ込んでいき、まさにムシの息になった。男は額に流れる汗をとめることができないでいた。
俺が吐いた毒は、やはり図星だったようだ。そんなことだろうと思ったよ・・・オトコなんてそんなもんさ、単純な生き物なんだよね、悲しいけれど・・・

男は何も言えないまま黙って床に視線を逸らしている。もはや言い訳の余地もないところだろう。
しょせん人間なんて新しい物を苦労して探すよりも、自分が扱いなれている楽な既存の物や安い物に手を伸ばすもんだ。恋愛もそう。遠くの本命より近くの適当なオンナの方に行ってしまう都合のいい生き物なんだから・・・オトコも、そして、オンナも・・・
だけど男の智枝たちに対する懺悔の気持ちは本物だったようだ。父親は男らしく、誤魔化すことなく正直にその胸の内を告白した。


第85話

「確かにそんな状況にいたら、近くに都合のいいオンナがいたらオレはそのオンナの元へ行っていたかもしれない。オレは弱い男だからキミの言うことになっていただろう。でも、その時にはもうオレの周りには適当なオンナたちの影すらなかった。だから、そのオンナに裏切られた瞬間に真っ先に智枝のことが頭に浮かんだんだ。でもオレはどんなに謝罪しても、自分が犯した罪に懺悔をしても、十字架にかけられても、智枝や子ども達からは決して許されることはないだろうと、そう思ったよ・・・」
「・・・そうですか・・・それで?」
「だから、それからオレは、すべてを失ったオレは、仕事に逃げ込んだんだ。何もかも忘れるようにがむしゃらに、必死になって働いた。もうオレには失うものなどなかった。ただ『孤独』に怯えながら生きてきたんだ。だからオレは赦しを求めるように智枝たちへの贖罪のことだけを考えてながら生きてきたんだ。いつかオレのことを許してもらえるように。胸を張って智枝に復縁の話ができる男になるように。そしてオレは自分の犯した『過ち』を自分で裁いていたんだ、今日まで・・・そうすれば、智枝からオレの犯した過ちを許してもらうことができたら、復縁することを許されたら、オレはその時こそ、この苦しみから解放されて自由の身になるだろう、そう考えながら智枝と子どもたちのために再び家族に戻れるように必死になって働いてきたんだ」
「それで、今になって自分の犯した罪が消えたから、智枝と子ども達に復縁を求めて会いに来たんですか?人って、自分が犯した罪を実際の罪の重さより軽視してしまうと思うんです。それって傲慢じゃないかな?あなたはもう自分がすべてに許されたと思ったから智枝に復縁を申し込んだんでしょ?そんなあなたに裏切られ傷つけて、毎日のように泣いていた智枝を見るに堪えられなかった小さな子どもたちは、大好きな両親が復縁するように頑張ってきた。ほんと、こんなまだ小学生なのにそこまで耐え続けるなんて、相当の覚悟と精神力が強くないとできないと思いますよ?いったい何があなたの贖罪になったんですか?」

 すると男は力強く立ち上がり智枝と子ども達を見つめた。
俺には男がどんな気持ちで必死になって智枝たちに罪を償ってきたか、痛いほどよくわかった。男のその瞳が純粋な光を完全に取り戻していることに気がついたから。
男はその口から魂を解き放つように話はじめた。
俺はその言葉に宿る「魂」を感じ取りながらその言葉を聞いていた。

「確かに自分で自分を許すことは虫のいいことかもしれない。でも聞いてくれ!自分に鞭うつように必死になって智枝たちに懺悔のつもりで必死になって働いてきた高卒のオレにやっと出世のチャンスが巡ってきたんだ!それはまるでオレの罪に対する赦しのように思えたんだ!だからオレはもう一度智枝や子ども達を幸せにすることを誓って、今日、智枝に復縁を申し込みにきたんだ!その証拠がこれなんだ!」

男と俺の視線がぶつかった!男がその魂を削る様に語っているのが俺にはよくわかった。男はスーツのポケットから古びた封筒を取り出すと智枝に見せながら言った。


第86話

「智枝、実は・・・オレとお前は『離婚』なんてしていないんだよ・・・たしかにオレはお前にこの離婚届に無理やり印鑑を押させた。そしてオレは新しいオンナに夢中になっていた。だから、こんな紙切れを役所に出すなんていつでもいいとそう思っていたんだ。でも、いざこの紙切れを役所に提出しに行くと、役所の入り口前で手足がすくんで、それから前に進むことが怖くてできなかったんだ。この紙切れを出してしまったら智枝と過ごした高校時代から結婚生活や子ども達の思い出まで捨てるような気がして・・・そしてもう2度と理絵や笑美にも会えなくなりそうで・・・そう考えるだけでこの古びた離婚届を役所に出すことがとても怖くて提出することができなかったんだ・・・99%は智枝との離婚をオレは本気で考えていた。だけど、たった1%の、今まで智枝と子ども達と過ごしてきた歳月を思うと紙を持つこの手が震えて、役所の扉に向かうはずの足まで震えてしまって、この『離婚届け』を出すことができなかったんだ・・・これを提出してしまったら、オレの身体からとても大切なものを自分で引きちぎってしまうような気がして・・・漠然とした不安だけれど、怖くて提出できなかったんだ・・・」

脆くか弱き者の美しき魂、それは命の摂理。

智枝と子ども達は俺がこの父親の胸の奥にある引き出しをあけていくのを、黙ったまま固唾を飲んで見守りながら聞いていた。
それはこの人間が目を逸らしたくても、決して逸らすことなどできない「真実」だから。
これを、俺は「告白」だと、そう思っている。生きてきた軌跡、それが「告白」だから。
その提出されたとばかり思っていた離婚届けを見るや否や、智枝はそれに飛びつくようにして夫の手から受け取ると、重箱の隅を突くような視線でそのしわくちゃになった離婚届を見回した。
それは確かに「あの日」自分に突きつけられて無理やり印鑑を押したものだった。
丸められた紙屑を広げたようにシワだらけになった「離婚届け」・・・
それを見ただけでどれだけこの夫がこの紙切れを役所に提出することを躊躇っていたのかがよくわかった。夫の言葉に嘘はなかった。
紙切れのところどころに点々としたシミがある。
それは役所前で提出するのを躊躇っていた夫の汗か?それとも涙か?
それはどちらかわからなかったけれども智枝が思ったことは、

(これはニセモノなんかじゃない!間違いなく、あの日のあの時、わたしがこの人に無理やり印鑑を押させた、もう2度と見ることはないと思っていた「離婚届け」だ!)


第87話

その緑色の紙切れ1枚の存在は法律的に智枝と夫はまだれっきとした「夫婦」であることの証明書そのものだった!
 切れ長の智枝の瞳からふたたび涙が溢れ出る!
今まで智枝はもう離婚が成立していたと思い、敢えて「苗字」を変えなかった。
それはまだ幼い理絵と笑美のためでもあった。
智枝はこの愛する娘たちが「片親」であること、つまりシングルマザーによって育てられていることが学校にバレて、イジメにあったりしないか?自分のせいで娘たちがそうなってしまうんじゃないかと言うことをなによりも恐れていた。幼い姉妹たちには何の罪もないのだから・・・
 自分と夫の失敗や「過ち」に、娘たちを巻き込みたくない!

そんな針の筵に座らされるような思いをさせたくなかったからだった。
理絵と笑美が中学生になった頃に、その呪縛とも思えた「苗字」を自分の「旧姓」に変えるつもりでいた。そして、理絵と笑美にケジメをつけるために父親とはとっくに離婚していたことを告白しようと考えていた。
 今、その智枝の計画が反故になり床に散乱している。
夫が目の前で離婚届を智枝の手から引き抜くと、その場でビリビリに破いてしまった。
牡丹雪のように床にひらひらと落ちていく無数の紙切れ。
智枝はしばらくの間フローリングの床に散らばった、その原型を失った紙切れの破片を見つめていた。

(こんな紙切れ1枚に、3年間も苦しみ続けていたなんて・・・バカみたい・・・)


第88話

「ねぇ、なんで?どうして今までこんな大事なことを話してくれなかったのよ!」
「だから、この前TDLに行った時に真面目な話があるんだと言っただろ?」
「そうじゃないでしょ?とっくの昔にオンナと別れていて、また家族4人でやり直したかったんでしょ?それなのに転勤が決まったからって、今すぐ家族に戻って一緒についてきてくれって言われても、わたしだけでなく子ども達にもここでの暮らしがあるんだよ?強引で一方的なんだよ。結婚も、離婚もそう、それで今になって一緒に北海道へ来てくれ!なんて・・・いつも大事なことは勝手に決めて、わたしには相談すらしてくれない・・・あなたが変わってくれないと・・・また同じことになりそうな気がするの・・・わたしのそんな不安な気持ちもわかるでしょ?子供じゃないんだから!それがわたしの唯一の不安なの、わかってくれる?これからは大事なことは自分で勝手に決めないで、きちんとわたしに話して相談してくれるって、そう約束してくれる?子ども達のためにも・・・」
「この離婚届をお前に何度もみせようとしたけれどいつもタイミングを逃していたんだ。情けないけれど。それにお前に話を持ち掛けようとするたび、お前は怒りで興奮してこのことを話そうとしていたオレを強く拒絶してまともにオレの話を聞いてくれる状態じゃなかったから、今日までお前にこの離婚届けのことを話せずにいたんだ・・・オレだってものすごく悩んださ・・・智枝が怒るのは当然だから。それもこのオレが原因なんだから。これをもっと早く智枝に許してもらえるまで何度でも謝罪してそして渡していればよかったんだ・・・」
「そう、だったんだ・・・そう言う意味では確かにわたしはあなたの話を聞こうともしなかったね・・・ごめんなさい・・・あなたがあなたなりに後悔していたことに気がつかなくて・・・」
「智枝、謝るのはお前じゃない。オレがすべて悪いんだから・・・もしかしたら、オレが離婚届を提出しに行くたびに身体中に脂汗をかきながら、区役所の前の扉に立つとオレの手足がまるでこれから処刑される罪人のように震えて今まで届けずにいたのは、もしかして今日のこの日のためなんじゃないか?と、今になって考えてみるとそう思えるんだ」
「それじゃただの優柔不断な臆病者じゃない!確かに真剣に話を切り出そうとしていたあなたを拒んだのは、わたしから理絵を笑美まで奪っていきそうで、それが怖かったの。理絵と笑美をあなたに渡すくらいなら、あなたと刺し違えてでも死んでやろうと思ってたんだよ?あなたはわたしを捨てた。でもね、わたしのことはどうでもよかったの。欲しいものやお金も必要なかったの。ただ、わたしから子ども達を奪い去ってしまいそうなあなたが、死神のように恐ろしかったの・・・だから、わたしが苦しみながら生きてきたのと同じように傷つきもがき苦しんで生きてきたと言うなら、わたしは何も言わずにあなたを許してあげられる・・・でもこれが最後になる事は絶対に忘れないで欲しいの。子どもたちのためにも・・・そしてまた1から信じてあげる。だから今度こそ家族4人でまた初めから幸せな家庭をつくろう?」
「・・・ありがとう、智枝!こんなオレを許してくれて・・・ありがとう・・・」

智枝と夫は何も語ることなくお互いの身体を抱きしめ合っていた。その夫の智枝の抱き方の方が、俺の智枝の抱きしめ方よりもしっくりと自然にみえた。それを見て嫉妬しなかったとは言うつもりはなかったけど・・・どこか寂しかった・・・
その男の汚れなき瞳と智枝が見つめ合うことができた時だった。智枝はその瞳の美しさに心打たれ、許されざる「過ち」を犯した罪人を完全に「赦す」ことができたようだ。
男の必死な訴え。それは「魂」が宿った嘘偽りのない純粋な言葉だったのだから。
それを人は「コトダマ」と言う。
同じ男として俺には男の訴えが心に響きわたり、そのすべてが「真実」となって聞こえた。

自分の傷口をさらに引き裂いて「真実」を伝える「告白」、今はそれがすべての理。


第89話

これで俺はやっと智枝とこの夫の復縁を自分のことのように嬉しくなることができて安堵した。もう俺が言うことは砂ほどの欠片もない。今のこの男なら誠実な気持ちで智枝たちを幸せにできるだろうとその瞳をみて確信したから。
「真実」と「告白」が互いに激しくぶつかり合い溶け合って融合していった姿・・・
罪を悔い改めた者にのみ許される「愛」の形・・・
俺を見つめる智枝の唇が震えている。その目に家族が揃ったことを喜ぶ涙とはまた違う切なくも悲しい涙を浮かべながら・・・
智枝と視線が重なった。俺に赦しを求めているようにも見えたし、男と復縁する自分を許してくれるかどうか?そんなことを俺に哀願しているかのような、そんな複雑な泣き顔をしている。俺はただ黙ってうなずいて智枝の決心と覚悟を受けいれた。

智枝、このまま復縁して俺を捨てても智枝には何にも罪はないから気にしないでいいんだよ。智枝はどちらを取っても決して「ウラギリモノ」ではないのだから。
最も苦しんで悲しかったのは、他でもない智枝自身だったんだから。
本当に今まで・・・3年もの間、その笑顔の下に「孤独」を抱えながら生きてこれたと思うよ。だから、俺のことは、気にしないで欲しい。
その判断は俺が口出しするもんじゃない。だってそれは智枝の人生なのだから。
俺は智枝が、俺か元旦那のどちらかをとっても、それは智枝の気持ちとして尊重する覚悟はできていた。ゲームのようなリセットボタンなんてものは初めからない。
今この一瞬こそが智枝の「真実」なのだから・・・


第90話

私は豊くんと一緒にこれから先を生きて行こうと決めていたのに・・・
今頃になってそんなこと言いだすなんてズルイよ・・・
こんな状況に追い込まれたら、わたし・・・わたしは・・・

智枝の本当の気持ちがはっきりとこの俺の身体全身に響き渡った。そうだ智枝!そうしたほうがいい!今ならまだやり直せる!また幸せな「家族」に戻れる時間は十分にある!そして、俺はあの時の智枝の言葉をもう一度胸の中で思い出した。

別に嫌いになって別れたわけじゃないからなぁ・・・

そう、智枝は暴力を振るわれてまでもまだこの「旦那」を愛しているんだ!
それは智枝自身のためではなく、子ども達の気持ちを母親として痛いほど痛感していたからだと思う。
それが智枝の心の奥底に潜みながらも自然にでた本心の「セリフ」だったんだ。
智枝はこの瞬間がくるのをずっと長い間待ち続けていたんだ!
だからあの時、無意識にもあんな台詞が自然とその唇からでてきたんだ!
それが智枝の嘘偽りなき純粋な気持ちなんだよ。

智枝が泣きながら俺を見つめている・・・
数秒の沈黙が何時間にも感じた。そして智枝の唇が、花びらが開くようにゆっくりと開いた。

「ごめんね・・・豊クン・・・わたし、やっぱりこの人についていくね・・・」
「うん、そうした方がいいよ。俺のことは気にしないでいいからさ」

俺はすでに覚悟はできていた。そして、こうなることを天に向かって手を伸ばすように求めていたんだ!
それは智枝と夫、家族揃って1からのやり直し・・・「シアワセ」を求める家族像に。
智枝はしゃがみ込むと、子どもたちの肩に手を置きながら、子どもたちを諭すように言った。

「ねぇ、もう一度だけ・・・パパのこと信じてもいいよね?信じてあげよう?ね?」
子どもたちは予想外の展開にお互い顔を見合わせてから言った。
「ママ、それでいいの?あのお兄ちゃんじゃなくて、ホントにパパでいいの?」
一瞬だけ子どもたちと視線が合った。俺はただ1度だけ頷いてみせた。
「またみんなで暮らそう?ね?」
そう言うと智枝は子どもたちを抱きしめた。子どもたちの気持ちももう決まっているようだ。俺はもうここに長居しちゃいけないと思って、静かに玄関に向かって振り向いた。その時智枝が、

「豊クン!待って!」

と俺を呼び止めた。俺は微笑みながら、

「『家族』全員元に戻ってよかったね!」

と心の底から喜んで言った。すると智枝は出窓に置いてあった小さな薄紫色の花が咲いている白い植木鉢を持ってきた。

「・・・これ・・・持って行って欲しいの・・・」

それはさっき公園でみたものと同じ花・・・「忘れな草」だった。


第91話

小さな植木鉢に咲いている小さな「忘れな草」・・・
それは離婚してからやっと築いた智枝と子ども達の小さなシアワセを鏡に写したような「忘れな草」だった・・・

「・・・ごめんね・・・こんなことになって・・・でも・・・キミといて本当に楽しかったし、本当にキミを愛していたんだよ・・・こんな酷いオンナだけど・・・わたしのこと、忘れないでいて欲しいの・・・だから、これを受け取って・・・?」
「うん、この花を智枝だと思って大事にするよ。智枝のことは俺も忘れないよ・・・」
「・・・ありがとう・・・突然こんなことになっちゃって、本当にごめんね・・・」
「これから家族4人で仲良くやっていくんだよ?」
俺は元通りになった「家族」に言った。
「もう2度と家族を泣かさないでください。約束してくれますか?」
「あぁ、もう間違いは犯さない!オレには智枝と子ども達が何よりも大切だと、毎日思ってここまで来たんだ!命をかけて愛する家族を誰よりも『シアワセ』にして見せる!それがオレの、この3年間の、この子たちへの償いだ!一生何があってもこの家族を守り抜く!」

男のその目にはまったく邪心がなく、曇っていた空が晴天になったように、純粋で真っ直ぐな瞳だった。この男の言葉に嘘偽りはない、と感じた俺はそっと男に右手を差し出した。 
男は大きく頷いて俺の右手を握った。俺も男も力強くお互いの手を握りしめた。
それは、「男と男の約束」として。
これから「家族」を大切にして「シアワセ」にしていくことの「約束」として・・・
そして、俺が愛した智枝を、そして子ども達を「シアワセ」にすることを、俺はこの父親に託した「証」でもあった。
俺は振り向いてしまうと悲しい気持ちになってしまいそうな気がしたから後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、智枝の声も何もかも振り切って、俺はそこから飛び出していった。
俺が智枝に「サヨナラ」さえも告げずに玄関を飛び出すと、4人の嬉し泣きが微かに聞こえた。その喜びに満ちた声は、しばらく俺の耳から離れることはなかった・・・

これでいいんだ、そう、これでいいんだ・・・

智枝が「シアワセ」になってくれれば、俺はそれだけでいいんだ・・・
俺はたった今失恋したばかりなのに、不思議と嬉しい気分になっていた。失恋してこんなに清々しい気持ちになるのは初めてだった。
気がつけば俺は恋愛にも完膚なきまでの「KO敗け」をしてしまったことに気がついたけれど、こんなにも気持ちがスッキリした「KO敗け」だったから、俺はこの恋愛に自ら幕を閉じて、恋愛もまた「再起」すればいいことだ!と自分に言い聞かせた。

たった2カ月間の間だったけど、とても濃密で訳アリの愛の時間だった。


第92話

智枝が俺に最後に教えてくれた小さな「忘れな草」が、梅雨入り前の優しい風に吹かれて、俺の手の中で「サヨナラ」と手を振るようにそっと揺れていた・・・
この智枝にもらった「忘れな草」は時期を過ぎれば枯れてしまうだろう。でも、あの日あの公園に咲いていたような「忘れな草」をどこかで見つけるたびに、俺は智枝との短くも「シアワセ」な時間を思い出して生きてゆくだろう・・・智枝の「シアワセ」を祈りながら・・・

その時、俺のスマホが勢いよく鳴り響いた!智枝じゃないことは確かだった。じゃ、誰からの電話だ?俺はなにかいい知らせの電話のような胸騒ぎがした。手に汗を握りスマホに耳を向けると、威勢のいいマネージャーの声が俺の鼓膜を突き破る様に飛んできた!

「おい阿部!お前の次の試合決まったぞ!次こそ勝って6回戦へ昇進だ!準備はいいか?」
「はいっ!俺ならいつでもOKです!次こそは必ず『KO』でぶっ飛ばしますよ!」
「よし!なら詳しい話はまたジムでな!」
「はい!連絡ありがとうございました!」

俺はスマホを持ったままジムにいるマネージャーに向かってお辞儀をしていた。
そして興奮を隠せない俺の身体から勢いよくエネルギーを振りまきながら飛び跳ねて喜んだ!再起戦は早くてもあと3か月後くらいだろうと思っていた、そんな俺の予想をマネージャーはいい意味で裏切ってくれた!マネージャーも会長やトレーナーたちと同じように俺が試合で勝つことに期待してくれている!
次の試合も職場の友達にぜひとも俺の試合をみてもらって「ボクシング」を楽しんでいってもらおう。そうなってもらうには、敗けは論外、苦戦もダメ!必ず派手なKO劇を見せなければ!前回の「敗戦」への汚名返上だ!もちろん試合中にもう絶対に油断したりなんかしない!そして俺は「世界」まで躓くこともなく一直線に走り抜けていくんだ!
次こそは、絶対に負けられない!この先も、絶対に負けられない!負けはもうこりごりだ!恋愛もボクシングも、このまま誰にも負けずにどこまでも突っ走って行ってやる!
俺は我慢できないでいる!今にも限界破裂しそうな胸の高鳴りに身をまかせて全速力でジムへと向かって走って行った!
智枝と交わしたあの日の約束、「ユビキリゲンマン」が果たせないことが唯一の心残りになるけれど、もうここから先は俺自身の自分との戦いだ!俺の血潮が沸点に達して身体中の筋肉が隆起するのが自分でもわかった!俺の身体ももう戦闘準備ができている証拠だった!
「勝利」に飢えた狼のように、俺はこれからも全速力で突っ走っていくんだ!
「世界」のてっぺん目指して、「世界チャンピオン」を目指して、俺はどこまでもどこまでも、決して躓いたり転んだりすることなく、あの眩しいスポットライトを浴びながら、レフェリーに俺の手を上げられるまで、俺はどこまでも突っ走っていかなきゃいけないんだ!誰のためでもない、そう、すべてはこの俺自身のために!


第93話 ~最終話~

6月も下旬になり、俺は毎日復帰戦へ向けて激しいトレーニングを一心不乱になってやっていた。練習後はジム仲間から、

「もう試合決まったんですか?」
「次は絶対に勝てるよ!」
「絶対応援しにいきますよ!」

そんなありがたい言葉が返ってくるようになった頃だった。練習を終えてジムから最寄り駅の五反田駅に向かう途中、珍しく俺のスマホが鳴った。

(誰からだろう?)

俺はスマホの画面に浮かぶ発信者の名前を見て狼狽えてしまった!まさか智枝から電話をかけてきてくれるなんて夢にも思わなかったから!それに、メールのような無機質な言葉の羅列じゃなくて、智枝の声を聴くことができるんだ!俺は今まで智枝と電話をしようとしたけれど、情けないことにその勇気がなかった。今は智枝がその俺にはなかった勇気を振り絞って俺に電話をしてきてくれている!俺はすぐさまスマホの画面をタップした!

「もしもし、智枝?」
「豊クン、久しぶりだね」
「あ、あぁ・・・久しぶりだね、電話、ありがとう。もう札幌には着いたの?」
「ううん、まだだよ。これから最終便の飛行機に乗るところなの・・・」
「そ、そうか・・・」
「あのね、豊クン・・・キミとちゃんと『サヨナラ』できなかったから、せめて飛行機に乗る前にきちんとキミに『サヨナラ』を言いたかったんだ・・・」

智枝との「サヨナラ」・・・それはもう2度と智枝と会えなくなる悲しい「サヨナラ」になるはずだ・・・せめて最後に一目でもいいから会って「サヨナラ」を告げたかった。智枝のあの明るい笑顔がすぐに思い浮かんだ。でも、もう俺の大好きなあの智枝の笑顔を見ることはないんだな・・・そう思うと悲しくて苦しくなった。

「これから、21時24分発の最終の飛行機に乗るの・・・」

俺はスマホの画面に浮かぶ時刻を見た。まだ1時間近くある。このまま飛行機が飛び立つまで、こうして智枝と話していたい、そう思った。

「わたしね・・・最後に、もう1度だけ、豊クンに会いたい・・・こんなわたしと今から会ってくれるかな・・・?それとも練習でクタクタかな?最後のお願い・・・キミに、もう1度だけ、最後に会いたいの・・・そして豊クンとちゃんと『サヨナラ』をして、札幌に行きたいの。わたしの最後のワガママとキミへのケジメ。聞いてくれるかな?」

智枝の声が涙で震えている・・・俺はもう一度時間を確認すると、まだじゅうぶん間に合うな、と思った。これが智枝に会う最後の「サヨナラ」だと思うと、俺は居ても経ってもいられなかった!

「わかった、智枝!俺も最後にもう1度だけでいいから智枝に会いたい!」
「えっ?いいの・・・?」
「当たり前だろ?こんなカタチで智枝と別れるのはイヤだよ!」
「うん、わたしも・・・空港まで来てくれるの?」
「あぁ、時間は問題ないよ、今すぐ行くから!」
「ありがとう・・・嬉しい・・・羽田空港駅の改札口で待ってるね?」
「わかった!今からすぐそっちに向かうから待っていてくれ!」
「ありがとう・・・やっぱりキミは優しいね・・・わたし、待ってるから・・・」

 智枝の泣き声が俺を呼んでいる!俺はスマホを片手に握り絞めながら全速力で智枝が待っていると言った京急羽田空港駅へと突っ走っていった!

智枝と最後の「サヨナラ」をするために・・・

                      

                           ~END~