さよならをする、ということ
こういうものは衝動で書かないと、途中で完成させることを諦めてしまう。これは今まで嫌というほど経験したことだ。というわけで色々あったので、唐突にnoteを登録し、唐突に初記事を書かんとしている。
初記事で、別れについて書くのはどうなのかとも思ったが、まあ私を知ってる人なら私らしいと思ってくれるだろう。文章がちょっと固めというか、あるアーティストさんによっているのは、自分の言葉で書くと精神が崩壊してしまうので、客観的にどんどん書いていくためである。読みにくいなと思った人は頁を閉じよう。別にみんなに読んでほしくて書いてる訳ではないからね。
さて、本題に戻る。 「さよならをする」ということについて。
私は「さよなら」という別れの存在が、3つの指に入るくらいには苦手だ。誰だって得意な訳がない、と考える人もいるかもしれない。でも、そんなこと私には知ったこっちゃない。だって、他の人になったことなんてないからね。もし、他の人にならなくても分かる、それが普通だって言い張る人がいるなら、ちゃんと数値化できる何かを用意して証明してほしい。そこの君、私に「普通」って言葉は禁句だよ。
(やっぱり一人称、僕に変えるわ)
僕は転勤族なので、たくさんのサヨナラを経験してきた。小学生から大学生までという期間で少なくとも500人くらいの友達とはサヨナラをしたように思う。この人数が多いかどうかなんて僕には分からないし、人と比較しようとも思わない。友達の定義もサヨナラの定義も曖昧なことに変わりはないのだから。
どんなサヨナラだってもちろん苦手なのだけど、中でも極めつけなのが、突然消えていくやつだ。何とは言わないけど。
月に2,3回くらい文通をしていた、とても仲が良い友達がいた。過去形だという点から君たちなら推測できるだろうけど、ある時相手から返事が来なくなる。忙しい時期なのかな?なにか大変なことでもあったのかな?と色々考える。そのうち、相手から手紙の返事がもう来ないことを悟ると、さらに色々悩むようになる。前回の手紙に何か傷つくようなこと、何か言ってはいけないようなことを書いてしまったのだろうか?実は相手に無理をさせていたことに気がつかないで文通を続けていたのだろうか?些細なものでもいいから相手の変化に、前回の手紙から何か読み取れなかったのか?僕が勝手に仲が良いと思っていただけで、相手にとって自分は大した存在ではなかったのだろうか?ってね。小6のときの話だよ。
年賀状でもそうだった。転勤族の僕にとって、年賀状はその人たちとの唯一の繋がりで、とても大切なやりとりだった。まあ僕らの年代からすれば、年賀状なんて今もやってる人なんて少ないし、だんだんとやりとりをする人がいなくなるのなんて当たり前のことなのに、僕はそれでもその繋がりに縋りたくて年賀状を出し続けたりもした。
最近なら、高校3年生の11月くらいのこと。同じ高校に、僕の唯一心許せる男友達と、その子と一番仲が良い男の子がいた。まあ、僕が特別仲が良いわけでもなかったけど、普通に毎日会ってお互いに冗談言い合うくらいの関係だったかな。普通に仲が良かったとは思う。その男の子が、ある日から突然学校に来なくなった。その前日まで普通にふざけあったりして、一緒に帰っていたのにも関わらず、急に。来なくなった原因が入試関係だったのか、それ以外だったのか、僕にはいまだに全く見当がつかないし、それを知る由もないのだけれど。まあ、その子と一番仲が良かった僕の友達も何にも知らなかったのだから、僕なんかが知るわけもない。そう思ってる一方で、いや反対にそんなに仲が良すぎない適当な関係だった僕こそ、成績とか志望校とかがその友達グループの中でダントツでビリだった僕こそ、何か変化に気がついてあげられる側にいたんじゃないのかな、なんて今更すぎることを後悔したりもした。周りの人は、数日間はLINEを送っていたらしいけど、その後は諦めて放置するようになった。そのうちその子の話は禁句みたいになって、話題にも出てこなくなって、自分のことじゃないのに僕はとても悲しくなってた、勝手にね。僕はそういうの諦めきれないたちで、1月に年賀状の作ったはんこの画像を送って、「はんこ作ったの!見て!」みたいなLINEを送ったりもした。もちろん、返信どころか既読もつくことなんてなかったよ。日課のように、既読がついたりしないかなって確認していて、なんなら未だにたまに開いたりしてるなんてね、笑えるよね。
これ以外にもいくつかの突然のサヨナラがあって、色々と思い返してはみたものの、どれに関しても1人で勝手に気にしてるから意外と詳しく覚えているものだ。
さて、ここまで読んでくれた暇人なんていないだろうと思うけど。もしそんな変わった暇人がいたとしたら、中にはこんなことを思った人がいるかもしれない。流石に気にしすぎじゃない?人に対してそんなに依存する?みたいな感じでね。知らんけど。いや、僕だってなんでこんなに気にしてるんだろうって思うことはある。というか、思うことしかないんだけど。これにはしっかりと理由がある。
僕は親に褒められた経験が一度もない。初めて褒めてくれた存在は小学生の先生だった。(家庭が崩壊してる話はまた機会があるときにでもしようか。)そういえば、小さい時に親に褒められた経験がないと自己肯定感が異常なほど低いらしいね。僕は小さい時から自分に強いコンプレックスを持っていて、自分に自信が全くなかったからこそ多分他の人以上に人恋しかったんだと思う。友達を作って仲良くしていることで初めて、自分自身を肯定できる気がしていた。その結果、色々あって人に対してとても依存するようになってしまった。うん、この話は長くなりそうだから、今日はここら辺で終わりにしておこうか。
とにかく僕は、人に依存することでしか自分の存在を認められない人間なので「さよなら」というものがとても苦手だ。特に突然消えていかれるものに関しては、自分の勝手な負の想像が止まらない、止める方法を知らないから、ずっと考えて考えて考えて自分の中に想像の記憶を植えつけてしまう。だから僕は、突然消えていってしまうようなさよならが本当に得意ではない。
ある人は、そんなに気負うなよって言ってくれる。
ある人は、絶対に君のせいなんかじゃないから、責任なんて感じなくていいよって言ってくれる。
でも、そんなことを言われたところで、気にしなくなれるんだったら最初から気にしてなんかいない。これは仕方がないことなんだ。だって、小学生の頃からやり続けてることなんだからね。だから、僕はこれからも急にサヨナラをした人たちのことを考えて悩んで生きていくし、ずっと引きずり続けるんだろう。これに関してはもう長い付き合いだ、割り切れている。
割り切れているけど、本当にしんどいことに変わりはない。だから、突然消えたりしないでね。せめて、何か言ってから消えてね。そんなことを人と出会うたびに考えたりしてる。
別れといえば、この曲よ。大人になっていく君、何かを忘れていこうとする君にもう一回聞いてほしい。一輪草の花言葉は「追憶」。