ハイドンと「弟子」
今年2020年は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)が生まれて250周年だということで、クラシック業界はベートーヴェンにまつわるイベントで賑わっています。
そんなベートーヴェンやモーツァルト(1756-91)にいつも影を潜めてしまいがちで、演奏機会もさほど多くない、同じ時代の作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)。短期間ではありましたが、ハイドンはベートーヴェンの先生だったのです。ベートーヴェンの先生は一体ベートーヴェンに何を教えたのでしょう...?
ハイドン
オーストリアの田舎(ローラウという、ハンガリーとの国境すれすれに位置する村)で生まれたハイドン。紆余曲折を経て最終的にエステルハージ家の宮廷音楽家、楽長として曲を量産しまくります。
特に交響曲と弦楽四重奏曲、ピアノソナタの分野においての功績はとても大きく、多くの作曲家がその影響を受けました。
サラリーマン音楽家として長年働いたのち、イギリス人の興行師ザロモンの招きでロンドンへ演奏旅行に行きます。演奏会自体は成功したのですが、それ以上に初めての海を渡る経験をしたハイドンの受けた刺激は計り知れませんでした。
ロンドンで聞いたヘンデルのメサイア...「僕もこんな曲を書いてみたい」と言って書いたのはオラトリオ「四季」「天地創造」。
さらにロンドンでよく耳にした旋律...そう、イギリスの国歌の存在です。「神よ、王を護りたまえ」という、イギリスを象徴する曲を存在を知るや否や、「我々の国にはそんな曲はない...」と言って書いたのが「神よ、皇帝フランツを護りたまえ」でした。現在でもドイツ国歌として歌われています。
モーツァルトの精神を、ハイドンの手から
いうまでもなくハイドンはベートーヴェンの師匠でした。しかし、その出来事は様々な奇遇によって結び付けられた縁だったのです。
1787年、ボン(ドイツ西部)出身のベートーヴェンはモーツァルトに師事すべくウィーンへ赴きましたが、自身の母が危篤だとの知らせを受け取り、実家へ戻ります。しかしその間にモーツァルトが亡くなったことによって、モーツァルト門下で作曲の勉強をする夢は叶いませんでした。
ベートーヴェン、17歳のことです。
すっかり意気消沈していたベートーヴェンですが、転機が訪れます。
1792年7月、ちょうどハイドン(60歳)がボンに滞在していた際、ベートーヴェン(21歳)は彼に面会します。そして自分の作品を見せたのです。
これまでの事情をベートーヴェンが話したのかはわかりませんが、ハイドンは「僕のところで勉強しないか」と提案し、弟子入りすることになりました。
1792年11月、ハイドンとの面会からたった4ヶ月しか経っていませんが、ベートーヴェンはウィーンへ赴きます。その際に、昔からベートーヴェンのパトロンだったワルトシュタイン伯爵が彼にこう書き送りました。
「ベートーヴェン君よ!
君は夢を叶えるために、ウィーンへ行くのだ!モーツァルトの精神をハイドンの手から受け取ってくるのだ、いってらっしゃい!」
Max Braubach: Die Stammbücher Beethovens und der Babette Koch. 1970.
ワルトシュタイン伯爵からベートーヴェンへ書き送られた手紙 (1792年)
ワルトシュタインは、「モーツァルトと親交のあったハイドンなのだから、きっと学ぶことはあるはず」ということで背中を押しました。ハイドンはモーツァルトと親交を結んでおり、何通もの手紙が残されています。それだけでなく、お互いに弦楽四重奏曲を送り合っていたのです。
この2人の関係も大変面白いのですが、それはまた別の記事で...
さて、ハイドンの門下に入ったベートーヴェンですが、その師弟関係はあまりうまくいきませんでした。
1791-2年、1794-5年はハイドンがロンドンへ演奏旅行で大変忙しい時期だったため、ベートーヴェンのために時間を割いてあげられなかったのです。
ハイドンから出された課題も「どうせ僕の課題を見てくれる時間なんてないだろう」と半分も手をつけませんでした。しかしハイドンは、それでもなんとかベートーヴェンの力になりたい、と自らベートーヴェンに生活費を支援し、ボン宮廷にもベートーヴェンへ奨学金を仕立てるよう頼んでいたのです。
亀裂?
ハイドンは自らの忙しさから、ヨハン・ゲオルグ・アルブレヒツベルガー(1736-1809)で学ぶことを勧めます。アルブレヒツベルガーはハイドンと同世代、かつ同じ方言を喋る者同士で仲がよかったそうです。(当時のオーストリア大公国は広大だったため、首都に住んでいてもたくさんの方言や言語が混在していました)
当時まだ22歳だったベートーヴェンは早々にハイドンを離れ、別の先生の元で勉強を続けることにしたのです。まぁ、22歳なんて大体トガってますからね…笑
アルブレヒツベルガーからは対位法の基礎を学びました。そしてベートーヴェンの残した最後のレッスンのメモにはこう記されていました。
我慢すること、熱心であること、頑張ること、正直であること、これらが成功へ導いてくれる。
Geduld, Fleiß, Ausdauer und Aufrichtigkeit wird zum Erfolg führen
自分の忙しさのあまりベートーヴェンにレッスンができなかったことを引け目に思っていたハイドンは、アルブレヒツベルガーへ「ベートーヴェンをしっかり面倒を見てやってくれ。」としっかりフォローも忘れませんでした。
ぎくしゃくしつつも、ハイドンとベートーヴェンの関係は続きます。
ハイドンは、1795年8月にリヒノフスキー邸(ハイドンとベートーヴェン共通のパトロンの家)で行われたベートーヴェンのピアノ三重奏曲 作品1 (全3曲)の初演に出席しました。そこでハイドンは終演後、ベートーヴェンのお気に入りであったピアノ三重奏曲第3番 ハ短調 に対して、「これは絶対出版しないほうがいい」と批判的なコメントをしたそうです。ベートーヴェンは人にコメントを求めることが多く、しかもいつも正直なコメントを欲していたそうです。ハイドンもそれに対して渋々答えたと言われています。痛烈なコメントをもらったベートーヴェンでしたが、次作のピアノソナタ 作品2 (全3曲) は「今度こそは」と言わんばかりに、ハイドンに捧げられたのです。
天地創造とプロメテウスの創造
ハイドンとベートーヴェンは、その後も何度か顔を合わせることがあったそうです。その記録の一つに、1801年にベートーヴェンが「プロメテウスの創造」を初演した次の日にハイドンと道でばったり会ったというものがあります。ハイドンは「昨日君の作品を聴いたよ。とてもよかった。」と評し、ベートーヴェンもそれに対して「本当ですか、ありがとうございます! 先生の書いた "天地創造" にはほど遠い作品かもしれませんが...。」との会話を交わしたそうで、ハイドンは結局「僕も自分の "天地創造" が本当にその名に値するのか分からないよ」と返したそうです。このような具体的な記録は今ひとつ信憑性に欠けますが、しかしウィーンという小規模の街に住んでいれば出会すこともあったでしょう。
ハイドン先生の誕生会
1808年3月27日のことです。ウィーン大学の大ホールにて、76歳になるハイドンの誕生日会が開かれ、祝賀演奏会が行われました。そこにはエステルハージ伯爵夫人など上流階級の人々が集められ、ハイドンのオラトリオ「天地創造」が演奏されました。指揮者はサリエリ(この人もベートーヴェンの先生でした..!)、コンサートマイスターの席には、1807年にベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を初演したフランツ・クレメントが座ったのです。
演奏後、サリエリは指揮台から降り、ハイドンと抱擁しました。そこですかさずベートーヴェンが舞台近くまでやって来て、ハイドンの前にひざまずき、彼の手へキスをしました。ベートーヴェンの目は潤んでいたそう。これほどにもない敬意の表れです。
(ハイドンの祝賀会の様子)
ハイドン亡き後もベートーヴェンは自分のメモ帳にこう書き記しています。
「私の部屋にはヘンデル、バッハ、グルック、モーツァルト、そしてハイドンの肖像画がある。彼らは私が求める忍耐力を得る大きな手助けになる。」
(1814年)
チェックメイト ~回想~
そしてこんな話もあります。
ベートーヴェンは1802年に難聴が悪化し、ハイリゲンシュタットにて遺書を書きます。32歳、これからウィーンで頑張っていこうと決めたベートーヴェンにとってはあまりに絶望だったに違いありません。結局彼は生きるという道を選びましたが、人とのコミュニケーションを取れなくなってしまいました。(遺書内にも、「私は社交的で人と話すこと、ゲラゲラ笑うのが大好きなのに、それもできなくなってしまった」と書いています)
そこで彼が人とコミュニケーションをとるのに大きく役立ったのが、チェスでした。ベートーヴェンは居酒屋に毎日のように入り浸りながら、地元の常連さんとチェスを嗜んでいたそうですが、このチェスはハイドンから教わったものだったのです。言葉を交わさなくてもチェスを介してのコミュニケーションはベートーヴェンにとって大きなツールだったに違いないでしょう。
そしてベートーヴェンが亡くなった1827年。まだ病床に臥せていたベートーヴェン(56歳)を見舞ったディアベッリは、ベートーヴェンを元気付けるためにあるものをプレゼントします。
ハイドンの生家が描かれたリトグラフ(版画のようなもの)でした。さすが、出版社としても腕を奮っていたディアベッリならではのプレゼントです。
ディアベッリの帰宅後、さらに見舞いにきた友人(シュテファン・フォン・ブロイニング)とその息子(ゲルハルト・ブロイニング)にプレゼントを見せながら、こう話しました。
見て、今日こんなものをもらったんだ。
この小さい家...こんなところから偉大な男が生まれたんだよ...!
Sieh, das habe ich heute bekommen. Sieh mal das kleine Haus! Und darin ward ein so großer Mann geboren.
この出来事から数週間後にベートーヴェンは息を引き取りました。
ベートーヴェンの死を悼んだ多くのウィーン市民が、彼の葬儀へ駆けつけました。その数約2万人。当時のウィーン市内の人口は5万人でした。もちろん周囲は大混乱だったようで、近隣の学校も臨時休校になったそうです。
こうして大作曲家の名にふさわしい生涯を遂げたベートーヴェンですが、このような結末を誰が予想していたでしょうか...
さて、最後にベートーヴェンが22歳だった頃に戻ります。ハイドンはボンの選帝侯にこう書き送りました。そして、それは現実となったのです...もちろんベートーヴェンの知る由もない手紙の中で。
ベートーヴェンはヨーロッパ最大の音楽家になる。
(1793年11月)
そう、紛れもなくハイドンは弟子の未来をしっかりと予言していました。弟子だった期間はたった1年だったにも関わらずこんな言葉を書いてしまい、多忙の合間でのレッスンではチェスをしていた(かもしれない)ハイドン。
もうベートーヴェンに教えることはない、ともしかすると高を括っていたのかもしれません。
大井駿
参考文献
Braubach, Max (1970): Die Stammbücher Beethovens und der Babette Koch.
Caeyers, Jan (2012): Beethoven Der einsame Revolutionär. C.H.Beck.
Wiener Allgemeine Musik-Zeitung (No. 39, 1846)
青木やよひ (2018): ベートーヴェンの生涯. 平凡社.
小林雄一郎編 (1957): ベートーヴェン 音楽ノート. 岩波文庫