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障害者であるということを考える:映画「パーフェクトレボリューション」から

脳性まひの身体障害者と、パーソナリティ障害の精神障害者のラブストーリー(と形容するのがいいのかな)だけれども、ラブストーリー以外の要素もたくさんあります。
障害と本人が付き合っていくことの大変さ。
家族はじめ、その周りの人の大変さ。
障害者に対する意識、目線、無意識的・意識的考え方。(支援者含むごく近くにいる人でさえ、同情でしか動かなかったりする)

まず一番に、この映画は、観る人の視点によって評価や共感どころがかなり分かれると思いました。
以下の私の感想は一当事者としてのものとします。

途中は、描写が粗いというか、いわゆる「障害者」に対するステレオタイプを押し付けられるような表現が多くてちょっとイヤでした。
ステレオタイプをステレオタイプだと決めつけることが、ステレオタイプを産むこともあると思うし。

でも、

「障害は私たちのためにあるんだよ!」

最後の最後のこの一言だけが響きました。
なぜだかはうまく言えないけど、多分そういう風に思いたい自分がいるからかもしれません。

一応の当事者として言うならば、私たちはどのように生まれるか選ぶことはできません。
(私の場合(双極性障害ⅱ型:精神障害)は、先天性か後天性かは分からないけど、発症しやすい体質が遺伝した可能性はある)
主人公も言ってたけど、障害者になるということは低い確率なのに、起こってしまった。
それに対して主人公は、「手も足も出ないから、受け入れるのは得意だと思うんだよね」と言います。
この考え方に至るには、障害者という自覚を持って生きた年数や周りとの関係性にもよるかもしれません。

私は、多分まだ自分の障害ことを受け入れきれていない。病気であることは納得しているけど、それが障害と呼ぶべきものなのか、自分は障害者なのか、正直なところ考えというか認識が固まっていません。

それは、障害の重い軽いということではなくて、(それもあるかもしれないけど)、「障害者」であるという自覚がどのようなものなのかわからないからなんじゃないかと思っています。
ただ確実に、私は自分の生活に困難がある実感はあるし、しかもそれは頑張っても解決しないだろうことも認識しています。

良い例えではないかもしれないけど、徹夜と遊びすぎは躁転しやすいからダメだとわかってるけど、なんだかんだしてしまう。
大丈夫だって思っちゃうから。その時(躁の時)は元気で、あぁ回復してるのかもしれないと思うから。
だけどその後高確率で鬱になって、生きてることに対する罪悪感ばっかりになって、さらにうまく動けなくなる。その繰り返し。
本当は大丈夫だと思ってる時も大丈夫じゃない。それも病気のサイン。
伝わらないかもしれないけど、本当にもどかしいんですよ。

ある友人は遺伝性の病気があって、でも常日頃自分の子どもが欲しいと言っていて。
自分の子どもに遺伝したらどう思うの?と聞いたら、「自分の子どもに同じ病気が起こっても、それでも生きている自分の背中を見せるしかない。そのために生きてる。」と言いました。
一方で、自分の遺伝子は残すべきではない、と、心の底では思ってることも言っていました。
私より自分で自分の病気を受け入れてると思ったけど、負い目は消えてない。

障害者だったら結婚できないのか、子どもは持つべきでないのか。
それはわからない。
当事者一人一人の答えでしかない。
一般論なんてない。

と、思いたい。

「そんなのできっこない」が今の世間一般的な認識というか、無意識の感覚なのかもしれない。
私自身もそう思ってしまうくらいだから。(より正確にはしたいけどするべきではない、に近いけど)

でも、今はもはや「世間一般的」なものとは何なのかがわからない世間に、だんだんとなってきていると感じている。(自分の周りにおいてだけかもしれないけど)
もしかしたら今現在の「世間一般的」な意見を持ってる人がいつか「古風である」というマイノリティになることもあるかもしれない。

当事者、家族、支援者、関係者から、そういうものとは関係のない人までのグラデーションの中で認識も様々なのはしょうがない。
だけど、それが少しでも「気楽なもの」あるいは「カジュアルなもの」になればいいなと、自分自身の価値観の見直しも込めて、思ったりする。

キリがないのでここまで。

#映画 #パーフェクトレボリューション #障害 #価値観

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