Hanaへの道のり
〜ものがたり編〜
Hanaへの道のり
Hanaこと三角 由恵の事を少し書いてみたいと思います。
1974年9月生まれの49歳
愛知県西尾市のとある寺の娘
4人兄弟の3番目(次女)
幼少期に弟が亡くなり実質的末っ子として生きる
現在は夫と3人の娘(19、15、13歳)+2匹
もともと私は頑固で正義感溢れて、でもずるさも気の小ささもある子だったと思う。
今でも内側の部分には気が弱い小さな自分もいる。←それはもともと携えて来たものだからあってオッケー👌
そんな私は元々運動神経はあまり良くなくてもっぱら音楽に親しんで来た。
ピアノ、マーチングバンド、オーケストラ、ブラスバンドなど。
見た目と言動は体育会系なんだけどね。
小中学校ではそこそこ勉強も出来てクラス委員とかやってだけど、高校で落ちこぼれ部活に打ち込む3年間。大学も浪人か!?って思ったけどなんとか引っかかり横浜の大学へと進学。
ちょうど大学受験の時に実家のお寺の大改装と祖母の病気&他界とバタバタだったな。
初めての1人暮らしと大好きだった祖母の他界。
入学式がちょうどお葬式と重なり大学の入学式には出席していない。
引越しも1人で全部やった。
携帯もない頃だったから、近くに何があるのかもわからず初日から大変だったな。
この引越しの日に、あーこれから本当に1人なんだな。もう家族みんなで暮らすことは一生無いんだ。そんな事を思ったのを今でも覚えている。
あの時、18歳の私は何かを覚悟したんだと思う。
もちろん、都会での大学生活はとても楽しくて色々遊びすぎて勉強がヤバくなった事もあるぐらいは普通に生きてたけど。
そして私は大学1年の4月に今の旦那さんと出会い6月には付き合い始め10年の年月を経て結婚した。あー、もう30年超えている。
これは本当に最近はっきりわかって事だけど、彼をパートナーにすることはこの地球に降りる時に既に決めて来たんだ。私1人では出来ない何かの為に。
ということは、私があの大学に合格したのは、興味も無かったスキーサークルに友達に誘われて入部した事も全部予定通りって事だ。薄々わかってたけどね。
そもそも学部だって今になるとなぜそれを選んだ?って思う時あるもんな。
そんな私がなぜ今こうなったのか?ここまでの人生ではそんな感じは無かった。まあ、寺の娘だったのでお経が読めたり小さい頃の愛読書がブッダやひろさちやの仏教漫画だったりしたけどね。尼さんになって寺を継ぎたいって思った事もあったなぁ。
私がこの世界へ足を踏み入れた大きなきっかけはやはり父の病気だ。
元々、心臓が悪く身体が強いいタイプの人では無かった父。
父は私が大学生の頃から段々と弱っていき脳梗塞や心筋梗塞を繰り返していた。
自分の事もままならなくなって来た父、ちょうどその時母は更年期。実家は本当に大変だったようだ。
私は1人離れて暮らしていたのでその実感はあまりない。
ただ、母親から就職せずに戻って来てほしいと言われ、卒業後介護のために家に戻った。その時の私はと言えば就職難でもあった為心の中ではちょっとホッとしてたのもある。あの大変な就職活動しなくて良いんだって。
実家に帰ると介護とリハビリと寺の手伝いとバイト。そんな日々だった。
ちょうどその頃介護保険も始まり、父は始めての認定で要介護5。まだ60代だった。
父との日々を過ごす中、自分のこれからの人生への不安は日に日に大きくなっていった。それと父が受けているリハビリに対しての疑問。自分ではもう自由に体も動かせず、言葉も思考もままならない父がこのリハビリを受けて一体どれだけ回復するんだろう?こんなんで良いの?と。
私に何か出来ないだろうか。
私は諦めたく無かったんだと思う。
もう一度父が自分の脚で立って歩いて欲しい。
でも今の私には何もしてあげられない。
そんな想いが溢れ出て来て、近所の整体院でマッサージを習い、それでは飽き足らず大きな決断をして私は整体師になる事を決めた。
いくつか学校を探したが、なぜだか決めたのは神奈川県大和市の道場みたいな学校。そこは治療院も併設していて実践しながら学べ、学ぶ期間も融通が利く。
でも一番の決め手は院長先生だった。
長嶋茂雄のようなニュアンスだけの話し方🤣、ハッキリは言わないけど「気」も使ってた。人間的には素晴らしいとは言い難いがとても愛嬌があって情に溢れていて、今でも私の尊敬する人物だ。
整体を学ぶ前後から私はスピリチュアルと呼ばれるものに出会い、船井幸雄さんや斎藤一人さん、小林正観さんなども読み漁った。レイキを習得し、スピリチュアルの学びにものめり込んで行った。
この頃の私は今で言うふわふわスピリチュアルな人だったと思う。
それだけ現実が辛かったのもあるが。
卒業後は実家の一室で整体院を開業しながらスピリチュアルの学びも深めていった。
それは結婚して3人目の子供を産むころまで続いた。そう、かなり長い間私は彷徨い続けていた。
そんな私がいつの頃からかカラダからの声が聴こえるようになり、身体の声を聴いて仕事をしている整体師さんの本に出会い自分の聴こえているものがカラダからの声で、これってやって良いんだって許可が出た。
ここから私のタイワヒトとしての人生が動いたんだと思う。
自分の事は自分に聴く。それに従う。
ちょうどその頃、子宮の声を聴くってのも流行り出していてなんだか背中を押された気もした。
整体をしながらカラダの声を伝えるようになって行き、だんだんと肉体を触らなくなり対面セッションへと変化していった。
タイワ講座という名でカラダの声を聴き自分と仲良くなる。という事を教え始めた。
この頃から講師としての仕事が始まっていった。
タイワだけでなく、経血コントロールや性教育、F☆PanWSなどなど。
元来おしゃべりで声が大きいのが功を奏したと今でも思っている。
ただ、とても人見知りで気も小さいからかなりのストレスではあったと思う。
講師の仕事をやりはじめた頃からどんどんと太って行き、ピーク時は10キロ増だったな。数年前に急に炭水化物が食べられなくなりその10キロは戻りましたが🤣
今は加齢&ハードな働き方で疲労してますが、あの時はエネルギーの使い方も上手くなく人への気遣いなどでエネルギー消耗していたんだろう。
タイワ講座も順調に進み、タイワヒト養成もしていた頃にある出会いでまた私は大きな一歩を進んだ。
その出会いとタイミングで感カードというものがこの世に誕生し、その少し後に相方となるSeiと出会った。
今思えば、Seiとはお互いがそれぞれの人生を自力で歩んで来たからこそ出会えたんだと思う。どこかで自分の人生を諦めていたら2人は出会わなかっただろう。
感カードを通して出会った2人タッグを組み、2人の意味は何なのだろう?という疑問を解決して行きながら今がある。
1人でも立って行けるが2人である必要。
今ならわかる。
これは人間として生まれてくるもっともっと前からSeiとHanaは地球の為に(銀河の為に)動いていた。
今回は人間の身体を携えて一緒にミッションを遂行する。と決めて来た。
今はその道の半ば。
まだまだこの先がある。
最初は期間限定の2人組だと思っていたが、実はそうでは無かった。
だから今、私たち2人は「輝命」として会社を作り、世界に人々に貢献し牽引していく。
覚悟を決めたんだ。
私Hanaは強くもあり、弱くもある。
感情の起伏も激しいし、1人の人間としては不完全だろう。
でも、このミッションを遂行するにはこの私じゃなきゃならなかったんだ。と今は腹に落ちている。
この先どんな未来が待っているのか、私たちのミッションは本当に成功するのか。
それはまだわからない。
でもやると決めて来たから、やり遂げる。
ただそれだけなんだ。