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ランニングマシン上のサバンナ

携帯の類はジム内は持ち込み禁止なので、どうすることもできない。

90分は長い。
長すぎる。

 というわけで、私はしかたなく旅行のパンフレットを持ち込み、マシンに乗っている間、それをめくりながら歩き続ける。


 時速5キロで、ちょっと競歩の手前ぐらいで、90分間。
 ただ、ひたすら。

 いつかは行くチベットやアフリカやバルカン半島やアマゾン奥地のために、体力を地味につけるためだけに。
 もしかしたら、ウェディングドレスを着るかもしれないし、高齢出産をするかもしれない未来にむけて。

 やはり90分は長い。
 ちょっと考えても長すぎるし、深く考えてもやっぱり長い。
 

 私はただ、歩き続ける。

 ときどき、ランナーズハイのような無心で晴れ晴れした瞬間がやってくるが、1分もしないうちに、去っていく。
 
 また、退屈な時間がやってくる。

 ひたすら歩くことに、あきれて、仕方なく私は旅行会社のパンフレットをめくりだす。

 ヒマラヤをハイキングするという値段も標高も距離も信じられない数字を叩き出しているページに目が釘付けになり、マシンから落ちそうになる。

 慌てて、ページを閉じる。

 BCがヒマラヤ山脈を登山する人たちにとって、「ベースキャンプ」と読むということが頭にインストールされるころには、ため息まじりに、もっとゆるいコースを探すようになる。

 以前足を運んだインドの奥地の5000メートルで高山病になり、一歩も歩けなくなった身だ。
 高地がトラウマになり、7000メートルという標高の数字を見ただけで、めまいがする。

 後悔がはじまる。
 なぜ、こんな「世界の山旅」という秘境をこえて異境のパンフを持ってきてしまったのか。


 ヒマラヤは神の域だ。
 凡人の踏み入って許される場所ではない。。

 私はため息をついて、ページをめくる。
 いい感じの冒険先が特集されていた。

 アフリカ南部。
 ナミビアのナミブ砂漠。
 パンフレットには、見開きの片側A4の上半分を使った広大な砂漠の景色が広がっている。


 黄土色の砂丘が、地平線までつづき、直立する砂漠の足下には平原が連なっている。
 私は目を閉じた。
 
 つい先日足を運んだ、ラダックの荒涼としつつも、すがすがしい大気を思い出す。
 心をナミブ砂漠に飛ばす。
 大気の温度、湿気。におい。
 太陽の強さ。砂の舞い上がる速度。風。
 今、私が立っているのはアフリカの最果ての砂漠であり、間違っても人間ハムスターのたむろする北関東の場末のジムではない。
 
 目をとじ、まぶたにさきほどの写真を焼きつけて、心をナミブに飛ばす。
 深呼吸をする。

 いつか、ナミブ砂漠に降り立ったとき、私は今日この瞬間のことを思いだすだろう。

 妄想が解け目をあけると、液晶テレビ画面があり、電源の落ちた黒い画面に人間ハムスターの一部となってひたすらマシン上を歩いている私が写っている。
 
 ここは、ナミブではなかった。

 ため息をついて、また、ひたすら歩くことになる。

 しばらくぼんやりと歩いていると、私の左側のマシンに若い男性が乗ってきた。
 彼は二十代半ばから後半くらいで、少し歩くと、時速八キロから十キロぐらいで猛烈に走りだした。
 けっこう全速力だ。
 「メレンゲの気持ち」を見ているが、それでもスピードはあがっている。

 軽やかな足取りに余裕が感じられる。
 私もつられて、スピードボタンを押しそうになるが、慌てて自粛する。
 私が走りだすのは、1ヶ月後だ。
 筋肉がついて、走りたくてたまらないという状態までじらしてから、ランニングに移るのだ。

 私は目をとじて、またナミブの砂漠を想像した。
 しかし、左となりで軽快に走る音が耳に響いて、自分が今、サバンナを走っているような気がしてくる。
 そう、サバンナを走っているというのもいい。
 たとえば、ライオンを従えて。


 
 まぶたの裏にサバンナが広がった。
 短い草の広がる草原に、低木の木々。
 地平線までひろがる広大なステップに風が舞う。
 私の隣には若々しいライオンが颯爽と風を切って従っている。
 たてがみはまだ短く、雄々しくも若い獅子だ。


 
 ああ、こんなライオンとだったら、地平線までつづく耐久サバンナも悪くない。
 足取りが急に軽くなる。
 私はそのライオンとステップを駆け抜けた。

 20分後、再び私は自分がマシン上でハムスターとなっていたことを思い知らされる。
 
 若いライオン役の彼が颯爽とマシンを下りてしまったのだ。

 私のランニングマシンのタイマーはあと三十分も残っている。

 私はまた退屈で死にそうな思いでマシンの上を歩き続けた。

 五分ほど経ったころ、今度は右隣のマシーンに壮年のおっさんが乗ってきた。

 角刈りにするどい目つきの50代ぐらいのそのおっさんは、背は高くないが、筋肉質。

 やくざか丸暴の刑事のように、鋭すぎる目と猫科の大型獣を連想させる前のめりの姿勢が気質とは一線を画している。

 おっさんの目は温厚さとはほど遠く、暗い炎が宿っている・・・・・・ように見える。

 プロだ。

 だが、この手のタイプは女こどもにはめちぇめちゃやさしいはずだ。
 と、私はかってな解釈を加えて、サバンナにもどる。

 このおっさんは、ライオンにたとえると、中堅以上、大将クラスにふさわしい。
 周囲に向かって落ち着いたベテランのオーラを惜しげもなく放っている。


 
 大将クラスのライオンとサバンナハイキングの始まりだ。
 これはこれで、また若手ライオンとは違った魅力がある。
 おっさんライオンを従えてのサバンナ。

 それは、ひとことで言えば安定感だ。
 危険なサバンナも彼一人が私の周囲360度の殺気を感知してくれ、私は歩くことに徹することができる。
 言ってみれば、完璧な護衛と歩いているような感じだ。
 私ははまるでお姫様気分だ。

 若手のライオンは友人兼護衛のような感じ。
 おっさんライオンは安心感の安定感がある将軍のオーラ。

 

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