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進化論のハードコア 生命の樹【進化論】


現代進化論の基盤になっているのはダーウィン流進化論です(以下単に進化論)。

では進化論は進化に関して何をどう論じているのか。以下二つの説の組み合わせとして理解することができます。

一つは「生命の樹(tree of life)」説(または共通先祖仮説)
一つは「自然選択(natural selection)」説(または自然然淘汰仮説)

この記事では生命の樹仮説について扱います。


■ 生命の樹(tree of life)説 

生命の樹説とは、生命の起源に関して「すべての生命は単一ないし少数の種から分かれて進化してきた」と主張する仮説です。

要はすべての生命には共通先祖がいるという話ですが、ではその共通先祖は単一なのか、それとも少数だが複数なのか。この点を区別するために生命の樹説はさらに強い形式と弱い形式に分けられます。

強い形式:すべての生命は単一の種から分かれて進化してきた
弱い形式:すべての生命は少数の種から分かれて進化してきた

進化生学では、「すべての生命は単一の種から分かれて進化してきた」という強い形式の方が支持を得ているようです。この記事では以下、「強い生命の樹説」と呼びます。

強い生命の説が正しいということはつまり、人間、チンパンジー、ゴリラ、ウシ、スズメはもちろん、昆虫、植物、菌類、微生物も含めた全生命が単一の共通先祖を持った類縁です。「人類みなきょうだい」でさえラディカルな主張ですが、巨視的にみれば全生命みなきょうだいというわけです。ただし全体としてみると、きょうだい仲はよくなさそう。


■ 強い生命の樹説の根拠

強い生命の樹説の標準的な証拠の一つは「わずかな例外を除き、全生命の遺伝コードが普遍的かつ恣意的である」という遺伝学上の事実です。

どういうことか。

現存する全生命の遺伝コードが普遍的であるならば、その事実は共通先祖説を示唆します。しかしこれだけでは先祖が単一とは限りません。遺伝コードを異にするさまざまな種類の先祖が存在するのだが、現存の遺伝コードへと変異できたものだけが生き残ったのかもしれません。現存の遺伝コードに何かしら際立った長所があったために収斂がおきたというわけです。

しかし遺伝コードに恣意性もあったならどうでしょう。恣意性があるとは別の遺伝コードをとろうが生き残り上は有利でも不利でもないということです。だとすれば遺伝コードを異にする複数の先祖がいた場合、その先祖たちの遺伝コードもそのまま現在の生命に伝わってきたはず。現在でも異なる遺伝コードをもつ生命たちが多数共生していてしかるべきです。だが実際はそうではなくてすべての生物が同一の遺伝コードを使っている。ゆえに全生命の先祖は単一だろうということになります。

そして事実として全生命の遺伝コードは普遍的かつ恣意的なのです。専門的内容なので専門家の本から引用します。

エリオット・ソーバー 2009年
「この問いに答えるために用いられる標準的な証拠の一つに、遺伝コードが(ほぼ)普遍的なことがある。これは、地球上の全生物がDNARNAを基盤としているという事実ではない。むしろそれは、アミノ酸を作るときのDNAのらせん構造の用いられ方に関係する。アミノ酸はタンパク質(すなわち、発生におけるよりマクロな生成物)の構成要素である。メッセンジャーRNAは四つのヌクレオチド(アデニン(Adenine)、シトシン(Cytosine)、グアニン(Guanine)、ウラシル(Uracil)の配列からなる。
 種々のヌクレオチドのトリプンット(コドン)は、異なるアミノ酸をコードする。例えば、UUUはフェニルアラニンをコードし、AUAはイソロイシンをコードし、GCUはアラエンをコードする。わずかな例外を除けば、全生物が同じコードを使用する。これは、地球上の全生物が類縁関係にあるという証拠として解釈される。
 生物学者は、このコードは恣意的(arbitrary)であると考えている。つまり、与えられたコドンがあるアミノ酸をコードし、別のアミノ酸をコードしないことに対する機能的な理由は存在しない(Crick 1968)。」

エリオット・ソーバー著 松本俊吉、網谷祐一、森元良太訳『進化論の射程』春秋社 2009年 82頁

以下の記述も同趣旨のものです。

リチャード・ドーキンス 2016年
「ドーキンス すべての生物は、進化によって同じところから発生してきた親類であると言えます。
 これまで確認されているすべての生物は同じDNAコードを使っているので、多かれ少なかれお互いに親類であるといえるわけです。もし誰かがまったく異なる仕組みの遺伝コードを持った、バクテリアに似た生物を発見すれば、それらはほかの生物とは無関係に独自に進化してきたと言うことができるでしょう。ですが今のところ、われわれはすべて同じ祖先から由来してきているようです。」

リチャード・ドーキンス著 吉成真由美訳『進化とは何か』早川書房 2016年 240頁



■ 人類はバラになれる?

ドーキンスによると、人間は原理的にいえばバラに進化でききます。なぜなら生命の樹説が正しいからです。われわれが進化してきた順序を逆向きに進化していきバラと人類との共通先祖のところでストップ。そこからバラが辿ってきた進化の筋道を辿ればバラへの進化完了です。

リチャード・ドーキンス 2016年
「ドーキンス 言い換えれば、思いどおりの特性を生み出すことができるかということですが、原則的には可能だと思います。
 人々は途方もない話だと思うでしょうから、あまり受けのいい答えではないのですが、ある意味当たり前のことでもあります。
 さらに極端な例を考えてみましょうか。飛ぶことのできる人類の子孫を生み出せるか。われわれとコウモリとは共通の祖先を持っています。もし進化を逆向きにさかのぼって、共通の祖先まで行き、それからコウモリのほうに進んでいけば、原則としてコウモリになることさえ可能です。あくまで原則としてですが、進化の空間を通る道筋があるはずです。進化の空間を通って人間からバラの花にいたる道筋さえあるはず。ただその場合、彼女はもはや女性ではなくなってしまうでしょう。では女性と呼べる存在でありながら、かつバラの香りがする人間を生み出すことは可能か。可能だと思いますが、試してみないと確実なことは言えません。」

リチャード・ドーキンス著 吉成真由美訳『進化とは何か』早川書房 2016年 238-239頁


さらに極論してみましょう。人類が原初の生命まで遡る形で進化してそこから再スタートをするならば、いままで実際に存在してきた生命のどれにだって進化できる可能性はありますね。

原初の生命には星の数に勝るほど進化の可能性があったわけですが、その中でも現に生じてきた生命のすべてについては「実在可能性があった」ということが実際に誕生してきた事実をもって裏付けられてきたのですから。

うーむ。くらくらするほどのスケール感ですな。

他方で「バラの香りのする女性」は未だ実在したことがないので進化によってたどり着くことは不可能かもしれないと。このアンバランス感もいいですね。バラだけに……










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