「私のたった一票」の無意味と意味を考える【選挙】
1 一票をめぐる事実
「あなたの一票で政治が変わる」
という嘘がある。
嘘でよかったと安堵すべきだろう。この言葉が真実だとしたなら、責任は極大、「あなた」はとんだ独裁者である。私だっておちおち投票していられない。
「あなたの一票で政治が変わることもごく稀にありえる」なら事実を言っている。市区町村の議会議員選挙においては、一票差で決着がつくケースや、票差がゼロとなりくじ引きで当落が決まるケースも存在する。
しかし、自分の市区町村における選挙がこうしたレアケースに該当する可能性は低い。国政選挙において一票差で当落が決まることはなおさら考えにくい。よって、一票差で決着するケースの存在は、私の一票に価値があることを説明しない。
とはいえ、見落としてはいけない重要な事実が二つあると思っている。
◆個人的合理性で考えるものではない
一つは、選挙行動の合理性は、個人単位で考えるべきではないということ。
みなが個人単位で合理的な行動をすることが、かえって全体の合理性を損なってしまうことはしばしばある。各人が合理的に自己利益を追求することが市場の失敗に繋がるようなもの。
投票行動についても似たようなことが言えるだろう。合理的に考えるならば、誰をとったとしても、その人一人が投票に行くことで政治は変わらない。しかし全員が合理的な行動をとったならば、誰も投票を行わないことになってしまう。
こうなれば全員に不合理に目をつむってもらう必要がある。おそらく選挙とは個人単位での合理性を棚上げにしてもらうことで、はじめて機能する制度なのである。
なんでそんな無駄な苦労を自分が……と思うかもしれないが、選挙に限らず、政治の場面で重要なのは、自己利益からは距離をとって考えることだ。
そもそも国家が存在するべき理由は、市場において各々が自己利益を追求し合うだけでは、市場の失敗や人権の抑圧、侵略的な他国に対する無力等々の不都合が起きるからである。だから国会議員は「全国民の代表」(憲法第43条)であると書いてある。現実の有様はともかく、あるべき姿で言うなら、国会議員は利益団体の代表ではない。国民も全国民の利益を代表できるような人間を選ばねばならない。
一票を投じることは、適切な投票先を選ぶことと並んで、個人的な合理性ではなく、公益を考えて成すべきことなのである。
そういえば、以前読んだ本で、選挙で一票を投じることが利他的行為に数えられていて、納得したのを思い出した。
一票を投じることは自己利益に照らして合理的であるという言説(例:自分のためにも投票に行こう)よりもずっと素直で納得できる見解だと思った。
◆左右できるのは複数票
見落とすべきでないもう一つの事実は、私たちが左右できるのは一票だけではないということ。
同票や一票差の選挙はほとんどないが、数票差や数十票差、数百票差くらいならそれなりにある。私の「一票」で政治が変わるとは言えずとも、私の「政治行動」で政治が変わることならば、ありえはするといってよさそうである。
私たちには、行動や言論によって他者を説得する自由、説得される自由が与えられている。そして繰り返すが、一人が投票できるのは一票であるものの、一人が左右できるのは複数票なのだ。自身の見解に自信があるのなら、より多くの票を動かすために、堂々と政治活動を行うべきである。
「一人一票」も、趣旨に遡って捉えたい。「一人一票」と聞くだけでは、「一票」の少なさに目がいってしまうが、数ではなく「皆が対等」「皆が同票」にこそ眼目がある。すなわち、あなたの政治的見解も、私の政治的見解も投票所においては等しい割合で尊重されるということ。目立ちたがりのおしゃべり屋だからといって、恥ずかしがり屋より票をもつわけではない。金持ちも貧乏人も関係がない。各人は「同じ票数」をもっている。
各々の最終判断が平等に尊重されるのを前提として、私たちは他者を説得しにかかってよいし、説得されてもよいのである。「一票の格差」が問題視されるのも、「投票所において、各々の政治的見解は等しく尊重される」という政治観に真っ向から対立する事態だからといえよう。
政治においては、政治行動・言論活動こそが主たる武器である。政治的アリーナは公園、街頭、図書館、書店、SNSなど広範にわたり、市民は全員が参加者であることが期待されている。アリーナ内の闘技自体が貧弱であれば、よき統治は望めない。
投票所はジャッジルームというべき場所である。アリーナでの闘技に参戦・観戦した上で、誰が勝者であるべきかをみんなで決めるのだ。
……という理屈が正論なのだろうと私は理解している。少なくとも机上の論理としては筋が通っているのではなかろうか。
任意投票制の根底には、各々は自身のためにではなく、よき統治を実現するためにこそ積極的に政治活動を行うはずだという前提があるのだろう。
この前提が正しいのであれば、同等に尊重される市民間での切磋琢磨がよりよい統治を実現していくというシナリオにも説得力がでてくる。
ところが、現実をみるに、市民たちの中には「自身の一票の影響力」という自分事について思い悩んでいる者がけっこういるようだ。それに議員の役割は利益誘導だと信じている者までいる。これは任意投票制自体が、市民の公共心や公の制度に対する理解度に対して期待をしすぎていたということだと思う。
ここでは詳述はしないが、私は義務投票制にするのも悪くはないと考えている。もっとも、義務投票制がそんなに素晴らしい制度だとも思っていないが。
2 一票に関する政治的言説
「あなたの一票で政治は変わらない」という事実がある。
単に事実である。
しかし事実を強調した上でSNSなどで「多数に発信」してしまうと、受信者の投票意欲を低下させ、多数の票を棄権票にしてしまいかねない。事実を言っただけのはずが、言外の意味をもってしまうわけだ。
「一票で政治は変わらない」という言論活動が棄権を増やしてしまう理由は、受け手に言葉の裏を読ませるからだと思う。
「一票の影響力は極小だ」という事実は、もともと誰でも知っている(ですよね?)。しかし、わざわざ言及されると、「なぜそんな当たり前のことを言うのか」と、言外の意味が気になってしまう。
私はそんなことも分からない馬鹿者だとみなされているのか? 政治に関わるのは悪いことなのか? 他人はみな自分本位で動いているのに私だけ公共心を滾らせて浮いているのか? みんなが一票を無価値と考えているのなら、私だって投票に行かなくていいのではないか?
これは募金を行った人に、「あなたはお金を失っているよ」と伝えることに似ているかもしれない。こうした場合、言葉の裏を読む方が普通である。
(対して学問の場においてならどうか。学問においては「変に気をつかって言葉の裏を読むことの方が有害だ」という観念が十分に共有されているはずだから、一票の価値・無価値について存分に語ればよいと思う。)
もっとも、実際の発言者の動機はさまざまだろう。邪な動機や、冷笑の気持ちが含まれていることもあるのだろうが、一つには、「あなたの一票で政治が変わる」という公然たる嘘への拒否感・不快感もあるだろう。その感覚に由来しているならば私も共感する。
けれども、「あなたの一票で政治は変わらない」という事実を吹聴することは図らずも政治性を帯びてしまう場合があるので、やはり発信の仕方には注意すべきだろう。黙って一票を投じないこと(=棄権)と、一票は無意味だと強調し発信すること(政治活動)とでは種類も影響も異なることは自覚されるべきである。
結論。
私にとっては、
「一票の虚しさを全員が我慢することではじめて成り立つのが選挙なんだから務めを果たそうぜ」とか、
「政治は一票なんかで変わらない。変えたいなら大勢を巻き込んで、様々なルートを駆使して頑張ろうぜ」とか、
それくらいの温度感がちょうどよい。
ちなみに、私は投票を欠かさないようにしてきた。
もちろん一票で政治が変わると信じてきたからではない(なお棄権した人間は政治に口出しすべきではない、などとも思っていない)。
単純に、合理的には説明できない義務感に突き動かされてきたのである。「何はともあれ選挙には当然行くべきである」という思考停止的刷り込み教育による成果だろう。そして、この義務感について不満はもってこなかったし、今ももっていない。
とはいえ、われながら何も考えていないなと反省したので、こんな記事を書いてみたところである。
余談
久々に記事をあげてみた。書きたいもののアイディア自体はだいぶ溜まっている(自由意志、心理学、倫理学、その他)。なんとか記事にできるところまでもっていきたい。