マーロウにサヨナラを
このご時世、路地裏に転がる別に死体なんて珍しくない。
それは誰でも知っているし勿論俺も知っている。何しろこの一週間で三体の死体を見たんだ。こんなことは日常茶飯事だ。前の戦争で世界中の大都市が破壊された中、奇跡的に破壊を逃れた数少ない都市のひとつ『ニューサンジェルス』には日々世界中から多くの人間が入り込み、同じぐらいの数の人間が死んでいく。だからこれぐらいがちょうどいい。
俺もいつか、この都市でくそったれな死に方をするだろう。例えばゴミだらけの路地裏とか、底の見えない海の中とかそこらへんで。俺はこの都市で生まれ、この都市で育ち、この都市で大人になった。だから俺がこの都市で死ぬことは、人間同士で争うことと同じぐらい当然のことだ。
死が怖いかって? ――怖くないといえば嘘になる。が、死は人生でおきる避けられない悪趣味なイベントの1つでしか過ぎない。ま、これは誰かの受け売りだが。実際、科学技術が発展して体のほとんどの部位を義体かできるようになっても、電脳世界にダイブできるようになっても、死は平等に訪れる。それに、死んでしまえば当人にとっては終わり。後のことは生者にまかせて気楽なものだ。
だが、目の前で寝ている死体は、そうは思っていないタイプの死体だった。光の消えた眼はこれでもかというほど見開き虚空を睨んでいる。この世の不幸をすべて背負ったような、信じられない不幸が身に降り注いだような、そんな表情をしている。
おおかた何も知らない余所者がこの都市で夜のアクティビティを楽しもうとしていたのだろう。結果、ハメを外しすぎてトラブルを起こしてしまったか、変質者の的にされてしまったか。
死体から視線を外し、懐から古き良きの紙タバコを取り出して、火をつけて、口に持っていき、フィルターを通過した煙を吸い込んだ。深く、深く。そして空を仰いで長く息を吐く。白い煙が、裏路地にも等間隔で設置されている蛍光灯の光を反射させながら天にのぼっていく。
この蛍光灯は裏路地での犯罪を抑止する効果があるからと数年前に設置されたものだ。相変わらず上のマヌケ共は物事の本質を何一つ理解していない。いや、はなっから爪の先っぽ程度も理解する気がないんだろう。これも政治のためのアピールだ。俺たちには何も関係ない。ただ、暗闇が死体を隠せなくなったというだけの話だ。
俺はまだ長いタバコを、死体の脇に置いた。この都市の人間からのお土産だ。天国だか地獄にでも持っていってくれ。そうすれば閻魔とかいうやつの心象も少しは良くなるんじゃないか?
俺は死体をまたぎ、先へ進む。一緒におねんねしたいところだが、俺にはまだやることが両手の指の数以上あるんだ。失礼するよ。良い夜を。
~~
あのロッソン軍曹の店〈ブラボー8リメンバー〉の前には、良く言えば古き良き、悪く言えばただただ時代遅れの[PUB]と書かれた立体映像もQRコードも付いていない、古臭いガラスの中に封じ込められたネオンが弱々しい光を放っていた。店のドア脇には、酔いつぶれた男が1ラウンドノックアウトされたように壁にもたれかかっていた。口から大きないびきが発せられ辺りに響き渡る。ゴミバケツを漁っていた野良ネズミがいびきにビクッと反応して慌てて隠れた。俺の他にオーディエンスがいないことを除けば、そこら中にあふれている安酒場と変わらない風景だった。
ドアを押して中に入る。チリンチリンとこれまた古臭いベルの音がなる。この店を訪れるたびに、この店は俺のことをノスタルジーで押し殺そうとしているのではないかと勘ぐる。過去を巡ってもいい事なんてなにひとつ無かったはずなのだが。
店内に入りドアを閉めてあたりを見渡す。木製カウンター席は五席。どれも空いている。カウンターの向こうでは軍曹が静かにコップを拭いている。カウンターとは反対側には木製のテーブル席は四セット。そのうち二セットは埋まっていて、ひとつには二人組の男が仲良さそうに自分たちの世界に入って、もう片方にはラジオヘッド野郎がテーブルに突っ伏している。酔いつぶれたか、電脳世界にジャックインしているかのどちらかだろう。
俺はカウンター席の左から数えて二番目に座る。座り心地も昔と変わっていなかった。パットン軍曹が俺に気付き、思いもかけないところで絶滅危惧種を見たような表情を浮かべた。といってももうこの世界に絶滅危惧種なんてものはいないが。
俺は頷いてからケミカルホップ液を注文する。軍曹は黙って俺の前にケミカルホップ液のジョッキを置く。俺は代金を机の上に置き、ジョッキを手に持ち一口飲んだ。舌に柔らかい苦味が広がり炭酸が心地よく弾ける。昔飲んだのと同じ味だ。それほど遠くないがそこまで新しくもないあの頃。泥臭い戦争が終わり、なにか大事な物を無くしたが、ソレが何かわからず、空っぽの状態で生きていたあの頃の。軍曹の左腕が比較的新し目の義手になっていること意外は何も変わっていない。この店も、俺も――。
もう一口酒を仰いだ時、軍曹が話しかけてきた。
「――よお、ジョニー。久しぶりだな。元気にしてたか……」
「ボチボチですよ。軍曹こそどうですか……」
「軍曹はやめろ。俺はもうお前の上官じゃないんだ」
「だとしても俺からしたら軍曹は軍曹ですよ。まあ、どうしても嫌と言うんでしたら、パットンさん呼びますけど?」
「ああ、そうしてくれ。――それにしても久しぶりだな。一年ぶりぐらいか? 顔も見せねえで何してたんだ?」
「あっちでちょこちょこ、こっちでちょこちょこって感じです。直近ではチバシティで仕事をしてました」
「ほう、あそこらへんはまだ景気が良いらしいしな」
「いやぁ、今はどこも不景気ですよ。まんまと報酬を値切られてしまいました」
そこで会話が途切れた。タイミングよく二人組が追加注文をし、軍曹が対応しにいった。俺は一息に酒を飲み干し、ふと思い出して右側を見た。そこ――中央の席――には、いつもいるはずの男がいなかった。その男がいた形跡もなかった。軍曹が戻ってきたので俺は同じ酒を注文した。先ほどと同じ動作で軍曹は酒を作ってくれた。俺は酒を一口なめてから訊ねた。
「今日はマーロウは来ていないんですか……」
「……そうか、聞いてないのか。――マーロウは死んだよ。たしか半年ぐらい前だったか」
俺はジョッキを上げる手を止めて軍曹を穴が空くほど見つめた。おそらく彼には俺が首を絞められた雄鶏のように見えただろう。軍曹は何も言わなかった。1分ほど経過したところで目が痛くなったので目を閉じた。テーブル席の方から小さな笑い声が聞こえた。
マーロウ。俺達と共に戦争を戦い生き抜いた男。ハードボイルドを愛し、自分もハードボイルド足ろうとしていた男。女と酒を愛し、それ以上に友情を愛した男。そして俺の命を救った男。
マーロウは死んだ。軍曹のセリフが脳内でリフレインしていた。
~~
俺はニューサンジェルスポートの防波堤の先に立ち、紙タバコをゆっくりとくゆらせながら、暗闇のコートをまとった海の上でゆったり動く船の小さな光をぼんやりと眺めていた。
ここは、夜でも眠ることのないニューサンジェルスの喧騒が一切届かない貴重な場所だ。もし街の騒がしさや眩しさに疲れたのならばここに来ればいい。波が防波堤と叩く音と、ドブや魚の死骸や発光色に光るケミカル薬剤などから発せられる街中とはまた違った複雑な匂いが歓迎してくれる。運が良ければ、同じように静寂を求めて逃げてきたホットなベイブとの運命的な出会いがあるかもしれない。
俺はここではないが、一度だけ似たような場所で運命的な出会いをしたことがある。――その女は、俺の目の前で”ごめんなさい”とつぶやいた後に、口から血を勢いよく吹き出して死んだ。上層にある噴水のように勢いよく噴きだされた鮮やかな朱色は、まだ俺の脳にこびりついている。簡単に説明すると、その女はドラッグ中毒者だった。この街でもドラッグとアルコール、そして愛は地獄への特急券だ。長生きしたければ覚えておいたほうがいい。
闇の中で、海があるはずの場所を十分ほど見ていたがすぐに飽きがきた。代わりに人が老いる何倍ものスピードで短くなる紙タバコをじっと見つめた。暗闇の中に浮かぶ小さな赤い火。指先をほのかに照らす光からは優しい熱を感じ、俺が確かに生きていることを思い出させる。順当に行けば、タバコの命は後五分ほどあるだろう。
まだ半分ほど残っていた紙タバコを指ではじいた。紙タバコは暗闇の中、カートゥーンコミックに出てくるネズミのしっぽのような軌道をえがいて飛んでいき、そして赤い火が海に飲み込まれて消えた。自分以外の誰かの気まぐれでいとも簡単に――。この街の人間の命のように。
ショルダーバッグから手探りで小さな鉄箱を取り出した。〈ブラボー8リメンバー〉でロッソン軍曹から託されたものだ。この中にはマーロウの識別ICチップと右親指が入っている。だが、俺はソレに何かを感じることはなかった。ただのゴミが入った鉄箱にしか思えなかった。ゴミにすらなれない奴らが大勢いることを考えると、マーロウは幸運だったのかもしれないと思った。せめて苦しまずに逝ったのであってほしいとも思った。
ひときわ大きな波が防波堤にぶつかり、飛び上がった海水が俺の足を濡らした。
鉄箱を持った右手を大きく振りかぶり、溜めを作ってから鉄箱をできる限り遠くへ飛ぶように投げ捨てた。それほど遠くないところでポチャンと音がなった。友よ、安らかに眠れ。
サイバーグラスの暗視装置をオンにして、海に落ちないように注意しながら防波堤を後にする。どこかから渋い声のサンタ・ルチアが聞こえてきた。俺はこの歌が嫌いになった。