コーチングしなきゃいけないのにと悩むスクラムマスターだった自分に向けて
こんなことをふと思ったのが始まり
そう思ってたな。
とふと思ったのが始まりです。
その時は、「問いにより答えに導く」という振る舞いがしっくりこず、
答えを誘発する質問をすることに四苦八苦していた気がします。
それまでのリーダーやマネージャーのような立場から支持をする、指導するといった立場で接する経験はありました。
しかし、したこともされたこともない「コーチング」の文脈でスクラムマスターとして振る舞う必要があると学んだ時の1つの壁だった気がします。
今の自分の感覚値
明確なタイミングやきっかけはわからないものの、今は自分にストレスになる程、答えを誘発する質問をすることはありません。
私が狙った答えを回答者に発言させるなんてそんなエスパーなことはもう・・・しません!
むしろ、
「コーチングにも「教育する」という概念があるから、教えていいんだよ!!」
という自分になりました
スクラムマスターのコーチングってこんな風に思われている気がする
答えを教えてはいけない
開発チームが?自己組織化をするためには、スクラムマスターは答えを教えることは御法度で・・・失敗させ、気づかせ学ばせてこそ存在価値があるのだー!というような何か
問いを投げて答えに導かなければいけない
自ら考えさせるためには、単純に答えを教えてはならず、コーチたるもの質問を駆使して答えに到達するように誘導しなければいけないのだー!というような何か
これが、私が「スクラムマスターはコーチングでチームを自己組織化する」な話で感じていた感覚値です。
スクラムマスターのスタンス
コーチであることがフォーカスされますが、スクラムマスターやアジャイルコーチのスタンスとして分解されているものがあります。
自分との距離感:自分も主体 相手が主体
教育度合い:自分が考える 相手が考える
による分解や下記に表すような分解でコーチングのスタンスを語ったものがあります。
https://dandypeople.com/blog/agile-coaching-in-a-nutshell/
上記のように関与度や結果責任次第で(全部は書きませんが)
コーチ
ファシリテーター
ティーチャー
メンター
といった振る舞いに変わります。
「教えていいのかも」の感覚値のなぜ
単純に「解決してあげちゃう」だけだとそれは相手の経験値にならない気がするので・・・好ましくはない振る舞いな気がします。
しかし、教育の意味での考え方や課題の解き方を教えることは、問題がないように思います。
私自身には模範解答があり、一度解いたことのある問題であればそれを解いてあげてもいいと思います。
そして、その思考の過程を教育してあげる必要があると思います。
教育してもいいと思う理由は他にも・・・もしかしたら、そもそもメンバーの引き出しにないかもしれないものを無理やりコーチング?問い詰め?で引き出そうとしても出てこないこともあるんじゃないかという学びがあったからです。
自分が観測している状態での一定の解決策とその解答までの道のりを教育をしたらいいのです。
しかし、私(スクラムマスター)が出した解答が唯一無二の正解かは分かりません。答えだけは実は簡単に出るものかもしれません。
なので、その背景にある「なぜその解決策に自分達で辿り着かなかったか」はコーチとして共感し理解する必要があると思います。
そこには、メンバーにしか辿り着けない、感情的な部分や空気感や背景・状況が存在しています。
そこを問いかけ共感することで、課題の本質に辿り着いていく必要が私(スクラムマスター)にはある気がします。
とはいえ、明らかに何度も同じ課題にぶつかっているなら・・・それは問いにより導くことも必要かもしれないですね。
これは見ていて辛い!と思うこと
過去の自分が陥ったかもしれない状態なのですが
問いただすこと
ハメる会話で気づかせること
はスクラムチームでの関係性に悪影響があるので良くないな・・・と経験しました。
1はスクラムマスターには見えているのに一向に答えを教えないでいる事です。された方は試され評価されてるように感じると思います。
2は特にどんな状況背景でもわざと失敗させる、もしくは明らかに見てみぬふりをしてそのあとで「私は知っていた」と伝えることなどだと思います。何度も注意を無視しているなどならまだしも、どのケースでも失敗させられるとそりゃやだろうなと・・・。
まとめ
「コーチングをしなければいけない!」という「未経験だけどなんとなく想像がつくアクション」により、悶々とした日々を送られている人もいると思います。
コーチングという具体的な行動や振る舞いが定義されたことにより起こるものだと思います。
そこを強く意識しすぎることはないと思います。
コーチングをしなければいけないというよりも
(私がどこまでできているかはさておき)答えは一見簡単に見える課題も、その背後にある本質的な課題の探究を忘れないこと
課題に直面している主体の人たちに寄り添い共感すること
自分の中の答えに囚われず、自分の価値観を手放し、相手がそこに至った正しさを受け止めること
それを実践すると、結果的に相手が主体となった動きになると思います。