語彙力の無いオタクは悪なのかについて
本題入る前に最近の近況報告です。
最近のツナ缶はTwitterではなるべくポジティブなことを言おうと心がけているので、賢ぶった言い方や強い言葉、毒のある言葉、喧嘩を売るようなネタをしないようにしている。
Twitterで他のそういうの見るとなんとなく嫌な気持ちになるからなるべく言わないようにしようってのもあるけど、吐き出し口を塞いでモヤモヤするのを分かった上であえて自分に枷をつけるような真似したのは、文章の表現力をつけるためです。
ぶっちゃけるとそういう誰かを傷つけることを躊躇わない言い方をすれば誰かしらの反応を得られることを学んでいるから、なんとなく寂しい時に多用してしまっていた気がするんだけど、そういうのに頼らず文章の表現力を身につけることで自分の価値を高めたいと思った。
本題に入ります。
文章の表現力つけたいとか言ったけど、そもそも表現力っているの?
語彙力ってなに?語彙力っているの?美味しいの?(インターネット老人特有のネタ)
結論から言います。いりません。
あ、小説とか物語書きたい人は別ね。
いやいやそんなことないべ、文章の表現力があればいろんな人に自分の考えを伝えることができるべさ、文章の表現力があれば読み手を感動させられるでねーか、語彙力があれば色んな人に魅力を伝えられるでねぇか、あんま適当なこと言うんでねぇ。
ほんとかなぁ(唐突なゴロリ)
だって、いかに書き手に表現力とやらがあってもそれを良いと認識できるのってさ、結局は読み手の感性と知性に依存するじゃん。夏目漱石や太宰治がいかに良い文章を書こうと、それを良いと感じる感性がなければただのインクじゃねーすか。良い文章かけば感動させられるっていうのは読者のことを考えてない思い上がりと思うッス。
とするならば、より多くの人に伝えることを主軸とするならば、比喩的表現すら控えてなるべくシンプルかつ分かりやすく伝えられれば良くない?
語彙力がないって言われるけど、エモいとか尊いとか好きのほうが圧倒的大多数に伝わる言葉だし、語彙力なんてなくて良くないすか?
いや、まったくもっておっしゃる通りです。僕もそう思う。分かっているけど語彙力が欲しい。表現力が欲しい。
語彙力、表現力は面倒くさいオタクでいるために、水面から顔を上げずに深く潜っていくために必要な装備だと思うんすよ。
他の人にとっての語彙力の意味は違うかもしれないけど、自分にとっての語彙力はわがままを通すための力だ。
僕には嫌いな表現があって、それを使わないで自分の言葉で自分の想いを形にするための力。自分の言葉で届けるための力。思考する上で一つの正解だけじゃなく幾通りの結論にたどり着くための力。長く推しと向き合うために必要な力。自分の想いを自分だけのものにする力。そんな感じのやつ。急に語彙力なくなるな。
だから、そういうわがままなアレだから別にオタクする上で語彙力なくて推しの魅力うんぬん伝えられんって悩む必要はないんじゃないかなって思う。ガルパンはいいぞで伝わるじゃないすか。いや伝わるか?伝わらんな。まぁ伝わらんこともあるけど普通に素直に想いを形にしていくことも大事だと思うわけです。
語彙力なくなるのは良いことでもないし、別に悪いことでもない。でもたとてそういう状態でも形にしようとするのはとても尊いしエモいしヤバいしアガる。
もちろん言葉をたくさん探して頑張って伝えようとするのも偉いし熱という点においてはなるべく伝えようという努力が見える方がいいのかなって気もします。そういう感じのやつです。
あらためて読み返したらわかりづらかったんで、やっぱり多少は表現力必要かもしれないです。