映画「怪物」評 ~ 真実は三者三様藪の中 二人の行方は誰も知らない
映画「怪物」を観た。公開終了間際の立川シネマシティにて(2023年8月15日)。
何かを語らずにはいられない作品だ。だが、どこから語ったらいいか戸惑う作品でもある。
一言でいえば、挑戦的である。もっと言えば、ポレミック、論争的である。観客の感情を二転三転させるため、人によっては、鑑賞後、良いように弄ばれたと感じる向きもあるかもしれない。より深く鑑賞できた人は、社会の見方を意識的にアップデートしていたはずにもかかわらず捕らわれてしまうアンコンシャスバイアスの怖さ、どれだけ気を付けても瞬間風速的な物の見方に絡めとられて安易な意見に流されてしまう人間の限界、それでも人間を信じなくてはならない困難さに気づくだろう。しかしそこまで感じ取れても、明確な回答のない曖昧な結末において宙に放り投げられた印象がなくもないため、信じて最後までついてきたのに、なんだよ、置いてけぼりを食わされたぞ! と思う人もいるだろうと思う。この映画を本質的に理解するには、まずはハイコンテクストな描写をアイロニカルに受け止められる一定程度の教養と、次に混沌とした社会を見通す透徹とした視線、日常の多種多様な社会情勢を冷静に受け取る実相的態度、さらに映画の持つパワーによって過去に自身の価値観を大きく揺すぶられた具体的経験が求められているように感じる。
まあ、ともかくも綴ってみよう。
久々の長文! 長たらしいけれど、ご勘弁を。
以下、ネタバレ感想注意報発令中!
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タイトル:「怪物」
監督:是枝裕和
脚本:坂元裕二
撮影:近藤龍人
音楽:坂本龍一
出演:安藤サクラ、永山瑛太、黒川想矢、柊木陽太、高畑充希、角田晃広、中村獅童、田中裕子
受賞:カンヌ国際映画祭脚本賞とクィア・パルム賞
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まずは、映画鑑賞後にひねった下手な短歌をご覧に入れよう。
真実は 三者三様 藪の中 二人の行方は 誰も知らない
映画は三つの視点で同じ時間軸を3回描く。つまり観客は都合3回、同じ場面を目撃するわけだが、最初の視点では見えてこなかった部分が第2、第3の視点によって露わになるため、最初に抱いた観客のふんわりとした感情が裏切られるように作られている。なお、舞台は主に小学校で、時間軸は春から夏の1学期である。
この手法は「羅生門スタイル(あるいは羅生門アプローチ、羅生門効果などとも)」と呼ばれる。黒澤明監督の映画「羅生門」から採られた。芥川龍之介の『藪の中』と『羅生門』を足して作られた本作では、平安時代、ある殺人事件を追う検非違使が関係者に事件の真相を聞いて回るが、どの証言も要領を得ず、話に食い違いが生じる。誰もが見栄のためや、誰かをかばうために嘘をつき、真実はいったい何なのか、皆目分からなくなってしまう。まさに真相は藪の中、というわけだ。
思い出すだけでも、スタンリー・キューブリック監督の「現金に体を張れ」、コンスタンティン・コスタ=ガヴラス監督の「Z」、最近ではエドワード・ズウィック監督の「戦火の勇気」やクェンティン・タランティーノ監督の「ジャッキー・ブラウン」でも使われていた。時間と視点とを確信犯的に操作できる、非常に映画的な表現方法といえるだろう。推理小説における「信頼できない語り手」の手法と似ている。
さて、では「怪物」ではどのような視点が描かれるのだろうか。順を追って見ていく。
まず麦野早織の視点。シングルマザーで小学5年生の1人息子を育てている。ラガーマンだった夫は数年前に事故死しているらしい。最近、息子の様子がどうもおかしい。靴が片方なかったり、水筒の中に泥が入っていたり。何か秘密があるようだけれど、思春期の入り口に立っているからかな。それともいじめられているの?
第2の視点は保利道敏。小学校の先生で、麦野早織の1人息子の担任だ。本や雑誌の誤字を見つけるのが趣味で、彼女がいる。明らかにそぐわない場面でプロポーズしたり、子どもたちに将来の夢を語らせる授業で自分の小学校時代の作文を披露し、生徒の前でダダ滑りしたりする。もしかしてこの人は軽い発達障害なのかな?
最後の視点は、2人の子ども。1人は麦野早織の息子の麦野湊、もう1人は湊のクラスメイトの男子・星川衣里。湊はさほど存在感のない生徒で、衣里はいじられキャラだ。廃線のトンネルの先に残された古い列車内で「怪物だ~れだ?」の遊びに夢中になる彼らは、次第にほぼ一心同体となっていく。彼らはゲイなのかしら?
映画の冒頭、大きな湖(諏訪湖)が映し出され、ウーウーと消防車のサイレンが鳴り響く。この音は湖に棲む怪物の叫びのように聞こえる。この音と、三つの視点の終わりに鳴り響くある音とが共鳴するように映画が構成されているが、それは後述する。
消防車が向かう先のあるビルで火災が発生している。ここには三者がそれぞれに無意識に関わっている。火事現場からほど近い家のベランダから野次馬として眺める麦野早織と麦野湊、偶然火事のそばに居合わせたためにあらぬ噂を広められてしまう保利道敏、そしておそらくは放火犯の星川衣里。この火災がまさに着火点になり、三者の人生が交錯していく。
ある日、麦野早織は帰宅しない息子を探しに車で出かける。息子の自転車を見つけた早織は車を降り、廃線となったかつての鉄道のトンネル内にいた息子を見つける。その帰りの車内。早織が「お父さんと約束したの。あなたには普通の人生を歩ませるって」といたわるように話しかけると、何かを呟く湊。ただ、対向車の音でかき消され、よく聞こえない。次の瞬間、走る車のドアを開けて転げ落ちる湊。
是枝監督の映画には、「登場人物が何かをしゃべっているのだが、それがよく聞こえない」演出がしばしば登場する。分かりやすい例だと「万引き家族」のビーチでの樹木希林、ラストシーンでのバス内の城桧吏がそれだ。何と言ったかは、観客の想像に委ねられている。ただ、今回は映画の構成上、シーンが繰り返されるため、最初に聞こえなかった湊の発言が、湊の視点(第3の視点)では聞こえてくる。「お父さんみたいにはなれないよ」と。
湊は5年生になり、星川衣里と知り合い、そして仲良くなる中で、自身の内側に眠る性的衝動と性的指向が次第に明確になっていくのを知る。自分は女子よりも男子が好きなのだ、と。生物学的には男だが、世間一般で言われる普通の男ではない自分。ただ、母親には「普通の人生を」と言われ、担任には「男らしく」と諭される。自身の内なる「怪物」に気づいてしまった湊にとっては、どれもすべて矢のように心に突き刺さる。どうやら男らしかったらしい父親との比較も、いちいち苦しい。
一方、衣里はより過酷な状況に置かれている。ゲイだと知った父親はその性根を叩きなおそうと、衣里がなよなよとした反応を見せるたびに折檻する。また、振る舞いが中性的な彼は、オカマだとからかわれて学校でのイジメの対象となる。それらすべてを受け流しながら、飄々としている衣里。しかし、身体的にも精神的にも追い詰められているのは明らかだ。何のためらいもなく嘘をつくのは、現実から遊離したい衝動の現れであろう。放火もまた同様だ。火をつけたビルには、当時、父親がいた。しかもガールズバーに。放火は単なる憂さ晴らしではなく、復讐の企図が窺えるのである。
さて、湊と衣里の年齢設定や関係性、古びた列車内で深まっていく二人の友情、そして愛情は、どうしたって宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を想起させる。そう、ジョバンニとカムパネルラだ。ジョバンニは内向的な性格で、湊と同じく父親が不在(航海に出たまま行方知れずという設定)、知性あふれるカムパネルラはどことなくユニセックスなイメージを持つ。衣里の星川という苗字も意味深だ。なるほど、宮沢賢治は同性愛者だったという説が根強い。映画にはザネリのようないじめっ子たちもいるし、教室内の出来事を俯瞰的に眺めている冷静な女子は宮沢賢治の妹トシが人物造形の元ではなかろうか。列車の飾りは星だったり鳥だったり恐竜だったりで、『銀河鉄道の夜』の物語をなぞらえているように映る。ここを踏まえたうえでもう一度、映画を観なおしてみる。
第1の視点。いじめの証拠をいくつも見つけ、モンスターペアレント寸前の勢いで学校に殴り込む麦野早織。それもむべなるかなと思わせる演出で話は展開する。この段階では担任の保利道敏先生以下、学校側の対応が如何に杜撰であるかが観客に刷り込まれ、どうしたって母親を応援する側に回らざるを得ない。保利先生は早織との面談中に言わされている感満載のお義理程度の謝罪しかしないし、突然、飴を舐めて早織の逆鱗に触れる。湊に暴力を振るった疑惑や「お前の脳は豚の脳」などという暴言が週刊誌でも報道され、最終的に緊急の保護者会にて、校長以下が居並ぶ中で保利先生は謝罪するのだが、やはりここでもおざなりに謝っている風にしか映らない。というか、そういう風にしか映していない。早織が見つける衣里の腕の痣は、あとから考えれば父親によるものと分かるが、この時点ではどうしたって保利先生によるものだろうと思わざるを得ない。そういうミスリーディングが第1の視点にはある。
第2の視点に移行すると、保利先生の濃やかな教育者の一面が映し出されていく。付き合っている彼女との会話や接し方からは、やや空気が読めず、少し抜けた人のようだという印象が伝わってくる。朝の挨拶での生徒たちとの温かみのある交流や、家に作文を持ち帰って丸付けする姿などからは、生徒想いの先生なのがよく分かる。火事のあった際、出会ったクラスの生徒たちに声をかけて、早く帰宅するよう促す優しさも見せる。そのときに出会った子どもたちが悪気もなく流したものか、あるいは別の保護者が目撃していて変に勘ぐったのか判然としないが、第1の視点において流される「保利先生は火事のとき、ガールズバーにいた」という噂が、第2の視点で根も葉もないものだったと分かる。
となれば、保利先生の暴力沙汰や暴言もまた違うのでは? その通り。教室で暴れた湊を抑えるために必死で対応する姿が映し出され、そこで手が当たってしまい湊が怪我をするが、それはあくまでも暴れる湊を制止するためだったと観客ははっきりと知る。どうやら、保利先生が嘘をついていたというわけではなく、学校側の事なかれ主義と、誤解が誤解を生んだ結果、保利先生が謝らねばならない状況に至っていたのだ。保利先生は校長や副校長に抗弁するが、抵抗虚しく、仕方なく学校を辞める。週刊誌騒ぎに耐えらえなくなった彼女も家を出ていく。その直後、湊と衣里の作文の鏡文字から、二人が思い合っていると知る。そしてやってくるのだ、すべてを押し流すような大嵐(台風)が。それは怪物の到来を告げるているようでもある。
続く第3の視点。ここで重要なのは、子どもたちから次第に母親も先生も抜け落ちていくところだ。つまり自分たちを理解してくれない大人は、重要性がないために視界から消えていくのだ。ただ、最後の最後に子どもたちにとって重要になる大人がいる。校長である。
大事な役柄でありながら、視点を与えられていない校長は、この映画のキーパーソンである。ポスターからもそれが分かる。安藤サクラ、永山瑛太、そして子どもたちは視点を持つが、校長の田中裕子のみ視点がない。ないにもかかわらず、ポスターに映っている。要はそれだけ重要な登場人物なわけである。
第1の視点での、校長ののらりくらりとした対応は麦野早織の怒りを増幅させる。当然、観客もむかっ腹を立てるだろう。特に、春休み中に自身の孫を、夫が運転する車が轢いてしまって亡くした校長が、早織との面談の前に、孫と写った写真をこれ見よがしに早織の視界に入るテーブルの上に置く辺りの、教育者としてあるまじき、非常に卑怯なやり口には誰しもが呆れ返るだろう。保利先生の弁明にもまったく耳を貸さずに学校から放逐する姿勢も、これで本当に小学校のトップを長年務めてきたのかと虚しくなってしまう。
ところが、校長には、実は自身が運転する車で孫を轢いたらしいという噂がある。これが真実であるかどうかは、拘留されている夫との面会のシーンもあるものの、判然としない。ここでもまた噂だ。噂、噂、噂。本作の登場人物は、明らかな悪党も、明らかな善人もいない。子どもですら、その純粋さから生じる悪魔的振る舞いが描かれている。笑顔をまとった衣里でさえ、放火という罪に手を染める。もし本作の最大の悪を一つ上げるとするなら、それは噂だ。手前勝手な伝聞を増幅する噂。それがゆえに苦しめられる人がいるかもしれない、という想像が及ばないほど簡単に、本当に簡単に「シングルマザーってモンスターペアレント化しやすいじゃん」「保利先生、ガールズバーににいたらしいよ」「校長先生が轢いたらしいんですよ」などと平気で囁いてしまう。そこに尾ひれがついて大問題になっても、自身が加担したという自覚すらない、浅はかな人間たち。誰かが謝罪したり、職を辞したり、追い詰められたりする結果を前にしても、良心の呵責を覚えない。ここには、ネットにおける中傷の書き込みというメタファーがあるだろう。
さて、校長に話を戻す。本当に校長は孫を轢いたのか。その罪科を夫に肩代わりしてもらったのか。それは分からない。ただ、もしかしたら本当なのかなと思わせるセリフがラスト近くに用意されている。それが、第1、第2、第3の視点の最後でそれぞれ響いてくる怪物の唸り声に関係してくる。
湊がある出来事によって学校の階段から転げ落ち、指導室で休んでいたとき。ふと目を覚ましてベランダへ出ると、隣の教室のベランダに校長がいる。そこは音楽室だった。校長はかつてブラスバンド部の顧問だったらしい。トロンボーンやホルンなどを湊に見せる。そのときついと、湊は告白する。「僕、嘘ついちゃった。保利先生は悪くない」と。それを聞いた校長は「嘘、ついっちゃったか……」といって、叱るでもなく、驚くでもなく、ただ受け流す。そうして湊に歩み寄り、トロンボーンの吹き方を伝授する。自身はホルンを手にして、一緒に音を出す。学校中に響き渡る管楽器の不協和音。それはまるで校長と湊の、心の奥底に眠る怪物が唸り声をあげているように聞こえる。これは冒頭の消防車のサイレンと呼応している。こちらは衣里の心の叫びだろう。
おもむろに校長が語る。「誰かにしか手に入らないものは幸せとは言わない。誰にでも手に入れられるものを幸せというの」と。まるで自身にはもう幸せが手に入らないような口ぶりである。単に孫(と夫)を失ったから、という解釈も成り立つが、もう一段踏み込むと、自身の手で幸せ(孫と夫)を失う結果を招いてしまったからこう発言しているともとれる。微妙なところだが、校長の悲しげな語り口や視線から、私にはそのように感じられた。
このセリフは複雑な映画の総まとめといえる。というのも、宮沢賢治の残した有名な言葉「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」を思い起こさせるからだ。『銀河鉄道の夜』を下敷きにして、賢治の名言を最後に持ってくる心憎い脚本である。「世界がぜんたい幸福に」には、もちろん、問題児を抱えて奮闘するシングルマザーの麦野早織も、どことなく集団からずれてしまう空気が読めない優男の保利先生も、自らの過失で孫を失ってしまった校長も、学校を守るために隠蔽体質を貫かざるを得ない副校長も、理解者を得られずに孤立し、過酷な日常を生きている同性愛者の湊も衣里も、軽口をたたく感じで噂を広める早織の友人、保利先生の同僚や彼女、学校の生徒たち、衣里の父親、全部を含んでいる。誰かが悪いのではない。誰かが善いのでもない。善くても悪くても、誰にでも幸福が手に入れられないとおかしい。そう映画は訴える。
補足すると、校長は火事の直後、橋のところで衣里と会っている。スキップする衣里はポケットに忍ばせていたチャッカマンを落とす。校長先生はそれを目撃する。しかし、誰にも告げたりはしなかった。それは学校が大きな問題に陥らないための保身だったともいえるし、生徒である衣里をひそかに守ったともいえる。つまり、湊だけでなく、衣里にとっても校長は重要人物といえるのである。
ラストもラスト、子どもたちは台風一過の草原を駆けに駆けて、廃線の奥へと突き進む。本来であれば、心配した親や先生が彼らを見つけ、再び日常生活へと戻っていくところで終わるのだろう。そうして観客を安心させてしまいたいところだ。例えば子どもたちの発見者を保利先生にして、それが復帰の足掛かりとなり、後日、保利先生が教鞭を執る授業参観が行われ、湊と衣里の姿を見守る麦野早織、衣里の父親、そして校長と副校長の笑顔が代わる代わる映し出されるというような、安易な大団円によって。ところが一筋縄ではいかぬ本作は、駆け抜ける子どもたちの美しい笑顔を映して唐突として終わる。フランソワ・トリュフォー監督の「大人は判ってくれない」のラストで、親たちから逃げた末に海岸にたどり着いた少年の顔がクローズアップされたシーンのように、本当に唐突に。ケン・ローチ監督の『家族を想うとき』のラストにも似ているように私は思った。これは、彼ら二人が幸せをつかめるかどうかは、あとは観客次第だ、という作り手からの強烈なメッセージだろう。要は、彼らの苦しみを社会が受け止めて、受け入れていけるかを突き付けているのだ。「世界がぜんたいに幸福に」なるためには、観客側が変わらないといけない、そう訴えているのである。
真実は 三者三様 藪の中 二人の行方は 誰も知らない
冒頭の歌だ。確かに現時点では、二人の行方は分からない。でも、将来的に、分かる社会にしていくことはできるだろう。男の子同士が手をつないでいてもそれが当たり前になる社会は来るだろうか。それは分からない。分からないけど、それを望まなくては、社会は「誰かにしか手に入らない」幸せしか提供できない。湊と衣里はいつまで経っても幸福になれない。観客の心にそのともし火が少しでも広がるといいなと願う。
なお、この歌には是枝監督の過去作「真実」と「誰も知らない」を盛り込んである。加えて芥川龍之介の『藪の中』も入れてある。「二人の行方は誰も知らない」とは、芥川の『羅生門』のラストのセリフ「下人の行方は誰も知らない」とひっかけている。このネタバレは不要だったかもね。
以上、長い上に中身のない評論で失礼しました。全部を読んでくださった方に心からの感謝を。適当に読み飛ばした方にそれなりの感謝を。全く読まずにいいねだけを押した方におざなりの感謝を、それぞれ送りたいと思います。ありがとう!
(2023年8月23日記)