『道』鑑賞の手引き、的な。
**作品視聴後にお読みください。**
今回の国際共同制作の相手方は台湾中部の都市「嘉義(Chiayi )」に拠点を置く阮劇団(アワーシアター)。
Day1 第一夜の参考
■ 衛生大臣=陳時中氏
指揮官と呼ばれ、新型コロナウイルスの感染拡大を食い止めている台湾で、政府のコロナ対策本部長を務める陳時中氏(66)。 国民の生命と健康を守るため不眠不休で働く姿が台湾国民から支持を得ている。
■ テドロス
WHO世界保健機関の代表 中国の反対により2017年より台湾はWHOから排除されている。また新型コロナに関するデータは中国の集計にまとめられていた。松本教授によれば・・・
日本も台湾を国としては認めておらず、「国交」はない、という事になっています。チェコのような国もある一方、今後、日本はどの道を行くのか気がかりです。
・2017年阮劇団と流山児★事務所のコラボでシビウ演劇祭に参加した時も、参加国名をTaiwanと表記することが適わず、ルーマニアも小さい国だからごめんなさい、とお詫びされて皆で泣きました。
■ フロイド事件
2020年6月2日 米ミネソタ州ミネアポリスで黒人男性ジョージ・フロイドさん(46)が白人警官に押さえつけられて死亡した事件
■ 梅山・太平の雲の吊り橋 (*地図3)
嘉義の景勝地。海抜1,000メートルの場所に架かる橋上から眼下に広がる嘉南平原から台湾海峽まで眺めることができる。
2020年6月 陳時中指揮官が訪れ 嘉義県民が歓待している。
*参考ニュース
■ 文化路 (*地図4)
嘉義のメインストリート、夜にはナイトマーケットでにぎわう。
・こちらでも紹介されている林聰明沙鍋魚頭さんのお弁当、流山児さんもおいしくいただいていました。
■ 水上空港(嘉義空港)(*地図5)
1936年に日本統治時代に陸軍用として建設された。当時の名前は「嘉義飛行場」現在は軍人・民間両用空港として使用されている。
・鴻上さんの『不死身の特攻兵』の中にこの嘉義飛行場から南方へ特攻出撃する「万朶隊」について書かれていてドキッとしました。
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Day2 第二夜
■ 大政奉還
江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を慶応3年10月14日(1867年11月9日)に明治天皇へ奏上し翌15日に天皇が奏上を勅許した出来事。
■ 日清講和条約(下関条約)
日清戦争(1894年-1895年)で大日本帝国が清国に勝利したことにより、山口県下関市での講和会議を経て、1895年(明治28年)4月17日に調印された条約である。台湾はこの時より日本の統治下におかれた。
■李鴻章(1823-1901)
日清講和条約(1995年)の清国側全権大使として日本に派遣された。伊藤博文とは1985年以来、親交を深める間柄。条約締結のために滞在した下関で日本の暴徒に短銃で狙撃される。李鴻章の療養中に条約締結に向けた会議が開始された。
■ 大東亜戦争終結ノ詔書
1945年8月15日正午に、昭和天皇による玉音放送で、ポツダム宣言を受諾し、大東亜戦争(1937-)の終戦を告げた。これによって台湾の日本統治時代(1895年-1945年)が終わる。
・日本を、人間の一生になぞらえて歴史に残る4つの宣言から表現して、という難解なお題から発展した本作品。
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Day3 第三夜
■第三夜は阮劇団の俳優:李冠億(ダイケン)の故郷、高雄に突撃訪問。台湾華語(北京語ベース)と台湾語がちゃんぽんで使われている自然な感じが良い感じです。台湾では南に行くほど台湾語で話す人が多くなるそうで、台北の若者はほぼ理解できない人もいるそうです。阮劇団はそんな失われつつある台湾語にこだわり、地域文化を現代演劇のなかに織り込み、舞台芸術と社会との関係性について思考・実践し、演劇の大衆化を目指しています。
■大港埔市場(*地図6)台湾の西南部に位置する高雄(Kaohsiung)にある、ダイケンの故郷。世界で最も美しい駅として有名な「美麗島駅」の近くにある「南華観光夜市」。
■ 里長
町内会の会長さんのような、台湾では欠かすことのできない最小単位の生活圏の長。コロナ渦においては自宅隔離者への電話や単身者への食事の配膳など、もっとも重要な役割を担っていた役職のひとつである。
お父さんは「漢民里」(*地図7)という地域の里長さん。
■ 豆花(トーファ)
豆乳を使った台湾の人気スイーツ。読み方は、「トウファ」「ドウファ」「ドウホワ」など。女性にうれしい大豆の力、早稲田界隈にも近年ちらほらとお店ができています。見かけたらぜひお試しあれ。
・ダイケンのお母さんは南華観光夜市にある「両回熟豆花」(*地図8)の看板娘。2度行けばやみつきになるうまさ!!近くにご旅行の際はぜひ!
■中元宮
実はダイケンも良くわからないのだそうです。台湾の信仰は宗教という形式よりも生活のすぐ隣にある民間信仰の要素が強く、慣わしとして生活の中に自然に溶け込んでいます。
・中元は道教に由来する年中行事の1つ。地獄の帝の誕生日であることから、冥界の扉が開かれ、神も先祖も無縁仏もみんな下界にやってきて1ヶ月さまよいます。そのため中元の時期には台湾各地で大小さまざまなお祭りが催されます。(日本のお中元の由来です。日本でも由来まで知る人は滅多にいないですね。)
・どなたか詳しい方、教えてください!
■ 炉主
一年間、神々や香炉を自宅へ持ち帰り、毎日の香やお茶を供えたり 祭祀(感謝や祈り、慰霊・鎮魂の目的のために神々や祖先をまつる)や廟の門前で行う芝居などの責任を担う係。毎年、擲筊(Poa̍h-poe)で決める。
・台湾の廟でお参りの人が赤い三日月型のものを投げる姿をよく見ました。表裏などで神様にYES、NOを聞いているのだそうです。
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Day4 第四夜
第ニ、四、五夜はSpace早稲田(流山児★事務所の拠点)で撮影しました。演出、映像監督はこのように嘉義のオフィスからオンラインで指示を出しながら・・・。「このシーンは切なくしたいんだ、」・・・などなど。
今年春、東京の薬局では
まず、発熱を隠すための解熱剤が売れ、
睡眠薬が飛ぶように売れ、、
自粛期間中にはやけに妊娠検査薬が売れたのでした。。。
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Day6 第5夜
Space早稲田での撮影は5、6月でした。
稽古中の入室は最大5人までと決め、残りのメンバーはZoomでリモート参加。
学生が消え、古本屋、映画館、飲食店が軒並みシャッターを下ろした早稲田の町の一角の、
プールの匂いがするSpace早稲田。
無人の劇場。
憶えておかなくては、
これが2020年東京の現実でした。
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Day6 第六夜
■湾生(わんせい)
1895年の日清講和条約から1945年の終戦まで50年に渡り日本が統治していた台湾で生まれ育った約20万人の日本人のことを、「台湾生まれの日本人=湾生」と呼びます。終戦とともに、日本に帰らされることとなりました。望郷の思いは募るものの、個人では責任を負いきれない何か後ろめたさのようなものもあったかもしれません。なかなか帰る事が出来ず、近年ようやく台湾に帰国を果たした人もいるようです。映画「湾生回家」より
■アラレちゃん
なぜアラレちゃんなのか?この大事なシーンでなぜアラレ?実は撮影直前まで日台で熱いバトルがありました。台湾版コミケも盛り上がり「懐かしアニメ・コスプレ」も珍しくない現代の台湾親日女子の象徴としても登場。夜市でも普通にアラレちゃんがいるそうです。2バージョンの撮影をしましたが、やはりアラレで。
■ NCAF 台湾国家文化芸術基金会
1996年に台湾の文化芸術事業のレベルの向上を目指して設立された基金。政府と民間をあげて助成金の分配と賞の授与を行いアーティストの創作を支援している。
■ 日本語能力試験
日本語を母語としない人の日本語を測定して認定する試験。1984年に開始され受験者は全世界で約61万人に上り、世界最大規模の日本語試験
■ 日本奥能登国際芸術祭
金沢から2時間、能登半島の先端に位置する珠洲で開催される日本「さいはて」の芸術祭。世界中からアーティストを招いて開催される。2020年が第二回の予定だったが新型コロナのために延期となる。
・守玉もサポーターとして参加予定でした。素敵。
■ 嘉義
台湾南部に位置する市。市内に北回帰線が通過し、今年は金環日食が見れた。日本統治時代には、たくさんの日本人が住んでいて、甲子園にも出場している(映画「KANO」参照)。
・カップヌードルの創業者安藤百福さんの出身地も嘉義。地元市場の意麺はまさにチキンヌードル!
・「551の豚まん」のルーツも嘉義!いまも兄さんのバーガーショップ「蓬萊漢堡」があります。 「♪米は二度なる 甘蔗は伸びる 名さえ蓬莱 宝島~」(『台湾楽しや』-1940年の流行歌、湾生)
・ロバート秋山さんのひいじじは台湾生まれの日本人(湾生)で嘉義でタイワンヒノキを日本に運ぶ仕事をしていたそうです。(*ファミリー・ヒストリー情報)。
・今も街並みには日本家屋が残り、嘉義の市場では、日本語を話しているおばあちゃんも。あまりにも言葉がわかるので、流山児さんは自分が台湾語が理解できるようになったと錯覚していました。
■阿里山森林鉄道
嘉義駅から阿里山駅までの全長71.34kmを結ぶ、「スイッチバック」方式が人気の森林鉄道。両駅間の標高差は2186m。1899年、木材となるタイワンヒノキを運ぶ目的で日本人によって建設された。阿里山(玉山)は日本では富士山の次に高い山ということで明治天皇に「新高山(ニイタカヤマ)」と名付けられていた。日本の多くの寺社仏閣で今も、阿里山のヒノキが使われている。現地レポート
■ 嘉義樹木園(*地図9)
1906年に台湾総督府(日本の植民地統治機関)殖産局によって設立され、1911年に「林業試驗場嘉義支場」と改称された。樹木園の隣には嘉義神社があり、統治時代には小学生たちは毎週一回、徒歩で参拝に行くことを義務づけられていた。
・小学生の足ではなかなかの距離で行くのが苦痛だったという話を伺いました。台湾の民間信仰とは随分の違いを感じます。
2020年6月21日 金環日食の嘉義駅前