「対等だろうがよ」2024.8.5
今日の私は資本主義に向いていない日でした。
バイトでとてもミスをしてしまいました。
デリバリーや電話対応、その他諸々。
めっちゃミスした。
昨日の熱中症で多分どこか脳がイカれたんだと思います。2、3日もすれば治るでしょう。
とにかく、マルチタスクがダメな日が時々訪れます。その度に思うのです。
人は対等であると。
どういうことか。
人には向き不向きがあります。
運動が得意な人。勉強が向いている人。人付き合いが向いている人。お金稼ぐのが向いている人。歌が上手い人。もっと細かく見ていけば、誰にだって何かしらの向いていることがあるはずです。例えば、マリオが向いている人とか。練習無しで桃を綺麗に剥くことができる人がいれば、その人は桃を剥くのが向いている人となります。
私はそれを才能と呼びます。他の人よりも少ない努力労力で上達する事が才能があるという事です。
誰にでも何かしらの才能があるのです。どんな小さいことでも。どんな変なことでも才能はあります。
サッカーの才能があれば、メッシに。
投資の才能があれば、バフェットになります。
そして、その才能は選べません。
遺伝子なのか、環境なのか。
わかりませんが、自分ではどうしようもないのです。
今の日本では基本的に8時間労働を週に5日行っています。
単純計算で1週間が168時間。1週間の労働時間が40時間。残業や通勤時間、準備も含めるとどんなに少なく見積もっても、50時間は仕事に費やしています。
50/168。人生の30%を仕事に注ぎ込んでいる計算になります。
そのような生活をしているとどうなるか。
人生のための仕事が、仕事のための人生に変わるのです。
それ即ち資本主義で生きているという事です。
資本主義で生きていると、仕事の出来不出来や金の有無で人の格を決めようとする人が出てきます。
金を持っているからすごい人だとか。
仕事ができるから信用できるとか。
確かにそのような傾向とか側面はあるでしょうが、そんなのただの才能でしかありません。それが向いていたから、資本主義の才能があったから。ただそれだけです。
そこに人の上下は存在しません。才能があったかどうか、強いて言えば運があったかどうかなのです。
もし盗みの天才がいたとして、盗みが犯罪じゃない社会だとしたらどうでしょう。
その人は億万長者です。正当な才能の結果としてね。
そう考えると今の億万長者も別にすごいとは思えど、偉いとは思わないはずです。
今の社会のシステムに適合した才能を持って生まれた運があった。ただそれだけなのです。
本質、人は自由であり、対等であるのです。
仕事ができなくても、金がなくても対等なのです。
平等でも公平でもないのは、当たり前です。
人生は生まれで大体決まるし、不平等です。
生まれでついた差は埋まらないし、それによってチャンスの数も公平には回ってきません。
でも、だからといって私があなたより偉いわけがありません。逆もまた然りです。
私より偉い人は存在しませんし、私より偉くない人も存在しません。
平等でも公平でもないが、対等ではあるのです。
資本主義でも、社会主義でも、共産主義でもない。
対等主義を始めましょう。タイトニズムです。
人は皆対等である。これだけを教えとした宗教を作ろうと思います。
ミスを繰り返した日はこのような言い訳を考えながら働いています。
だから、ミスを重ねるんでしょうね。反省します。
では、また。