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阪神淡路大震災の記憶


住んでいたマンション至近の、傾いたパン屋さん。

I was here on 1.17.1995.

1995年(平成7年)1月17日(火曜日)5時46分52秒、兵庫県南部地震により発生した災害時、私は東灘区の甲南町のワンルームマンションの二階の部屋にいた。全体での犠牲者は6,434人、神戸市では4,564人が死亡したが、最大の被害を受けたのは東灘区であり、全ての自治体で最多となる1,469人の死者が出た。そんな中でかすり傷一つ負わなかったのは、今思うと本当に幸運だった。

揺れの(心理的)衝撃が強すぎて、ところどころ覚えていないのだが、ベッドから振り落とされそうになって飛び起き、先ず靴下を履いて厚着をして、ベランダとドアが開くか確認した自分は冷静だったと思う。これは地震が非常に多い和歌山で成長期の14年を過ごしたので、避難訓練の思い出とともに地震に対して非常に恐怖心を抱いていたからこその行動だった。

マンションは甲南商店街のど真ん中だった。マンションから出てすぐのところにあり、登校前、出勤前にお世話になった早朝開店の商店街入口のパン屋(タナカ屋)さんが、大きく傾いていた(画像:ネットの阪神淡路大震災アーカイブ写真より)。パン屋さんだけではなくどこもかしこも傾き、市場では火の手が上がり煙がたなびき、倒壊した街を、真冬の寒い中、食べ物と水と通信手段を探して歩き回った。
倒壊した商店が、あるだけの食べれるものを放出していたり、携帯電話がまだ普及していなかった頃で、公衆電話に長蛇の列だったり、グチャグチャになったコンビニを覗いたら食料品はすっかり無くなっていたり(みんな持って行かれてた)。
お腹も空かなかったし殆ど食べなかったが、学生時代の友人が食べるものを持ってきてくれた。一時避難場所の公民館にも行ったが、住民票を神戸市に入れていなかった私は、近所付き合いも無かったのでいたたまれず、すぐマンションに戻った。

今年の元日に起こった能登の震災で、多くの被災者の方々が極寒の中、不自由な避難生活強いられている。本当に一刻も早い支援の手が届くことを祈る。その被災者の中にも多くのインドネシア人達が、言葉の分かる情報に触れられず大変な思いをしていると聞く。

地元のコミュニティに属していない被災者は、もう一つ厳しい状況にある。自分も体験した事なのでよく分かる。彼らは地元の人に遠慮して、自分達への支援を要求できない傾向にある。そういう人達にも支援が行き届きますようにと、祈るばかりである。

全ての震災で犠牲になった全ての人達へ、深く哀悼の意を捧げる。


1995年2月5日発売の週刊読売。

震災発生から19日めに発売の週刊読売の特集記事。捨てれなくてずっと持っている。2週間以上経った時点で、死者4000人と書いてある。まだ二千人以上の犠牲者の確認が取れていなかったのだ。


西宮市本町付近

この有名な写真、阪神高速の高架が倒壊し、断絶された道路の端ギリギリで止まったバス。野沢からのスキー帰りで、当時は乗客が三人居たそうだ。運転手と交代要員、全員無事に脱出できたそうだが、さぞかし恐ろしかっただろう。対向車は眼の前で落ちていったそうだ。ここは当時の自宅から7キロくらいの場所である。

どこもかしこもこんな状況だったが、私はその日何をしていたか?

余震が怖くて、街を歩き回った。手伝えそうな所は手伝おうと思ったが、結局何も出来ず、自室に戻って猛然と片付けをした。とりあえず「足場」を確保して、割れた危険なものはまとめて。テレビも食器棚も吹っ飛んでいたが、本棚だけは全く無傷。頑丈な入り口付近に設置していたからだろう。
途中、一階が倒壊した隣家二階部分から、女性の声で助けての声が何回も聞こえたので、訪ねて行った。対応に出てきたご家族に「お婆ちゃん出れないんじゃないですか?」と聞いたが「大丈夫大丈夫」と半笑いで取り合ってくれない。あの日はみんなおかしかった。会話が噛み合わない人が多かった。衝撃が強かったのだろう、当時のマンションの大家さんも、まるで魂が抜けたように、反応が鈍かった。
当時25歳、無傷で元気な若者だったが、あの場所で私が人の役に立てることは何も無かった。

勿論全てのライフラインは寸断されていたが、夜に一瞬だけ家の電話が繋がったことがあった。突然呼び出し音が鳴ったので繋がったと分かったのだ。高校時代に好きだった男の子が何年振りかで心配して電話してきてくれたのだった。電話が繋がったのはその一回きりだったと記憶している。


倒壊した阪神高速。地震でこんなことになるとは、夢にも思わなかった。

余震の続く中、又マンションで夜を一人過ごすのは怖くて、その日まで一言も喋ったことの無かった、向かいの部屋の男の子の車の中で、暖房を入れてもらってラジオで情報を聞きながら過ごしていた。そうしたら、眼の前を父親が通ったのである。

幻を見たかと思ったが、当日、父親が和歌山から被災地に飛んできたのである(タクシーに途中でもう行けないと降ろされ、そこから徒歩)。


線路も大きく波打っている。

余震の続く中、結局マンションで一晩過ごして翌日、国道二号線(2国)から山手幹線(山幹)に上がり、そして最終的に阪急電車の線路沿いに歩いて西宮北口まで。道中は画像のような道程であったが、西宮北口からは電車が動いていた。

そうして地震など無かったかのような梅田を経由して和歌山へ。
職場復帰は1ヶ月後にポートアイランドの本社へ、和歌山から高速艇で数日間出社の後、難波に移動が決まり(震災当時は神戸市三宮勤務)、そこからは又神戸市東灘区のマンションに戻った。

しかしその年の8月になっても水道ガスなどのインフラは復旧せず、お風呂は数駅手前の銭湯に行き、トイレの水は何処かで汲んできた水で流していた状態。なので私はその後、生まれ故郷の大阪市住吉区の粉浜へ引っ越した。

その後、被災でひっくり返った価値観と現実社会との齟齬と乖離が大きくなり、2年後に退職してバリへと旅立つことになった。

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