盛夏火『熱病夢見舞い』の感想、あるいは盛夏火がかける演劇の魔法について
1.
「まだ〜? 早くしないと夏、終わっちゃうよ!」
9月になっても、夏がぜんぜん終わらなかった。10月になってちょっと涼しくなったけれど、2日と4日には真夏日が復活したらしい。私は半袖のTシャツや短パンをいまだに着ているし、ホットコーヒーじゃなくてアイスコーヒーを飲んでいる。会社のパソコンは、扇風機を常時全開で、至近距離で当てていないとまともに動かない。夏はいつ終わるんだろう? 早く終わってくれ。私は春と秋が好きなんだ。夏なんて大嫌いだ。
気候変動問題は、ほんとうに身近に感じられるようになった。自分にできることがなんなのかはよくわからないけれど、小さなことでもなるべく意識的にやるよう優等生的な努力をしている。でも、生来のニヒリストだから、きっといつか地球は寒冷化するにちがいないし、そうなったら人類なんて簡単に滅亡しちゃうんだろう、とも考えている。
う~ん、というか、なんか、ひょっとして、誰かが夏を終わらせないようにしているんじゃないだろうか? 夏を終わらせないために、魔法かなにかを使っているんじゃないだろうか?
誰かの声が聞こえてきた。
「夏だから時間が圧縮されてるんだよ。“Time waits for no one”ってやつ!」
「夏が過ぎるのを忘れるくらいに夏をやりまくって、なんならそのまま本当に忘れて、気づいた時には次の夏になっているぐらいにしてやる!」
「まだぜんぜんなんもやってないじゃん!」
2.
8月10日、高田馬場のときわ座で盛夏火の『熱病夢見舞い』を見た。ちょっと外に出て数歩歩けば汗がだらだらと流れてくるくらい、ほんとうに夏の盛りだった。
その日はなぜか蒲田で取材があって、帰り道ではあるものの、そこから高田馬場まで大移動して、16時半の開演まで近くのドトールコーヒーで仕事をしていた。
内藤ゆきさんの公演の感想で書いたとおり、盛夏火のことは名前だけ知っていた。ただ、盛夏火がやっていた団地演劇はコロナ禍のまっただなかにおこなわれていたので、当時は外食にもライブにもほとんど行かないようにしていた自分が見ることは叶わなかった。「今回こそは」という強い気持ちがあったわけでもないけれど、公演情報が目に入ったからなんとなく見に行ったのだった。
『熱病夢見舞い』は、ものすごかった。
どこまでがマジなのかさっぱりわからないときわ座の歴史にフィクションを織りまぜて、隠蔽され忘れさられた悲劇や惨劇が徐々に明らかにされ、心霊現象を引き起こし、謎を解決するために推理していき……というのがおおよその内容なのだけれど、言葉で簡単に説明できない要素が多すぎる。
2024年いっぱいで閉まってしまうときわ座という上演の舞台をそのまま装置や設定に流用して、上演の内容を「ときわ座を偲ぶ会」、観客を偲ぶ会に集まった参加者として扱い、現実に虚構を貫入させていた。そこに、楽屋落ち的な妙なサブカルギャグをさしはさみつつ、新本格ミステリやホラー/怪談の要素を闇鍋的にガンガン放りこんでいき、物語を緻密に編みあげながらも時に脱臼させ、飛躍し、ときわ座にいる者(観客と俳優と幽霊)を混沌の淵へと追いやり、場の空気と時間をめちゃくちゃにかき混ぜていく。そのサイケデリックな白昼夢に、とにかくあてられてしまった。
まず、冒頭、相根優貴さんが演じる想葉酉夕が壁面の掲示物やレーザーポインターをつかってときわ座の歴史を解説していったのだけれど、その時点で観客はからだを動かして首をひねり、そちらを見る必要がある。また、俳優たちはときわ座の入口(観客の背後)からたびたび出入りするので、そのたびにからだや視線の移動を強いられる。割り当てられた座席に座って、ただじっと前方にある舞台を見ていればいいだけ、なんていう演劇的で安全な前提はハナから切り崩されていた。
さらに、建物の二階や吹き抜けを使用して、演技の場はだんだんと、ときわ座全体や高田馬場の周辺地域、さらに地球の反対側にまで広げられていく。そして、スマホとパソコンのビデオ通話や電話をつかった生中継(あとで『ウィッチ・キャスティング』や『アバンダンド・ネバーランド』を見てわかったのだけれど、これは盛夏火お得意の手法だった)は、ホラービデオみやライバー的な感覚を演劇に加えるとともに、観客のすぐそばにある上階を異常な心霊現象に見舞われた場として客席から分離し、その断絶をおそろしく強調していた。
上演を通じて祟りが浮き彫りにされ、ひきつった恐怖と笑いのなか、霊現象や霊障に襲われていったときわ座という呪いの館での出来事は、それでも最後に、むりやり慰霊や供養に落着した。客席を空けて、偲ぶ会の参加者=観客を思いっきり巻きこみ、“ドラえもん音頭”を全員で踊ることによって(あの音頭の輪の中には、霊や死者が混ざっていたかもしれない)。自分は“ドラえもん音頭”を踊ったことがないから手拍子を加えていただけだけの「見る阿呆」だったのだけれど、たぶん盆踊りというのはそうやって「踊る阿呆」だけじゃなく周囲で適当に手を打っている者がいてこそ、総体として成り立つものなんじゃないだろうか。
『熱病夢見舞い』のもっともすごかったところは、会場の暑さ、熱気だった。エアコンがないときわ座には扇風機や簡易冷房が持ちこまれていたものの、それでもとんでもなく蒸し暑くて、全身から汗が噴きだすわ、頭が次第にぼーっとしてくるわで、まさに熱病にかかったみたいだった。俳優たちは暑さにやられて呂律が回っておらず、これを何回も上演するのはスポーツみたいな過酷さだ、なんて思っていた。
当日、私は、じゃっかん体調が悪かったこともあって、ときわ座を支配していた暑さには身の危険を感じるほどだった。それを含めて、あまりにもアトラクション型やライド型の演劇だったというか、アトラクションやライド以上のこわさ、すごみ、危うさみたいなものを演劇に宿らせていた。場所、時間、気候と環境、それらすべてが盛夏火の演劇の一部にさせられていた。
3.
『熱病夢見舞い』にすっかりやられたあと、私は、家に帰って、盛夏火の主宰者である金内健樹さんのYouTubeチャンネルで古い作品『生ホテル連れ込みガチデート かりん21才』を見た。そのおもしろさに、またしても打ちのめされた。
それから、8月や9月をとおして、盛夏火の過去作品や「団地演劇パーフェクトガイドブック」なる『MINDING MINING』を少しずつ見た/読んだ(劇団にしては珍しく、ほとんどすべての作品のアーカイブ映像が販売されているのがありがたい。こういうの、演劇関係者はみんなもっとやってほしい)。マーライオンが出演しているドラマCD(CDではないけれど)『転町生』を含めて、主要な作品は二周した。そして、『夏アニメーション』を見て大江千里の“夏の決心”がやたらとおしゃれな編曲であることに気づいたり、コクトー・ツインズの“Frou-frou Foxes in Midsummer Fires”を聴くたびに変な気分になったり、『大長編ドラえもん』や三津田信三の小説を読んだりと、不思議な変化を経験した。あまりにもハマりすぎて、仕事の合間に祖師ヶ谷大蔵まで聖地巡礼をしに行ったほど。
「金内さんはアニメをやりたいんだ」というのは『MINDING MINING』の座談会などで語られていることで、『熱病夢見舞い』の強烈な(演劇らしからぬ)違和感の理由は「まさにそういうことなんだ」と納得がいった。アニメのリファレンスや言及がある演劇は存在するとはいえ、「アニメをやりたい演劇」なんて聞いたことがない(もちろん、それは、2.5次元的ななんやかやとはまったくちがう)。そのおかしな志向性が、あの変わった、混沌とした、未整理で非洗練の魅惑的な世界を生みだしているのだろう。
私は記憶力が悪いので、映画も演劇も大抵のものは内容を忘れてしまう。でも、『熱病夢見舞い』のことは、観劇から2か月以上経った今もはっきりとおぼえている。
『熱病夢見舞い』が、ひいては盛夏火の演劇がそう簡単に忘れられないのは、ひとえに観客へ演劇を浴びせかけるような上演のしかたゆえで、チープな言いかたをすると体験型の作品だからだろう。今っぽく言えば「イマーシブ」とかになるのだろうけれど、ただ、「没入」というのとはちょっとちがう。なんというか、安易な考えで演劇を見にいったら、勝手に巻きこまれて、加担や共犯までさせられるような感じなのだ(梨の怪談のように)。
それは、盛夏火が観客や上演する舞台(祖師谷団地2号棟301号室だったり、せんがわ劇場だったり、ときわ座だったり)を、そこに確実にあるものとして扱うから。一般的な演劇は、観客がそこにいること、今ここにある舞台上で演劇をおこなっていることを不可視化し、透明なものとして直視するのを避ける嘘によって成り立っている。一方で盛夏火は、それらの嘘を自明の理としないで疑い、俳優と観客と舞台をおなじ俎上にあげて並べ、フィジカルで動かしようがない前提として作品や上演自体に組みこんでいる。最初の作品『スパイダーランド』においてイマジナリーラインをいじることに始まり、集会、上映会、お泊り会、お見舞い、お誕生日会、演劇コンクール、偲ぶ会という設定のもと、場所や時間、観客の参加を前提にした上演をおこなうことによって。
だから、観客は、盛夏火の企みに、否応なしに加担させられる。それが見事な形で結実していたのが、『スター・クルージング/パジャマ・キャンプ・アルファ』の前半や『アバンダンド・ネバーランド』の衝撃的な結末、『スプリング・リバーブ』の中盤以降の怒涛のアクロバティックな展開、そして今回の『熱病夢見舞い』だった、ということを完全な後追いとして盛夏火の活動をさかのぼって見ていくことで知った。
盛夏火は、上演の反復性すらネタにした。なぜなら、短期間におなじ内容の演劇を何回も繰り返し上演するのは、どう考えてもおかしなことだから。『涼宮ハルヒの憂鬱』の『エンドレスエイト』をそのままやったような『夏アニメーション』は8回目の公演だけ、『スター・クルージング/パジャマ・キャンプ・アルファ』は夜明けに上演した最終回だけ結末がちがう、というようなやりかたで。
また誰かの声が聞こえてくる。
「練習を何度もしたあとの、予定調和のやりとりっていうか……」
自分の勝手な想像だけれど、金内さんはそういう演劇的な嘘をつけない、つきたくないひとなのだろう。観客の目の前で上演しているのにその存在を無視して、生身の人間がフィクションの人物や物語を演じ、火や水や食べ物をそこにあるかのようにマイムで扱う、演劇という大嘘。上演が終わったら、俳優たちがやりきった感をたたえた満足げな表情で舞台上に並んでカーテンコールをおこなう、そのいびつさや馬鹿馬鹿しさ(『スプリング・リバーブ』でさんざんネタにされていたあれ)。「盛夏火ドグマ10」という縛りプレイにも表れているように、おそらく金内さんはそういったものの違和感に耐えられないんじゃないだろうか。そういう「演劇という大嘘」に対して、毎回、いちいち葛藤しているんじゃないだろうか。そして、その嘘から逃げない葛藤こそが、盛夏火がかける特殊な演劇の魔法の源なんじゃないかと思う。
というわけで、『熱病夢見舞い』をきっかけに、盛夏火の魔法に魅了された2か月間は、自分にとってまちがいなく2024年のベストモーメンツのひとつだった。願わくば、また来年、夏が盛る頃、盛夏火の演劇に巻きこまれたい。