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【茶聖】 譲歩できない立場と理想追及の鬩ぎあい

茶聖
幻冬舎 2020年2月20日 第1刷発行 2020年2月28日 第2刷発行
伊東潤(いとう じゅん)

この作品の表紙には、多くの書籍がそうであるようにタイトルと作者名が書かれているのですが、他の作品と異なる部分としては「茶」と「聖」の間に「Sen no Rikyu」と小さく書かれているところです。
特に事前知識が無くとも、「茶聖」と聞けば多くの方は「千利休」のことであると思い当たるのではないでしょうか。
この作品は、現代でも茶道の第一人者と認識されている千利休ですが、茶人としての活躍と同じくらいに豊臣秀吉の傍で政治や当時の大名に対して大きな影響力があったとも語られています。
茶道としては、直接の血筋ではないようですが、後妻の連れ後であった千少庵からの流れである「三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)」として現代にも受け継がれているとのことです。

本作では、茶人としての千利休ではなく、豊臣秀吉の側近として政治の世界で自分の理想を追い求める男の生き様を描く作品であると感じました。
もちろん千利休を主に書かれているため、茶道に関する情報も多く、その詳細も物語中に書かれるためあまり詳しくない方でも読むにはこまらないのではないでしょうか。

物語は天正19年2月、利休の屋敷にある不審庵にて茶を点てる場面から始まります。
歴史に詳しい方ならどのような場面か気が付くのでしょうね。
この場面は、利休が自害する直前です。
実際の利休の最後は、切腹をしたことは有名なのですが、なぜ武士でもない利休が切腹をする必要があったのか。このことについては謎のままとなっているそうです。最近歴史物を読む機会が増えてきて、前に書いた「じんかん 人と人が織りなす世界で英雄は何を目指したのか?」という感想文でも感じたのですが、実在の人物をテーマにする際に、歴史として記録が残っていればいいのですが多くの方はそこまで記録は残っていないのが普通だと思います。私たちが知っている歴史というのは、さほど多くない資料を作家さんが丹念に調べ、文章へ組み上げてくれたからこそ、生い立ちや性格などを知ることができるのだと思います。
この作品中の千利休は、私がこれまで思い描いていた利休とは全くの別物でした。
よくぞここまで茶人である千利休に対してのイメージを保ちつつぶち壊してくれたと、感嘆してしまいました。
茶の湯という文化を、ここまで意識したことはなかったのですが、この茶の湯の扱い方というのが素晴らしい。作品中に度々お茶をする場面が重要な決断や説得だったり、茶の湯という文化からはかけ離れたような政治的な扱いをされていながらも、「わび・さび」のような茶の湯に必要な精神的な部分はしっかりフォローされており、違和感なく読ませてしまう作者の力量を感じてしまいます。

茶の湯を通して、織田信長、豊臣秀吉という戦国時代を代表する二人に徴用された利休。
その裏には茶の湯を利用しようとする信長・秀吉に協力するように行動しながらも、逆に利用しようと試みる利休。
本の帯に「真の芸術家か、戦国最大のフィクサーかー。」と書かれていますが、確かにそのとおり。
生涯の最後を切腹で締めた男の、表と裏を楽しんでください。


それでは、ここからは触れていなかった「ネタバレ」を含みつつ、もう少し書いてみます。
ネタバレを読みたくない方は、ここで読むのをやめてください。
行数を10行くらい空けておきますね。









本当に読みますか?ネタバレありですよ?


では、書いていきます。

利休本人よりも、この作品の主人公は秀吉か?ってくらいに秀吉の描き方がはまりすぎてる。
ここまで、秀吉という男をしつこく、いやらしく、いかにも欲深って感じを全面に出しまくって書かれている話はあまり無いんじゃないかな、と思うくらいに徹底しています。農家に生まれて、晩年は日本を統一する寸前まで到達した男とすれば、確かにこのくらいの性格でないと無理っぽい感じはありますが、ここまで書きますか。。。

さて、本作の主人公は千利休。秀吉ではありません。
利休に関しては、読む前のイメージはほとんど明確ではなかったです。
茶道という文化を築き上げた人。
天下人に仕えていた人。
なんかガタイが武将よりも武将っぽい人。←たぶん、これは「花の慶次」のイメージかな?

知ってるようで知らない歴史上の偉人ですね。
そんな利休を作者である伊東さんは「歴史の裏側で暗躍する男」というポジションで書き上げたのが、まず驚きでした。確かに茶の湯という文化を流行させ、茶の湯の道具に価値をもたせた信長と秀吉であれば、そのような文化を推進する男は必要なのかもしれません。
それでは、なぜ利休がそのポジションに抜擢されたのか?

茶の湯に精通していた利休、今井宗久と津田宗及。この3人に共通しているのは堺の商人であるということから、信長・秀吉の目的はその財力にあったのだろうと思います。
天下人になるためには、または己の権力を維持するためには、兵力や家臣からの信頼、有無を言わせぬカリスマ性、民の人気等の様々な要因が複雑に絡み合い、最善の手を打っていく必要があります。それらをどう使っていくにしても絶対に必要になってくるのが「財力」です。

堺の財力を利用したい信長・秀吉は、それまでに行われてきた「領地」という有限の報酬に限界を感じ、自ら領地に変わる価値を持つものを創造し、そこに絶対的な価値観を植え付けていく。その標的となったのが、堺で流行しつつあった「茶の湯」だった。
茶の湯を商人だけの楽しみとするのではなく、下は農民から上は大名まで、誰もが夢中になるモノとして昇華させ、堺商人に利益を生み出す代わりに対価を得る。そう考えれば納得できます。

その中で利休という男が重く登用されたのは、商人らしからぬ豪胆さにあったのかもしれません。
信長・秀吉が利休を代表とする堺商人をうまく使ってやろうと考えているのと同じように、利休もまた「天下人」という全国に大きな影響を持つ信長・秀吉を利用して茶の湯を広めようと考えていたのでしょう。
利休が茶の湯に関してのみ非凡な才能を持ち、その他については凡才であれば、茶の湯はうまく利用されることにはなるだろうが、利休が排斥されることもなく、その後の歴史が変わっていたかもしれません。
利休が非凡であったからこそ、扱いにくい男であったことがその後の運命を決めてしまったように感じます。
利休が非凡であったことはその通りなのでしょうが、相手が天下人ともなれば相手のほうが一枚も二枚も才能が上。戦国時代という、自分の血を分けた家族ですら安心することができない時代に、肉親以上に安心できない武将を従え、敵対国を打ち破ってきた天下人。才能で出し抜くのは非常に難しい。
そんな相手に、真っ向から自分の意見を押し通そうとする利休。
もしかすれば、秀吉はそんな利休を相手に知恵比べのような、そんな楽しみを見出していたのかもしれません。利休にしてみればたまったもんじゃありませんが、政治という大きな舞台で非凡な者が策謀をぶつけ合う。
家臣達全員が自分に付き従い、意見する者もいない時代となれば、利休のような男は好ましい存在だったのかもしれません。

さて、本作を読み進めているうちに、私に一つの感情が芽生えます。
それは「切なさ」でした。
現代に生きる私は、秀吉がその後どうなるのか、利休がどうなるのか、茶の湯の隆盛、そういったことを、詳細は分からないながらも、断片的に知っているわけです。
利休の最後が「切腹」だったことも知っています。
表現があっているかどうかわかりませんが、利休と秀吉の勝負は秀吉に軍配が上がるのです、
この事実を知っているからこそ、利休が自分の考えうる未来に到達するために、秀吉を出し抜くために暗躍を続けるのです。もちろん利休の行動が無駄であったとは思ってません。利休の行動は事の大小はわかりませんが、間違いなく今の世の中を形作ることになったと思うのです。
そうは思っていても、自分の思い描く世の中に想いを馳せて行動する利休を見守るのはなかなかにつらいものがありました。

それと、利休の最後について。
利休は切腹という形で世を去りました。
この「切腹」という最後に、秀吉の利休に対する想いがこもっていると考えます。
本来切腹というのは、武士だけが行う作法であると聞きました。商人であれば、罪を犯せば磔や斬首といったことで刑を執行されていたはず。
いくら天下人である秀吉に近かったからといって、商人が切腹を賜るということは異例のはずです。まして、利休は秀吉にとって晩年は邪魔な存在だったはずで、そこまで利休や茶の湯に対して興味を持つことはなかったはず。
では、なぜ利休は切腹を賜ったのか?
やはりそこは、長年にわたる秀吉との関係が影響していると考えます。
大陸出兵を目論んでいる秀吉にとって、正面から苦言を呈してくる利休は目の敵だったはず。できれば、役目の終わったことを理解して、おとなしく余生を過ごしてほしかった、というのが秀吉の本音でしょう。
それでも、利休は己の信念を曲げることはできなかった。
秀吉に振り回され、自分が望まないことを行い、それでも茶の湯のため、来る新しい時代のために、利休は何があっても秀吉の言いなりにだけはなれなかった。
自分の立場を理解してほしかった秀吉、自分の理想のために少しでも歩み寄ってほしかった利休。
お互いがお互いのために動きたい気持ちはあっても、立っている場所のせいでそうできなかった二人は、もしかすれば心の奥底では深くつながっていたのかもしれません。
だとすれば、利休に送った切腹は秀吉の感謝の気持ちだったのかもしれません。
そして、切腹を受け入れた利休は、秀吉の期待に応えられなかった謝罪だったのかもしれません。
切腹という文化は、日本独特の考え方でありますが、私たち現代人にはその真意までは理解することはできないでしょう。
死を賜る。
己の信念と共に果てる。
感謝と共に果てる。
主に付き従うために果てる。
想像を絶する世界での話ですが、日本男子として生を受けたのですから、いつの日か理解できる日が来ることを信じて、日々精進していきたいです。

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