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【囚われの山】忍耐と因縁と執念と

囚われの山
中央公論社 2020年6月25日 初版発行
伊東潤(いとう じゅん)

この作品は、#読者による文学賞2020の推薦作品です。
私は二次選考を担当いたしましたので、読者による文学賞のHPに、読書感想文とはちょっと異なる「選評」なるものを書いております。
偉そうに書けるほど文学に精通しているわけではありませんが、そちらもリンクを貼っておきますので、読んでいただけるとありがたいです。
読者による文学賞のHPはこちらです


八甲田雪中行軍遭難事件。
実際に日本で発生した、世界でも例のないほどの規模となった事件。
120年前の日本で実際に起こった事件を下敷きにして、多くの歴史書小説を発表してきた伊東さんが、その顛末までを克明に描きなおした作品です。

もちろん、実際の事件をベースにしているとはいえ、伊東さんの考えが反映されたフィクションですから、この作品に書かれていることが真実ではありません。
ですが、真実が誰も知らないからこそ、この作品が真実ではないとも言い切れません。
そのくらい、雪中行軍時の描写は厳しさ、雪山の恐ろしさを的確に書ききっています。

作品のストーリーは、主人公の雑誌編集者である菅原が売れない雑誌の企画会議にて、八甲田雪中遭難事件のことを話題に出したことから、事件の新しい謎を探すために調査を始めるところから始まります。
残された資料、現地視察、文献の再確認と現代から120年前の事件を紐解いていくパートが前半部分。この現代パートだけであれば、この作品はそこまで魅力的ではなかったかもしれません。
後半部分に書かれている、雪中行軍パート。
そう、この作品は外側から事件を解体していくのではなく、大胆にも雪中行軍の状況を書面に再現し、何が行われていたのか、何が起きていたのか、そこを再現しています。
この雪中行軍パートの描写が素晴らしい。
ある男の視点から語られる雪中行軍は、事実に基づいて書かれたと言われても何の違和感もなく、軍という強固な組織が徐々に徐々に崩れていく様を、雪山という非日常の空間に飲まれていく瞬間を克明に描いています。

小説に何かを求めたりすることがあるかもしれません。
共感だったり、指南だったり、感動だったり、色々あります。
特に最近は、そういった内容の作品が多いような気もします。
ですが、この作品は良くも悪くも「楽しむために読む本」です。
娯楽のための作品だと思ってます。
難しいことは置いといて、作品を楽しむために消化する。
そこには、何かに共感したり、自分の進む道を照らしてくれたりということは、無い。
その代わりに、貴重な時間を消費して読み終わった後に得られる代価は「快楽」です。
極上の文章に酔いしれ、絶妙な構成に唸り、見てきたかのような文章力に取り込まれる。
これが快楽でなくて、なんであろう。

それでは、ここからは触れてこなかった「ネタバレ」を含みつつ、もう少し書いてみます。
ネタバレを読みたくない方は、ここで読むのをやめてください。
行数を10行くらい空けておきますね。









本当に読みますか?ネタバレありですよ?


では、書いていきます。

と、まぁ上で絶賛したわけなんですが、全てにおいて満足しているわけではありません。
一つだけ、これだけはちょっとという設定がありました。
それさえなければ、本当に私の中でも屈指の名作となったと思うのですが。
菅原と女性関係のエピソード、必要だったかな?
稲田や陸軍の方々が八甲田に囚われ、小山田が祖先からの因業に囚われている状況で、本作の主人公ともなる菅原にも何かに囚われるべきでは、ということだったのかもしれないが、うーん、ちょっといらなかったかなぁと。
囚われるにしても、なぜ女性に囚われるような設定にしてしまったのか。
菅原がストーリーを進めていく役割ではあるので、淡々と調べものをして歴史をなぞるだけでは物足りなかったのか。展開に、何かしらの起伏がほしかったのであれば、せめて離婚調停の話だけで終わらせておくべきだったのではないか。
せっかくの八甲田雪中行軍の精緻な調査や、稲田たちの迫真の行軍。それらが、現代の陰謀めいた、どこか現代の裏があるような言動で、一気に魅力を失ってしまうように感じました。

それでも、不満点はここまで。
この作品のすごいところは、不満点があったとしても、それを補ってしまうほどに遭難シーンの描写は圧巻の一言です。
史実をベースにしている作品だけあって、あまりに現実離れしたことは書けませんし、かといって淡々と静かに犠牲者が出るだけでは物語として成立しない。
陸軍という規律の厳しい組織にあって、それでもできる限り「生きる」ために模索したり、組織としての体裁を崩さないギリギリで行動したり。
人間が人間として扱われない組織の中で、人間らしさをどこまで描けるのか。
この作品の焦点は、八甲田雪中遭難事件の解決や真相を暴くことが目的ではなく、どんなときであっても、人間は人間としての尊厳を失わず、どん欲に「生」への渇望を失わないというところにあるのかもしれません。
そういう意味で考えれば、自分たちの保身のために稲田を殺害し、事件の真相を暴こうとしていた菅原を殺害しようとした小山田もまた、生への執着によって行動をしていたともいえるかもしれません。

前半部分の調査が主体になるシーンと、後半部分の稲田たちの行軍のシーン。静と動のように対比しておきながら、同じ題材を描いているところもおもしろい。
資料から読み解いていく「残された真実」と、資料にはない「抹消された真実」と。
この同時に成り立たない歴史を味わるのも、また小説の醍醐味。
たとえフィクションであっても、それが真実と言わせるほどに説得力があるのであれば、小説として内容に厚みが加わるし、面白くないわけがない。
だから小説はやめられない。

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流水
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