25年
やっぱり触れられずにはいられない。
当時、富士山の麓に住んでいましたが、自分自身が揺れを感じたかどうかは覚えていない。
早朝だっため、爆睡中だったかもしれません。
実家で使わなくなった小型のテレビを朝つけると・・・。
象徴的な画として使われる、阪神高速の横倒しや長田の火事。
ヘリの画像のみでのニュース。
まるで映画みたいだ と後日比喩されることもあったが、当日は何も考えられず、ただただ驚くよりなかった。
携帯電話の普及前で、借家に電話も引いて無く、大阪(北摂)の実家にも連絡は付かない。
取り敢えず寝起きのママ早朝から職場へ向かう。
電話を借りて、まずは実家に。
数回後に繋がり、無事を確認。
疎遠ではあったが、徳島の親戚と畦野の親戚に連絡。
電話の向こうでは、特に慌てた様子もなかったが、大阪発信では電話がつながらない(回線パンク?)らしく、再度実家へ無事の連絡。
ついでに、実家の無事を親の実家の佐賀にも連絡。
そのうち、大阪にも繋がりにくくなる。
そして、勤め先の大阪営業所(箕面)の連中が気になる。
所長に連絡がつき、所員達の連絡も確認できた。
そして、2-3日後くらいから、現地現場の映像が報道されるようになる。
阿鼻叫喚の地獄絵図といっても大げさではなかった気がする。
今でも、地元にいるときの足の阪急電車の伊丹駅崩壊の画は焼き付いている。
震源地からは離れていた実家でも、箪笥が倒れたらしいが幸い布団がクッションとなりけがはなかった様。
揺れているときは、障子がひし形になった などと、後日聞く。
その他は多少の家具の倒れや、外壁のヒビ程度ですんだが、近所でも玄関扉が開かなくなった とかもあったらしい。
畦野(加古川上流)の親戚は、ガスがダメになったらしく、一時期風呂は我が家へ借りに来ていたらしい。
当時は、東海地震の話ばかりで、関西は地震無くていいよねぇ なんて呑気な時代。
富士山のふもとにいた、自分の方が併行しての富士山噴火だと逃げようがないなぁ なんて・・・。
生まれる前の大災害の伊勢湾台風なんかも地域的にかなり影響があったらしい、当然知識はあるが体験はしていないので、なんとも現実味がない。
たぶん、これ以降に生まれた人たちもそうなんだろう。
風化させてはいけない と言うが、時の流れは残酷なもので、人は忘れていくものが無いと生きていけない生き物 であることを思い知らされる。
古い伝承の注意喚起も、なかなか ネ。
しかし、教訓や制度は無くならないので、阪神淡路以降には、いろいろとシステムが出来ている。
自衛隊の自主派遣だってこれが教訓。
1/4世紀も経った、、、、しか経っていない とも言えるが、復興が進むほどに忘却の彼方へ。。。
これだけ文明が進んでも、地球の息吹自体には逆らえない。
世界各地で、いろいろ起きているが、うんと引いてみると、ただの蟻んこの喧嘩にしか見えないのかもねぇ。
ではでわ。