じいちゃんと、30歳の誕生日
今年の1月、じいちゃんが死んだ。急性肺炎だった。年末に帰省して、元旦を迎えるまではピンピンしていたじいちゃんが、1月4日に入院してそこから急にだった。
ちょっとした体調不良だろうと深刻に考えていなかった自分は、じいちゃんが入院した翌日に金沢へ小旅行をしていた。入院して2日後、母から危篤の連絡を受けたとき、自分は石川県最北端の街にいた。本当はもう一泊する予定だったが、速攻でホテルの荷物をまとめ、タクシーのお釣りも受け取らずに金沢行きのバスに乗り、地元の駅へと急いだ。なんて交通の便が悪いところに来てしまったんだと自分を恨みながら、なんとか間に合ってくれと祈った。
5時間ほどかけて病院に着いたとき、じいちゃんはなんとか持ち直したようだった。その後、1週間弱の間、病院に通ってじいちゃんとあれこれ話した。肺が悪く息がしにくいせいで、途中から言葉が話せなくなり次第に反応も薄くなってきたが話し続けた。
じいちゃんは豆腐屋の、たぶん3代目だ。たぶん、というのは正確な情報が文面で残っていないから。100年以上続いているが、いつが創業日なのかも分からない。ほんの最近まで、10キロある米俵を担いで走るくらい元気なじいちゃんだった。ばあちゃんと一緒に朝早くから起きて働き、誇張なしで1年のうち350日くらいは働いていた。休むのが嫌いで、とにかく働いていないと気がすまない人だった。
金沢に行く前に「龍太郎、箸買ってきてくれや」と言われたので、輪島塗りの名入りの箸を家族分買って帰った。結局使わずじまいだったけど、病床で見せたら喜んでくれた。
じいちゃんとは色々話した。薬の副作用で辛そうにしながらも、何も言い残すまいと言わんばかりに色んなことを話してくれた。でもその多くはあんまり聞き取れなかった。呼吸器つけてるし、そりゃそうだ。
けど亡くなる4日前、見舞いにいった自分とばあちゃんに、じいちゃんが言った言葉が2つある。ちゃんと聞き取れた最後の言葉だった。
ひとつはばあちゃんに言った、「豆腐屋はどうするんきゃ」。多分じいちゃん自身も先が短いことは分かっていただろう。そんなギリギリの状態なのに、まだ店の心配をしていた。機械はどうするんだ、余ってる大豆は捨ててくれなど、ずっと仕事の話ばかりをばあちゃんに訊ねた。「できるわけないだろうよ」とばあちゃんは言った。「早く治して帰ってこないと豆腐屋つぶれちゃうからね」。腹の底にずっしりきた。
もうひとつは自分に言った一言。「家族を愛すること、奥さんを愛すること、子どもを愛すること。これが大事だからな。よろしく頼むな」。 かすれた声で聞き取りづらかったが、多分こんなことを言っていたと思う。じいちゃんが突然「愛する」とか言うなんて、と面食らった。普段帰省するたびに「みかん食うか?」「飯食ったんきゃ」「もう帰るんか、次はいつ来るんだ」みたいなことしか話さないじいちゃんから出たその言葉は、不思議なくらいすっと体に馴染んでいった。この話をすると、父も母もみな驚いていた。
じいちゃんが死んだあと、じいちゃんの知らなかった話を色々聞いた。昔は(怪しげな)漢方を売っていたこと。豆腐屋の片手間でやっていたマッサージの評判が良すぎて客の減った同業たちの反感をくらったこと。いまやほとんど価値がない小さな土地をあちこちに持っていること。米が売れ残って困っている米屋に「俺が買ってやるから全部持ってこい」と助けてあげたこと。
亡くなった翌朝から、家には人がひっきりなしに出入りし別れを惜しんでくれた。近所のひとからお偉いさん方までさまざまだった。
葬儀の当日、式場に並んだ大量の花輪たちを見て舌を巻いた。「すげーー」。しばらく動けなかった。たまにテレビで見る有名人のお葬式みたいだった。これだけ世話になったり、世話をしたりした人たちがいたのか。これだけの人たちが死を惜しんでくれるのか。直近で撮ったいい写真がなかったおかげで、遺影に映った20年くらい前の若いじいちゃんはいい顔で笑ってた。
じいちゃんが死んでから、その偉大さを改めて噛み締めた。
生き方に正解なんてない。偉大なじいちゃんに感化されて「いますぐ実家に帰って豆腐屋を継ぐんだ」とは、まだ正直思えない。じいちゃんごめん。大学のときに上京させてもらって、いろいろな経験をして、好きな仕事をして、家族もできた。もう自分だけの人生じゃないいまの生活を急激に変えることは難しい。でも「いつかは俺が」という気持ちは確実に強くなった。
明後日で30歳になる。いつからか自分の年齢を気にしなくなったが、否が応でも気にしてしまうひとつの節目を迎えた。
尊敬する人生の先輩たちはみな「30を過ぎてからが楽しい」と言っていた。
じいちゃんは86歳だった。まだじいちゃんの1/3しか生きていないじゃん。余裕でなんでもできるじゃん。元気に楽しく前向きに、そして愛を忘れずに。