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「なぜ学校で文学を学ぶのか」を国文学科の大学生が真剣に考えてみた

今、僕たちは未曾有の事態に直面しています。生活は大きく変動し、先の見えない不安からか、精神がすり減って攻撃的になっている人もよく見られるようになりました。

こんな大変な世の中ではありますが、僕は今こそ文学の力が必要だと強く思っています。じゃあ、文学の力って一体何なのだろうと考えたとき、それは文学を学ぶ意味に直結すると思うのです。そして、それこそが「なぜ学校で文学を学ぶのか」という問いに一つの答えを与えてくれるのだと思います。

まだ齢21の若輩者ではありますが、未熟なりに真面目に考えてみました。この記事が、読者の皆様がご自身におかれましても、文学について再考する一つのきっかけとなれば幸いです。

大分硬くなってしまいましたが、本編はもう少し柔らかくなってますので、是非お気軽にご覧ください!

「文学を学ぶ意味」って何なのだろう?

ほとんどの方、初めまして!竜泉寺成田と申します。普段は少し不思議な短編を何とか毎日投稿しようと奮闘している大学3年生です。

さて、早速ですが、みなさんは学校で小説や古典のテストを受けている時、次のような疑問を抱いたことはありませんか?

「登場人物の気持ちなんて分からないよ」

「こんなの将来の役に立つの?」

ほとんどの人が一回は思ったことがあると思います。かくいう僕も中学生まで、いくら勉強しても読解は的外れ、作文はからっきし、できるのはせいぜい漢字を覚えるくらいという感じで、国語という教科が大の苦手でした。

とにかく活字は頭に入らないし、何をどう答えたらいいか分からないし、国語のテストを受けているといつも「なんでこんなことしなくちゃいけないんだろう」と思っていたものです。

そんな国語嫌いだった僕ですが、今や文学部のその中でもよりによって国文学科に通っているんですから、人生ってとことん不思議だなぁと思います。

まあ、ぶっちゃけ僕が国文学科を選んだのは純粋に「作家になりたい!なら本を読むしかない!国文学科に行こう!」くらいのノリでしたが、受験勉強をしたり国文学を勉強していくうちに

「文学を学ぶことにはどんな意味があるんだろう」

こんな疑問を持つようになりました。

そんな時、ある大きなニュースが飛び込んできました。センター試験に代わる共通テストのニュースです。

共通テストは英語の民間試験問題や採点への民間企業の介入問題などが大きな波紋を呼びましたが、実は国語も大きな改変を受けていたのでした。

それが「実用文」の導入です。契約書や規約などを読み、論理性を試すという趣旨でした。そのため、教育課程は従来の国語総合に加え、「論理国語」なるものが増えるという話でした。

僕はこの話を聞いた時、どこか違和感を禁じ得ませんでした。「実用文」で「論理能力」を図る。その時はうまく言葉にできませんでしたが、どこか文学が蔑ろにされているような気がしたのです。

だから、僕は「文学を学ぶ意味」を真剣に考えてみることにしました。改めて文学というものの実態に正面から向き合おうと思ったのです。

それにはまず、逆に「なぜ文学を学ぶことに意味がないと思うのか」を理解しないことには始まらないと思い、そこから考えてみることにしました。

「登場人物の気持ち分からない」問題

いきなり話がそれますが、僕は東海オンエアというYouTuberが大好きです。受験の時も試験勉強の時もBGMのように流してラジオ感覚で聴いてるくらいです。

その東海オンエアの人気企画に文理対決というシリーズがあるのですが、その中に「文理ラップ対決」という動画があります。そのリンクを貼りますので、時間がある方は、動画をご覧ください。ちなみにめっちゃ面白いです。面白いと思った方、これを機に他の動画も見てください(宣伝)。時間がない方は6:30のシーンを見て頂ければ大丈夫です。

このシーンでは、メンバーのしばゆー(敬称略)が「作者の気持ち?そんなの知らねぇよ 俺たちが欲しいのは明確な答えだ」と歌います。これを思い出し、僕は「なるほど」と納得しました。

最初に文学に苦手意識を持つきっかけとして最も多いのは、テストで「登場人物の気持ちなんて分からない」と感じたからではないかと思ったのです。

文学作品、特に小説がテストに出てくると、登場人物の心理状態を説明させるような問題が必ずと言って良いほど出てきます。こうした問題では、「自分はこう思ったのに正解ではない」ということが起きやすい。すると、「別に自分の書いた答えでもいいじゃないか」という気持ちが湧いてきて、その理不尽さに嫌気がさし、「自分には文学は向いていない」という気がしてくる。だから、「文学なんてやっても無駄だ」となってしまう。

こうした経験からくる「答えの曖昧さ」への反感が恐らく小説への苦手意識、ひいては国語嫌いを生む大きな要因になっているのは間違いないと思います。

この「登場人物の気持ち分からない」問題を前にすると、これは中々難しい問題だと思うようになりました。確かに僕も昔はそういう思いをしたし、何より文学の読みは多様であるべきだという考えが僕の中にあったからです。

ただ、いくら様々な読みに寛容であるべきと言っても、あまりにとっぴな根拠のないものは認められないのも事実です。僕はこの大きな疑問に対する一つの答えを、そこに見出しました。

なぜ登場人物の気持ちが分からないのか。それは「登場人物の気持ち」そのものの誤解にあるのだと思います。

「登場人物の気持ちが分からない」という人は、自らをその登場人物に置き換えて、感情移入しようとします。僕も昔はそうしていました。そうするとなんかいろんな感情が渦巻いて、訳分からなくなってきます。その結果求められる正解ではないものを書いてしまうんです。

では、何がいけないのでしょうか。

答えは視点です。感情移入すべきなのは、実はその心情が聞かれている登場人物本人じゃなく、彼ないしは彼女を見る他者なんです。

もっと丁寧に説明します。

まず、こうした問題で問われているのは「主観的な心情」ではありません。あくまで「客観的な心情の流れ」なんです。

つまりどういうことかというと、答えるべきなのは状況や態度・台詞などその登場人物の客観的な描写から読み取ることのできる心情なんだということです。

だとすると、主観的な心情を答えるのは問題の意図からずれてしまいます。その人がどう思っているのかなんて、本当のところはその人以外誰にも分からないのですから。

例えば、実生活において考えてみてください。友達と遊ぶとき、先輩や上司と話すとき、恋人と語らうとき、僕たちはその人の置かれている状況やその人の醸し出す態度、その人の発する言葉から、相手の心情を推測します。その人が腹の底で何を考えているかということは、本当のところ分かりません。

その時「その人の気持ちなんて分からない」と匙を投げるでしょうか?多分、色んな情報を加味して、総合的にその人の心情を推測すると思います。

小説や古典の読解も同じです。求められているのは、本当の感情を答えることではありません。大事なのは、様々な客観的要因から、僕たちが普段友達に寄り添うときのように心情を追おうとするその営みなんです。

そう考えると、文学のもつ意味の輪郭がうっすら見えてくる気がします。僕はさっき、文学を理解する例として実生活を取り上げましたが、本当は逆で、僕らは文学を通して実際の生活を理解しているのだと思います。

このように、文学は僕たちがどう生きていくのかということに大きく関わっているのだ、ということが少し分かりました。これは文学の意味を考える上で大きなとっかかりになります。

しかし、この問題はかなり複雑なので、最後に回すことにして、もう一つ別の理由を検討することにしましょう。

国文学科はなぜ人気がなさそうなのか

別の理由を検討するその前に、少し寄り道をさせてください。お急ぎの人は次の見出しから見ても問題ないですが、議論を進める上で必要なのでしっかりと書き残しておきます。では、進めます。

僕は今、文学部の国文学科に通っているんですが、国文学科というとどんなイメージを持たれるでしょうか?正直珍しい、というかあんまり人気がない学科だという印象を抱かれる方が大勢だと思います。

まあ、実際お世辞にも人気があると言えないのは事実です。やっぱ、文系だったら学部は文学部よりも法学部・経済学部の方が人気だし、同じ文学部内でも学科レベルだとどうしても心理学とか社会学の方が人気があります。

なんでこんなに人気がないんだろうなあ、とたまに考えてみたりもするんですが、そうするとやっぱり将来のことが頭にちらつきます。言ってしまえば就職です。他学科・他学部に比べて国文学科は就職に不利なのかなという気が、何となく起こってきます。もちろん純粋な興味から学部を選ぶ人もいるんでしょうが、多くの人は就職に有利かどうかで学部や学科を選ぶ傾向にある気がします。だから、国文学科を選ぶ人は全体的に少ないのではないかと思うのです。

もちろん、ただの大学生の肌感ですし、就職に有利も不利もないのかもしれません。実際そういう話も聞きます。ただ、問題なのは実際どうなのかじゃなくて、「就職に不利かもしれないというイメージがある」という事実だと僕は思うんです。こうしたイメージは国文学科だけじゃなくて哲学科とかも割と一般的に抱かれていますよね。

現に今国文学科を選んで、就職を目前に控えている僕ですらこんな曖昧な印象のまま漠然とした不安を抱えているので、実際に進路を選択しようとしている高校生の人なんかは一層よく分からないんじゃないでしょうか。

そうだとすると、まずいことが起こります。高校生の人たちは国文学科に来なくなります。国文学科消滅の危機です。このままではどんどん需要がなくなって、国文学科の数が減り、国文学研究自体が衰退してしまいます。それは国文学科にいる身としてはあまりに悲しい。

ではなぜ、他学部や他学科は就職に有利で、国文学科は就職にはあまり向いていないと考えられるのでしょうか。これを次のテーマにして先に進みましょう。

「実用的」が求められる時代

そもそも国文学科を選ばない人からしたら、「文学研究って何か役に立つの?」という疑問が湧くと思います。正直、こんな質問をされたらたまったもんじゃありません。この場合の役に立つってのは暗に「社会で」もっと言ってしまえば「仕事で」という前置きが含まれていますから、その場合答えは限りなく「NO」に近いと思います。

国文学科で学んだことが必ずしも役に立たないとまでは言いませんが、それも出版業とかそれこそ作家とか特殊な職業以外では、あんまり役に立たないかもしれません。まあ、それなりに文章力はつきますが、それだって単に本を読んだ、または文をたくさん書いた結果からついた力であって、別に国文学科で学ぶ必要もない気がします。

こう答えると、「あ、やっぱり就職に不利なんだ。やーめよっ」って思われて悲しくなってしまうのですが、勘違いしないでいただきたいのはこれはあくまで「仕事」の話であるということです。

逆に考えてみましょう。「仕事で」役に立つ学問というと何でしょうか。法学や経済学、心理学が思い浮かぶと思います。これはまさに今、人気のある分野です。

ここで思い返してみたいのが、冒頭に話した共通テストの問題です。導入が検討されたのは「実用文」でした。その意図を噛み砕いて推測してみると、僕にはどうにも国語を実用的なものにしたいという思いが感じ取れます。そして、それは同時にそれまでの国語は「実用的でない」という判断が下されたということも意味する気がするのです。

何が言いたいかというと、結局、今、学問分野の価値として重要視されているのは「実用的か」どうかなのだということです

それはなぜか。答えは明白です。「実用的」で「使える」方が就職に有利だからです。だから、法学部や経済学部、心理学や社会学が人気なのです。

こうした「実用性」の神話が、テスト勉強中の「これって何の役に立つの?」という問いの生まれる背景になっています。そしてそれは、疑問というより反語に近く、答えが既に用意された問いです。その答えとは「何の役にも立たない」なのです。

話が大分膨らみましたが、本筋に戻ると、問われているのは「なぜ文学を学ぶ意味がないと思うのか」ということでした。それに対する答えは、つまり、「何の役にも立たないと思うから」なのです。

では、「実用的」でない文学は本当に「何の役にも立たない」のでしょうか。言い換えれば、「実用的」でないものに本当に意味はないのでしょうか。

答えは否です。詳しくは後述しますが、むしろそのような考え方こそが逆説的に文学に意味をもたらしているのです。

では、文学の存在する意味とは何でしょう。また、僕たちが文学を学ぶ意味とは何なのでしょうか。少し長くなりますから、見出しを改めることにしましょう。

「実用文」と「論理国語」という言葉に隠された価値観

いよいよ、本題である文学の意味について考えていく訳ですが、その前に一つの疑問を解決してから考察をしていこうと思います。

冒頭で「共通テストにおける国語の改変が文学を蔑ろにしているような気がするがうまく言葉にできない」というような話をしたのを覚えているでしょうか。このあたりでそれを言葉にしてみたいと思います。

僕が引っかかったのは「実用文」と「論理国語」という言葉でした。「実用文」に関しては、前の見出しで紹介しましたね。わざわざ「実用文」が導入されるということは、何だか文学に「非実用的」という烙印が押されているような気がします。そして、詳しくは後述しますが、その裏にある「実用的であるべきだ」という不文律がある種強迫的に働いていることが問題なのだということを言いました。

同じことが「論理国語」にも言えるのです。わざわざ「論理国語」を導入するということは、暗に文学では十分に論理能力が養成されないと言っているのと変わりません。文学は「非論理的」だというのです。

つまり、あの改変というものの裏には「文学とは非実用的で非論理的なものである」というような価値観が働いていたのです。

僕が文学を蔑ろにしていると感じたのはおおよそこの部分でした。

そもそも、文学が「非論理的」だというのはひどい誤謬です。確かに、登場人物の心情を問うような問題を見ると、本文に書いていないようなことが答えになっていたりします。しかし、それは文学の論理性を否定するものでは決してありません。

こうした問題を解くには、意図的に制限された情報の中で、あらゆるヒントを寄せ集め、そこから本文に明示されていないことを頭の中で構築していく必要があります。

散りばめられた条件から辻褄が合うように目に見えていない事実を構築していくという点において、文学の問題というのは寧ろ高次の論理性を有していると言えるでしょう。

文学は実は、とても論理的な学問なのです。

そして、こうした論理構築の作業は文学の果たす役割において非常に重要なものとなります。

それでは、その役割とはなんなのか。保留していた「実用性」の問題と絡めて考えていきましょう。

合理主義の持つ暴力性

これまで、文学は「非実用的」だとされているという話をし、その背後にある不文律が問題だと述べてきました。

これがどういった点で危険を孕んでいるのかということを考えながら、それを契機に文学の役割を考えていきたいと思います。

今、経済は資本主義が支配し、僕たちの生活もそこに組み込まれています。この近代化の過程で最も大きいのは合理主義でしょう。僕はあまり哲学や経済学に明るくはないので、ここでの合理主義というものは「無駄なものが省かれ、効率的であることが最上だという考え」というくらいで捉えてください。「実用的」という言葉はまさにこの考えの延長上にあります。

確かにこうした考えは圧倒的に正論であり、現に今の人類がここまで物質的に豊かな生活を送ることができているというのはその影響がかなりを占めています。

ただ、僕はこの合理主義を恐ろしく思います。それは、その内に「正当化された暴力」が秘められているからです。

もう少し丁寧にお話しします。こうした合理的・効率的な考えのもとでは、無駄なものは問答無用で排除されます。それが正義であり、その排斥行為は思想による免罪符を得て問答無用に執行されます。言い換えれば、無駄だと判断できれば切り捨てることが許されているのです。

これはとても危険ではないでしょうか。例えば、多数決は非常に合理的ですが、少数派を問答無用に切り捨てるシステムです。しかし、その少数派の意見にこそ真実が含まれている可能性もあります。

このように、合理主義には暴力が正当化されている一面があります。それはとても恐ろしいと僕は思います。

この問題を合理主義の延長上にある「実用性」に当てはめたものが、これまで散々論じてきた昨今の文学の軽視を引き起こしているメカニズムです。社会に出る上で、仕事をする上で、役に立たないから文学は必要ないというのです。

僕は、それこそが文学が必要な理由だと思います。かなり逆説的ですが、文学の果たす役割はこれを正すことにあるのです。

文学の果たす役割

論理性のところで話しましたが、文学の問題には、明示されていないものを論理的に想像で補わせる働きがありました。

文学の果たす役割はそうした作業の延長にあります。どういうことかと言うと、文学は抽象的なものの様相を頭の中で捉えて、それを遠くから眺め、論理的に相対化する営みなのです。

僕が思うに、文学というのは科学や政治や経済などでは解決できないことを引き受けるものです。そして、そういうものは決まって具体的な様相を持たない漠然とした問題であることが少なくありません。

文学にはこうした目の前に立ち現れてこない抽象を相対化し、従来のシステムや価値観を批判する力があります。合理的に説明しえないもの、合理性から省かれたもの、そういったいわば社会の残滓を掬いとるのが文学の役割なのです。

合理主義は文学を意味のないものとして排斥します。しかし、文学は無駄として切り捨てられたものを救うことで、そうした合理主義の暴力性を明らかにします。そうして、かえって自らの意味を打ち出すのです。

では、文学の対象とするものは何か。文学が引き受けるものとは一体何なのか。

それは人間の問題です。恋愛や友情といった人間関係、アイデンティティ、生や死への不安、世界のことわり......実用的な分野ではどうしようもない問題。それらはみんな、実際的な、切実な、人間の問題です。

文学は人間性を担います。法学や経済学など「実用的」な学問が、人間存在のハードを担うなら、文学は人間存在のソフトを担います。

文学とは、どこまでも人間に寄り添うものなのだと僕は思います。

ただ、これはあくまで文学の存在する意味です。これでは、文学を学ぶ意味はまだ分かりません。

最後に、これまでの議論を踏まえて、僕たちが文学を学ぶ意味を真剣に考えることにします。

体験を経験に、あなたを豊かに

一つ前の見出しで、文学そのものの存在意義という大きなテーマについて話しました。しかし、これは僕らの実際とはかなり離れています。僕らはあくまで観念ではなく現実に生きています。もっと身近に、僕たちが自分のこととして理解できる意味が必要です。最後にそれを考えたいと思います。

結論を最初に述べてしまうと、僕らが文学を学ぶのは、きっと体験を経験にするためなんだと思います。

体験と経験の何がどう違うのかと疑問を抱かれると思うので説明します。

僕らはこれまで生きてきて、膨大な体験をしてきました。あなたが見たり、聞いたりしたそのすべては体験です。しかし、その中で残っているものはそう多くありません。

過去のことを思い出してみてください。恐らくある一部の出来事が思い出されると思います。

人は過去を振り返る時、必ず何かにフォーカスをして思い出します。これは少し単純化しすぎていますが、そこで思い出されるのが経験だと言っても大きくは外れないでしょう。

つまり、体験とは知覚した事象すべてのことで、経験とはその中でその人なりに意味づけられて残っているものです。

では、体験が経験になるとはどういうことなのでしょうか。

そもそも、僕らは言葉で世界を理解します。世界のあらゆるものを言葉によって切り取っていく、それが僕らの世界理解の方法です。

しかし、言葉というのはそれ自体では機能しません。実は、言葉はそれ自体が意味を持つものではなく、その背景にある思想や文化といった枠組みの中で初めて意味を持つ有機的連関なのです。

難しいことを言っていますが、要は僕らはある枠組みを当てはめることで、言葉を起動させ、世界を理解しているのだということです。

つまり、世界を理解する大事なのは枠組みです。あらゆる事象はこの枠組みを通ってふるいにかけられて、「私」という存在に取り込まれていきます。

僕らの身体を通り過ぎていく体験はみんな、僕らの思考や文化という枠組みでふるいにかけられて理解されます。もっと分かりやすい言い方をすれば、僕らの見る視点によって、体験が切り取られていきます。

こうした枠組みや視点は、思想や文化によって支えられます。宗教や哲学も枠組みを作り上げるのですが、大事なのは、実際的な視点を作り上げるのは文学なのだということです。

文学は仮想的なある経験です。僕らは、文学を読みながらその中の人物が、体験をいかにして切り取り経験に仕上げていくのかという過程を常に目の当たりにしながら追いかけます。これはいわば、追体験ならぬ追経験です。

僕らはこうして体験が経験になるのだという瞬間を自らに積み重ね、大きくきめ細かい枠組みを築き上げていきます。

そうして、体験はこの文学的な枠組みによってふるいにかけられ、経験となって「私」を形成するのです。

このように、文学は僕ら、いや、「あなた」自身に強く深く関わっています。

「登場人物の心情分からない」問題の章で、「僕らは文学を通して実際の生活を理解している」と言いました。

文学は体験を経験にする枠組み(視点)を豊かにし、鮮やかな経験を豊富に蓄積する一助となって、僕らのアイデンティティの形成に大きく貢献してくれます。

よく若者は人生経験がないと批判されがちですが、人生経験というものはただ生きるだけで身につくものではありません。それはこうした文学的営みを通した努力の後に初めて得られるものなのです。

人生体験ばかりしていても、人間性は育ちません。貧しい人間性では、一度しかない人生までもが味気ないものとなってしまいます。だからこそ、僕らは文学を学ぶのではないでしょうか。そして、文学を通して実際の生活を理解し、経験に仕上げて、自分を作り上げていくのです。

それこそが、文学を学ぶ意味であり、そうした営みに触れるということに、表題である「学校で文学を学ぶ意味」というものがあるのだと僕は思います。

これからの文学のかたち

ここまでお読みいただきありがとうございました。ずいぶん長くなってしまいましたが、いかがだったでしょうか。

途中、観念的になって難しくなったりもしましたが、何とか考えをまとめられてよかったです。

僕は今回「学校で文学を学ぶ意味」ということをテーマに取り上げ、文学を小説を代表とする活字に限定して論じました。もちろん、こうした古典は上質で、触れるべきものであることは疑いようが無いと思います。

ただ、今、文学というのは文字媒体に限られるものではありません。それこそ、映画だったり、漫画だったり、漫才であったり、文学的要素をもった表現形態というのは多岐に渡ります。

昔は表現方法が限られていたこともあり、クリエイティブな天才たちは皆文学の道についていました。

しかし、これだけメディアの種類の増えた今、昔なら文学に携わっていたはずの天才は、違う方法で表現をしているかもしれません。少なくとも僕はそう思っています。

ですから、文学を学ぶと言っても、必ずしも本に触れる必要はないのかもしれません。それこそnoteもそういう場なのだと思います。

そう考えると素晴らしい時代なのではないでしょうか。漫画でも映画でもドラマでも何でも文学は一つじゃない。僕らは今楽しみながら、枠組みを育てることができるのです。

かといって、古典的な文学をおろそかにしていいかというとそれも違う気がします。あらゆるメディアの基礎に文学があるのです。だからこそ、最低限の基礎を僕らは学校で学ぶのではないでしょうか。

人間や世界を考え、日々を豊かにそして鮮やかにし、自らの生に意味を見出すために、このような時代だからこそ、今僕らには文学が必要です。

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