
まいにち易経_1231【完成なき挑戦の哲学:未完成に終わる】
ある企業の新人研修に招かれた老易学者が、
未来のリーダーを担うポストZ世代の若者たちに向かって語る
未完成というテーマには、極めて深遠な美学が秘められています。
易経六十四卦の最後を飾る「火水未済」という卦は、この未完成という概念の哲学的な本質を象徴しています。一見、「未済」という名前からは物事が未だ成し遂げられていないことへの嘆きや不満を感じるかもしれません。しかし、この卦が示すのは単なる不完全さの指摘ではなく、「未完だからこそ無限の可能性が広がる」という深い洞察なのです。
完成とは、しばしば終焉を意味します。何かをやり遂げた際に得られる満足感は素晴らしいものですが、その裏には停滞や硬直というリスクが潜んでいます。もし完成を最終目標としてしまえば、その先の探究心や挑戦心は失われるでしょう。人は満足に浸ることで、いつしか成長を止めてしまうのです。しかし、自らの未完成を自覚するならばどうでしょう。人は謙虚でいられ、新たな目標を見据え、進化し続けることができます。未完成を受け入れることは、次なる成長への扉を常に開き続けることなのです。
自然界の営みを観察すれば、この原理はさらに鮮明に浮かび上がります。木々は四季を巡りながら成長を続け、「これで十分だ」と立ち止まることはありません。川の流れもまた、絶え間なく進み続け、新しい形を創り出していきます。この変化の過程こそが生命そのものであり、未完成が進化の本質であることを教えてくれるのです。もし木々や川が「もう完成した」と思い込んだならば、自然界そのものが停滞し、生命の営みが途絶えてしまうでしょう。
この未完成の美学は、芸術の世界でも輝きを放ちます。ミケランジェロの未完成彫刻群「奴隷像」は、大理石の中に取り残されたかのような未完成の姿を見せながらも、観る者に無限の想像力を掻き立てます。その未完成性が、作品が「まだ完成され得る可能性」を永遠に感じさせるのです。同様に、文学の中でも未完成作品は読者の想像力を呼び起こし、物語がどのように続くかを考える余地を与えてくれます。この「余白」こそが、未完成が持つ力の源泉なのです。
さらに、科学の進歩に目を向けても、未完成がいかに重要かが見えてきます。科学者たちは、現時点での知識を「完成された真実」とは見なさず、常に新しい発見に向けて挑戦を続けています。例えば、宇宙の探査やAIの進化など、どの分野を見ても「未完成」という状態が、次なる革新を生むための原動力となっていることは明らかです。
そして私たち自身もまた、未完成な存在であることを恐れる必要はありません。むしろ、それを喜びと捉えるべきではないでしょうか。未完成であることを自覚する人は、謙虚さを持ちながら新たな挑戦を続けることができます。その一方で、自分を「完全無欠だ」と信じる者ほど、実はその瞬間から成長の可能性を閉ざしてしまいます。未完成とは、成長を促す原動力であり、人生における終わりなき探究の証なのです。
未完成という状態は、私たちに新たな夢や目標を抱かせ、挑戦を生み出すエネルギーの源泉です。それは哲学的にも実践的にも、人間が進化し続けるために欠かせない条件なのです。易経の「未済」が説くのは、まさにこの絶え間ない進化と変化の精神に他なりません。未完成を受け入れることで、人はどこまでも成長し続ける存在でいられるのです。未完成とは、私たちが未来を切り開き、無限の可能性を手にするための贈り物なのです。
参考出典
未完成に終わる
易経六十四卦は、火水未済という未完成の時を説く卦を最終に置いている。
完成を終わりとして満足しては、発展がない。人は、自分が未完成であると気づくと謙虚になり、努力成長しようと思う。
未完成であれば、窮まりなく成長し続ける。人は常に新たな志を持ち、どこまでも伸びゆくべきである。
#まいにち易経
#易経 #易学 #易占 #周易 #易 #本田濟 #易経一日一言 #竹村亞希子 #最近の学び #学び #私の学び直し #大人の学び #学び直し #四書五経 #中国古典 #安岡正篤 #人文学 #加藤大岳 #火水未済