インド|地獄の夜行バス
標高2,050mの町マナリへ向かうために、まずはヴァラナシからデリーまで人生初の寝台バスに乗ることになった。30分ほど遅れてバスがバス停に到着し無事に乗れたと安心しかけるも、2人用のシートが想像を超えるほどの狭さで、棺桶の方が寝心地が良いのではないかと思うほどのものだった。
この時点で既にある程度の不安があったのだが、それに追い討ちをかけるように走り出した車体がうねった道路に沿ってジェットコースターのように上下する。車酔いに非常に敏感な僕はこの先がすごく心配になっている中、マオくんは揺れを楽しみ始めており笑顔で「おー、これは上がるねぇ」など口ずさんでいる。
エアコンが効き過ぎているため、空調の調整が難しい。止めたら暑いが、自分に向けたら低音やけどになってしまうほど冷たくて痛い。この後に乗ることになるバスに比べると大したことはないのだが、この時点でも嫌な気持ちになっていた。気がつくと眠っており、目覚めた頃には朝だった。バスは停車していて、休憩かと思い外に出る。
単なる休憩かと思っていたが、なんらかの理由で乗っていたバスが動かなくなり、これから来るバスに乗り換えることになったらしい。
次のバスが来るとインド人は自分の席の確保のために早々と乗り込む。そんな中で、少し険しそうな顔をしたマオくんはその流れに逆らうように「ちょっと荷物みててくれん?トイレに行ってくる」と言い、トイレに行った。このように彼の腹痛は絶妙なタイミングに来ることが多々ある。
先に出発してしまうんじゃないかという恐怖に駆られ、彼の荷物の安全性を確信したところで先に乗り込むことにした。乗り換えたバスの座席は1席だけ空いており、僕が座ると満席になった。
全員を待たせたマオくんは、無事に乗り込むことができた。さぁ席はどうなるんだと見ていたが、僕が座れないと思っていた荷物が山積みになっている席があったのだが、荷物を持ち主たちがどけて、席を開けてくれている。そして彼は非常口に一番近い特等席を手にいれた。僕が座っている席より、眺めも良い席だった。やはり彼はついている。そして、残り物には福がある。
彼は、すぐに眠りについていた。一方、僕は完全に目覚めている。窓から見える横に流れる景色も良いが、進んでる先を眺める方が好きである。バスの先頭には、運転席の真横に一人座れるスペースがあって、ずっと座っていても問題ないとのことだったので、到着までここにいることにした。
もしこのバスが事故るとしたら100対0で運転している彼に負がない事故か、抗うことができない天災の二択しかないだろう、と思うほど彼は運転が上手だった。
デリー到着後、すぐにマナリ行きのバスを予約した。バスの移動で疲れている中で、また今夜も移動しているバスの中で寝なければいけないのは気持ちが落ち着かなかった。予約したバスを見つけるのにインドではいちいち苦労するし、ネットに書かれているバスの停留所が曖昧だし、車酔いが怖いからである。
余裕を持って予約しておいたはずだが、気がつくと日が暮れ、時間がなくなっていた。バス停がよく分からず、人に聞き続けようやく辿り着き、なんとか間に合った。乗り込んで1分も立たないうちに出発したため、本当にギリギリだった。緊張が緩和され目をつぶっているとすぐに眠りに入った。
目が覚めると、あたりは真っ暗だった。外を見ると物凄いスピードでカーブの続く山道を走っていることがわかる。てっきり目覚めたから朝なのだろうとぼんやりとした気持ちが頭にあったが、朝じゃないのかと思っているのも束の間で、あり得ないぐらいの気持ち悪さが襲ってくる。
これが地獄の初手だった。眠りが浅かったから起きたとかではなく、車酔いが睡眠より優っていたため起きたのだ。時間を見るとまだ2時にもなっていない。到着予定は昼頃である。こんな人気のない山道に降りることはしたくないし、出来ない。そう考えているうちにもひたすらカーブが続き、左右に体が持っていかれる。乗っているバスに意識を当ててみるとクラクションを鳴らしながら、他の車を追い抜きまくっている。この旅の全てが嫌になるほど、絶望的であった。
エチケット袋として、備え付けられているビニール袋が一番の相棒になった。まだ食べた物が胃に残っていたため、吐くと多少スッキリすることができる。とにかく寝てしまいたい。そう思っていると、斜め前に座っているインド人の彼も吐いている。俺だけじゃないと一瞬だけ、安堵する。
その後も、ビニール袋を横から鷲掴みにしながら吐いて寝て、吐くためにまた起きての繰り返しだった。微かな胃液しか上がってこなくなっても嗚咽は止まららない。脳から体になにかの信号に送ることすらも難しく、首を動かしたり、横を見たりすることもできない状態でこの時が絶望のピークであった。極端だが、眼球を動かすことも難しい。情報に過敏になっており、微かなアクションでも自分を苦しめてしまう状態だった。
そんな中、横でぐっすりと寝ているマオ君の幸せそうないびきの音が聞こえてきた。もちろんそれはマイナスの情報だった。「まずいな」と思っていると鼻を伝ってバスの匂いや人間の生々しい匂いも脳に情報として送り込まれてきた。体を数センチ動かすだけでも嗚咽してしまいそうなこの状態に、追加情報を処理することは不可能である。音と匂いの影響で吐くことは初めてだった。
その後はあまり覚えていないため、おそらく酔いに慣れ、ある程度寝ることができたのであろう。気がつくと、空が明るくなっていた。そして、気がつくと無事マナリに到着していた。
マナリは山脈に囲まれた、風通しが良い場所だった。バスのトランクから荷物を取り出している最中に、マオくんが「水筒がない」と言い始める。日本にいる時から使っているお気に入りの水筒が転がってどこかに行ってしまったか、盗まれてしまったようだ。絶望から抜けた僕とは逆に、マオくんの絶望はここから始めるのであった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?