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2022年9月23日 ㊎ ヒントはそこら中にある。ヒントをヒントと思わず見過ごしているだけ

ビックリした。

昨日からnoteの記事スタイルを一新したわけだが、書き方をガラッと変えたためか、noteの更新をせぬまま、眠りにつこうとしていた。

危なかった。あやうく眠るところだった。寝床に入って、エアコンのおやすみタイマーをセットして、ホットアイマスクを顔にかけて、さあ寝転ぼうか、というタイミングで思い出した。

▶︎【人は習慣の生き物である】

なるほど。これは真理だ。毎日、習慣として書き綴っていたものを無くしたことで、今後も続けていきたい習慣さえも忘却しかけたわけだ。

表現を変えれば「忘却してしまうぐらいにnoteのことを考えていなかった」とも言える。つまり、自分の人生において、重要度がワンランク下がったというわけだ。

ココで断っておきたいのだが、僕はこのことを、悪い意味やネガティブな意味では受け取っていない。

なぜなら「noteに○○を書かないといけない」という風に、ある種の「強迫観念」のようなものに押し入られて、半ば無理矢理、文章を書き綴っていた心持ちが、どこかに潜んでいたからだ。

それを思えば、ついつい忘れてしまうぐらいの立ち位置で居てくれた方が、僕としては居心地が良い。

ついでに書き添えておくと「あっ、忘れてたわ!」と気付いた直後の心境も、別段、悪くはなかった。「じゃあ今から書くか」と、自然に思えた。要するに、重荷に感じていない、というわけだ。

そんなこんなで、今、僕はnoteを開いて、文字をポチポチ打っている。さて、そろそろ本題に入っていこうか。そもそも本題は存在するのか。書いている僕自身、良くわからない。


こういう時は「区切り線」に頼ろう。

面倒事は全部「区切り線」に押しつけてしまえば良い。こいつを一つ挟むことで、間髪入れず、180度テーマが異なるトークを繰り広げても、どこか「許されている感」が漂う。気がする。僕だけか?

ウン。

実を言うと、コンセプトが全く定まっていない。

どんなテーマを取り上げて、どんな論調で話を広げて、どんな結論で終えるのか。ビジョンすら浮かんでいない。見切り発車でスタートした以上、ある程度の脆さは致し方ない。

出来ることなら、昔取った杵柄ではないけれど、過去に書き記した日記形式の記事で得た経験が活かされる瞬間に立ち会いたいのだけど、今思うと、自分はどんなことを学んできたのか、判然としていない。

気分としては「noteを今日から始めました」などと、初々しいメッセージを発信している小人のようだ。引き出しが何にも広がっていない気がした。「気がした」で終われば良いのだけど。「退化だった」とか言われるとショックだわな。


「今日は何があったんだっけな?」

今一度、目を瞑って、考えてみよう。

ちょうどアイマスクが手の届く範囲にある。一日をざっと振り返ってみて、思い浮かんだ情景をもとに書き進めていけば、それなりに形にはなるんじゃないか。

▶︎【面白い人生を創っていきたい】

今日はそんなことについて考える機会があった。具体的に、何から着想を得たのかは良く覚えていない。だけど「人生をどう生きるか」について考えさせられた記憶は確かにある。

▶︎【結果はコントロール出来ない】

良く言われる言葉。反論の余地はない。ゆえに「必ず人生一発逆転させます!」なんてことを約束してはいけない。それは「大言壮語・ビッグマウス」とは言わない。「無謀な挑戦」と言うものだ。

そう。

誰だって、なんらかの活動を続けていると、それに即した結果を得たくなるだろう。得たいと思えば、自ずと、欲する気持ちも高まるだろう。だけど、それありきの人生になると、途端に息苦しくなってしまう。

医師の世界では「絶対助けます」なんて言葉は使わずに「ベストを尽くします」という表現を用いるのがもっぱらと聞いた覚えがある。

以上のことから、具体的な結果を求める枕詞として「絶対」だとか「必ず」だとかは、使わない方が無難なのである。本人の中で明確な狙いでも無い限りは。

もしも強調表現を使いたいのであれば「結果」よりも「面白さ」に対して使った方が、客観的に見ても平和的だし、主観的に見てもマイルールに振り回されなくなるので、良い。

もしかしたら昨日も書いたかもしれないが、僕の得意技は「自縄自縛」である。自分でも把握しきれない量のルールが設定されることで、本人ですら訳が分からない状態に陥ってしまう。


そうだ。

そのことについて、我らがカープの四番バッター、ライアン・マクブルームが「答えに成り得る考え方」なるものを、インタビューで披露していた覚えがある。

苦しい時期は必ず来る。そういったときには4つも5つも考えないように。その日感じたことを反省し、明日は1つのことを克服しようとする。そういうことを繰り返している。

金言だ。

確かにそうだ。僕はマクブルームとは逆のことをやっていた。それで更に深みにハマっていた。そんな繰り返しを現在進行形で幾度となくやっていた。そんな僕にとって、マクブルームの考え方は、目からウロコの教えだった。

実際問題、苦しい時期が来た時ほど、4つも5つも、生粋の気にしい属性である僕に至っては、7つも8つも、無数に悩み事が脳裏に浮かんで、寝付けない夜を過ごしていたりする。

もしかすると、マクブルーム自身、そういう「眠れぬ夜」を過ごした経験があるのかもしれない。自身の失敗経験から学び、より良いパフォーマンスを発揮する引き出しとして身に付けたやり方なのかもしれない。

そう考えると、僕は「失敗から学ばない人間」として認定されることになるので、それはそれでショックではあるのだが、まあ、事実そうなのだから、甘んじて受け入れるしかないのか・・・。


閑話休題。

マクブルームの言葉に触れることが出来たおかげで、僕自身にも良い変化が微かに見えるようになった。具体的に言うと「メモの量」が少し減った。気がする。感覚としての話だけど。

日頃、メモを取る習慣がある僕であるが、良い状態を保っている時よりも、悪い状態だと自覚している時の方が「メモ魔」になっていることが多い。そして、ココで言う「メモ魔」は、あんまり良い意味合いでは使っていない。

断っておきたいのだが「メモを取る」行為の是非を問うつもりは全くない。それを僕に語らせると「そんなの人によるから一概には言えない」の一言で完結してしまうので。

それを踏まえた上で書かせてもらう。

僕の場合、

▶︎「悪い状態・メモ魔」の時は「何が自分にとって最も大切なことなのか?」という問いに自信を持って答えられない状態

そんなことが多いので、僕は良い意味合いとは思っていない。要するに、同じメモを取るにしても、内容にブレが生じているわけだ。ゆえに絶対量が増える。

▶︎「量の多い(少ない)」が問題なのではなくて「なぜ量が多いのか(少ないのか)が問題である

こういうことなのだけど、僕の書き方で意図が伝わっているのだろうか。あんまり自信がない。もっとバチっと単純明快に伝える手立てもありそうなもんだけど。自他共に認める「話が長い男」である僕は、文字を書かせても長くなるらしい。

そんな自嘲も交えつつ、今回はこれにて。

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