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【夢日記】<後編>サークル終わり、同期の異性Rに誘われ、仲良くパスタを食べていたが・・・。

※前編


僕は、二人で過ごす時間が増えて行くにつれて、次第に、Rのことを「サークル仲間」ではなく「女性」として見始めていることに気付いた。

前述したように、外見の好みとは合致しなかったからこそ、Rのことを意識し過ぎずに付き合えていたのだが、意識し出すと、以前のように、何気無い会話を何気無く返す、取るに足らない話だからこそ後腐れなく終われる、といった風には行かなくなってきたのを、僕は、うっすらと感じていたのだ。

こういうのを「ザイアンスの法則」とか言ったりするんだっけか。日本語で言えば「単純接触効果」だったかな。心理学は、教育心理の分野でかじったぐらいで、専門家でもなんでもないのだけれど。一理あるなぁ、とは思う。

それに、僕は、俗に言う「惚れっぽい」タイプなのかもしれない。だから尚更、効果を実感しているのかも。いや、分からないけどね。他の人の恋愛感情が、話を窺うだけでは、全貌が掴めないから。何とも言えないんだけど。

ただ、ストライクゾーンが広い、と言われたことは、何度かある。それをもとに考えれば、恋愛対象から除外される割合が少ない、とは言えるのかな。

それで言えば「彼氏(彼女)を連れ添って外出したい」という感覚は、僕は一度も、持ち合わせたことがないなと思う。無論、僕も、外見を度外視するわけではないのだが、一種のステイタス、一種の優越感みたいなもの得るために、交際相手の外見を気にする、といった感覚が無い、という意味である。

余談

そうなると、Rもまた、以前と違って、ギクシャクした感覚でも覚えてきたのか、サークル終わりにパスタ屋さんへ、といった流れが出来た日がおとずれても、「一緒に行こー!」と、声を掛けて来なくなってきた。

僕は、相手から声を掛けてもらえなくなったということは、つまり、そういうことだよなぁ・・・、などと、意味深な心の声を感じ取りながらも、居ても立っても居られず、自ら、切り出してみることにした。

これはたぶん「パブロフの犬」になるのかなぁ。「パスタ屋さんが近くにある体育館でバスケをしたら帰りにRとパスタを食べに行く」という行動を取ることによって、パスタ屋さんが近くにある体育館でバスケをした時点で、Rと一緒にパスタ屋さんに行きたくなる、という条件付けが働いたのかなと思う。

語彙を知ってるとか知らないとか、知識があるとか無いとか、そういうのは抜きにして、「あっ、こういうことか!」と、スッキリする感覚が持てると、なんだか楽しいよね。茂木健一郎で言うところの、アハ体験的なやつ?

改めて「理論」と「実践」は往還して然るべきだなぁと思った次第。理論が先行すると頭でっかちになるし。実践が先行するとPDCAを上手く回しづらくなるし。

余談

僕「R、今日、パスタ屋さん、行かないの?」

R「ん-、金欠気味だし、今日は別にいいかなー」

Rは、僕の誘いに対して、金銭面を理由に断って来た。ここでサッと身を引いていれば良いのに、僕は、お金が理由で行かないのであれば、とでも思ったのか、食い下がって、こう返したのである。

僕「だったら俺が出すわ。お金だったら何とかなるし」

R「あー、じゃあ、行く・・・?」

この瞬間、僕は「あっ、こりゃあ、やっちまったか・・・」と、自らの発言を後悔した。Rの表情が、これまで見て来た中で、一番と言って良いぐらい、困り顔を浮かべていたからだ。とはいえ、後悔したからといっても、今更、後の祭り、どうにもならないのだけれど。

「お金だったら何とかなるし」

学生時代、僕は、このような発言を、たびたび繰り返して来た。その当時も、直感的に「あっ、やっちゃったかな?」と、思い至ることもあったのだけど、今現在、自分の過去の発言を振り返る機会がおとずれると、お前、全部やっちゃってるよ、と、思うぐらいには「お金の問題は自分が何とかするから」は、危険な言葉だと感じている。ゆえに、今では、意識的に、使わないようにしている。

「前編」の部分で「俺で良ければ」という言い回しを用いたと記憶しているのだが、他にも「俺に出来ることだったら」とか「俺で力になるのならば」なども、良く使っていたことがある。全てに共通することは、「卑下・卑屈」の心情、要するに、自分に対する極度な自信の無さが表れているのだ。

そこに来て「お金の問題」というのは、文字通り、お金さえあれば問題が解決するんだ、と僕はシンプルに考えていたのか、「お金なら俺が出すから!」と言っては、今回のように、結局上手く行かなかったなぁ・・・、と後悔したり反省したりするケースが、幾度となくあったものだ。

既にお気づきの方もおられるだろうが、この際、ハッキリ言っておくと、「ちょっと金欠気味で~」という断り方は、あくまでも、体裁上の理由でしかない。本心本音は「行きたくねぇ!」とか「お前とだったら嫌なんだよ!」である場合がほとんどなのである。

それを察しもせずに「お金なら俺が出すよ!」と言われた時には、相手はどう思うだろうか?

”あなたのことが嫌いだから行きたくないんだけど、ストレートに伝えるのはさすがに気が引けるので、金銭面の理由で断っておくことにします”

せめてもの情けとしての気遣いまでも無下にされた相手は、ますます嫌気がさすこととなり、関係性が疎遠になるスピードを加速させるばかりなのであった・・・。

余談

付け加えておくと、僕は、バイトはすれど特に使い道は無い、というタイプの人間であって、貯金への意識が強いわけでもないのに、出て行くお金よりも入って行くお金の方が多い一方で、気が付けば、バイト代だけで100万円貯まってた、などという、極めて特異な大学生活を送っていた。

なお、そのお金は、学生同士の身分でありながら、お互いの下宿先が近いのを良いことに、半同棲生活、いや、彼女の家はほぼ空き家状態という、ほぼ同棲生活を送っていた彼女と、散財の限りを尽くしていたら、あっという間に無くなってしまったという、悲しいオチまで付いて来ることとなる。

ちなみに、その彼女とは、既に別離の状態にあり、音信不通状態でもある。お金も恋も、泡沫(うたかた)のようなものなんだなぁと、彼女のことを思い出すたびに、物思いに耽る僕なのであった。

余談の余談

結局、その日は、Rとパスタを食べて、僕が二人分のお金を出して、解散した。

ここだけを切り取れば、普段と何ら変わらない気もするし、会話の内容も、普段と変わらぬ世間話が大半ではあったのだが、明らかに違っていたものがあった。

そう。空気感や雰囲気が、明らかに違っていたのだ。これは、目には見えないし、音としても聞こえないものだが、誰だって分かるだろう、というぐらいに、二人の間には「気まずさ」が流れていたのだ。

「沈黙」で例えれば分かりやすいだろうか。僕は、沈黙に耐えられるか否かで、お互いの関係性、ないしは、コミュニティの関係性が決まって来る、そう言い切れるぐらいには、コミュニケーションにおいて、沈黙を重要視しているきらいがある。

それで言えば、二人の関係性は「沈黙=気まずい」という空気感が漂っていたのだ。ゆえに、話しても話さなくても良いような、どうでも良いことを口に出しては、適当な相槌を交わし、話がすぐに途切れ、再び、気まずさを感じたくない意識が働いて・・・、といったことを、エンドレスに繰り返していた。

こうやって書いていると、その行為全般がそもそも気まずさを助長させていることになぜ気付けないのか、とも思えてくるのだが、行為に及んでいる最中は、そこまで気が回らないものだ。必死なのだ。俯瞰出来ないのだ。何とかこの場を乗り切りたいという気持ちで頭がいっぱいなのである。

そして、バイバイして、一人になった後、フーっとため息をついて、振り返りモードに入った時に「全然、楽しめなかったなぁ・・・。」とか「自分が楽しくなかったんだから、当然相手も、楽しくなかっただろうなぁ・・・。」などと、心がどんどん沈んでいって、やがて、自分自身へのダメ出しが始まる、それが僕のお決まりパターンである。

特に、学生の時分は、そんな苦々しい思いを、幾度となく経験してきた。今回のように、サークル仲間との付き合い、もその一つだし、ゼミ仲間との付き合いとか、バイト仲間との付き合いとか、同じ学部のヤツとの付き合い、その他諸々、今と比べれば、多岐にわたるコミュニティに属して、彼・彼女と交流を持つ機会がダントツに多かったからだ。

僕は、人間関係のモットーとして「狭く・深く」を主張している。つまり、数自体は少なくても、ひとりひとりの人と深く付き合いたい、そんな気持ちの表れを指しているのだが、前述した「サークル・ゼミ・バイト・学部」などといったコミュニティに属していると、必然的に「広く・浅く」の人間関係を築くことになってしまう。それが、僕にとっては、ひどく煩わしさを感じたために、今のような考えに至ったのであろう。

余談

言うに及ばずであるが「狭く・深く」でも「広く・浅く」でも、その人が心地良いと感じる距離感で付き合えば良いだけの話であって、あくまでも僕はそう考えているよ、という話として受け取っていただければ幸いである。

それを踏まえた上で、一つだけ「なぜ僕は『狭く・深く』を提唱するのか?」という理由を述べておきたい。

例えば、僕の友達Aと、僕の友達Bが、全く同じタイミングで「助けてくれ!」と、僕に救いを求めた来たとする。友達Aを助ければ友達Bを見捨てることとなる。友達Bを助ければ友達Aを見捨てることとなる。う~ん、いかんともしがたい。さて、困ったことになった・・・。

いわゆる「ジレンマ」と呼ばれる現象だが、僕は、こういう状況に直面する可能性を、なるべく0%に近付けたい、そんな思いがあるのだ。

僕は、友達と呼べる間柄の人は、困っている時ほど頼りになってあげたいと思う。なぜなら、自分が楽しい時は一緒にワイワイしているけれど、自分が苦しい時はサーッと離れて行ってしまうような人は、僕は友達とは呼びたくないと感じるからだ。それは立場が逆転したって当然同じ。ダブルスタンダード、いわゆる「ダブスタ」と呼ばれる人も、やっぱり僕は好かないから。

さらに付け加えると、どうしても片方を助けて片方を見捨てることを決断せざるを得ない、となった際に、優劣を付けることになるわけだが、これもまた、僕は好いていない。ゆえに、たびたび行われる「究極の選択」が、僕は大嫌いだ。そして、大抵の場合、決めるまでにやたらと時間が掛かってしまい、周りから「はよ決めろよ~」と急かされたりもする。

とまぁ、言ってしまえば、嫌なことから逃げたいという本能に身を任せているようなもので、我ながら、感心出来ないモットーだな、とも思い始めてきて、鬱屈とした感情が湧いて出てきたのだけれども、これだけは言える。

僕は、曲がりなりにも友人関係を結んでいる人達のことを「1軍」とか「2軍」などと、ランク分けしている人が大嫌いだ。「やっぱ地元のメンツが1軍やわ!w」とか言っている人が大嫌いだ。事実、そうなのかもしれない。僕だって、地元のメンバーと一緒に居る時が、一番、素の自分で居られる感覚はある。でも、だからと言って、カースト制度の如く、序列を定めようとした覚えは、一切ない。ましてや、臆面もなく、周りの人に向かって「1軍はこの人達」「2軍はこの人達」などと言ってのけるような、デリカシーの無い人間にだけは、絶対、なりたくない。それだけは、神に誓って言える。一生涯、言い続ける。必ず。

余談の余談

失礼。
変なスイッチが入ってしまった。
本編が終盤に近付いているにもかかわらず。
最後、シメに入ろう。

その後、僕とRは、周りから見ても、関係性に変化が生じたことが伝わって来るぐらいには、ギクシャクするようになった。

だが、僕は、こうなることを、おぼろげながら、予感していた。自分がお金は出すからと、半ば無理矢理、パスタ屋さんに誘ったのが、完全に裏目に出たことを、気まずい空気感から察することが出来ていたからだ。

Rは、あからさまに険悪なムードを漂わせる、という感じではなかったにせよ、必要最低限の会話にとどめているのは、容易に感ぜられた。その振る舞いは「プライベートな話は控えて欲しい」「パーソナルスペースに踏み入って来ないで欲しい」といった意味合いが、言外に込められているようだった。

かくして、僕とRは、「一緒にパスタを食べに行く間柄のサークル仲間」から「バスケをやる時だけ顔を合わせるサークル仲間」へと、変わっていったのだった。

それでも僕は「そもそも関係性が元に戻っただけのことじゃないか」と自らに言い聞かせて、完全に関係が断絶されなかったことに対して、むしろ感謝の気持ちを持とうと努め、Rのことを「片想い」のような心情で、ボンヤリと見つめていることが多くなった。

「前編」で記したように、Rの外見は、僕のタイプではなかった。だが、世間一般では「綺麗」に分類されるであろうことも、また事実。僕は、そんな彼女の、凛とした芯の強さを感じさせる、キリッとした切れ長の目を見ては、ますます、恋慕の情を募らせるのであった・・・。

Rへの想いが最高潮に高まったタイミングで、僕は目が覚めた。

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