見出し画像

【feat.中島美嘉】人生問題に真正面から向き合う【GLAMOROUS SKY】

【はじめに】

とある居酒屋の店内BGMで、中島美嘉『GLAMOROUS SKY』が流れた。僕は、「お~、『NANA』の主題歌じゃないか。僕はあの作品の中島美嘉が好きでなぁ・・・。」と、昔を懐かしみながら、それを肴に、酒を酌み交わした。

そうこうしていると、別の曲に切り替わって、何事も無かったのように、話も切り替えられていった、のだけれども、解散して、一人になってから、頭の片隅で、「あの~♪ 虹を~♪ 渡って~♪」と、サビの箇所が、繰り返し脳内再生されて、居ても立っても居られなくなり、歌詞を見ながら、フルでじっくりと、聴いてみた。

そうしたら、2箇所、気になるフレーズが出て来たので、ソイツを深掘りしてみたくなった。全くのノープランではあるが、つれづれなるままに、書き連ねてみようじゃないか。


【1】

「繰り返す日々に何の意味があるの?」

「何の意味があるの?」と問われたら、僕も良く分からないけれど、それと同時に、ふと思い出したのが、「THE 虎舞竜」の名曲、『ロード』に出て来るフレーズだった。

なんでもないようなことが幸せだったと思う
なんでもない夜のこと 二度とは戻れない夜

歌詞のフレーズに対して、歌詞のフレーズで返す、というのは、相手の質問に対して、こちらも質問で返す、みたいな感じがして、僕自身、あまり良い気はしないのだけれども、頭によぎったのだから、致し方ない。

ただ、そのまま終わってしまうと、高橋ジョージの言葉を丸パクリしただけになってしまうので、二つのフレーズを元に、僕なりの考えを、言語化してみたい。

「う~ん・・・。」(沈思黙考)

僕が思うに、今現在に対する価値の感じ方と、過去に対する価値の感じ方が、異なるのではなかろうか。だとしたら、中島美嘉のフレーズも、高橋ジョージのフレーズも、両方とも真なり、と言えるのではなかろうか。

つまり、

「繰り返す日々」に、今まさに、直面している状況では、「何の意味があるの?」と、自らに問い掛けたくなるぐらい、ウンザリしてしまう時もあるけれども、やがて、「繰り返す日々」から解放されて、しばらく経った後に、ふと、「〇〇を繰り返していたあの頃は・・・。」と、昔の出来事を思い返すと、無性に懐かしさがこみ上げて来たりして、あるいは、当時は感じられなかった、かけがえのないものにも気付けたりして、「なんでもないようなことが幸せだったなぁ・・・。」と、しんみりした気持ちになる、それが人間である。

「・・・な~んてねっ。」

僕は、しかつめらしい表情で、まじめくさったことをほざいた後に、茶化したりだとかして、場の空気を和ませようとする癖がある。大抵の場合、「何言ってんだコイツ・・・。」と、人々を困惑させるだけで、逆効果でしかないのだが、未だに、直る気配が無い。おそらく、”場の空気を和ませる”というのは、単なる口実に過ぎず、自分自身、もっともらしい顔でもっともらしいことを言う、その事実に耐えられず、道化を演じることで、周りから見られるハードル(期待値と置き換えても良い)を下げようとしているのだろう。

そう思うと、なんだか、自分という人間が、ひどく卑しい存在に感ぜられて来て、急に、気分が悪くなってきた。なんだか胃がムカムカする。これまでに経験してきた出来事を、コマ送り状態で、高速で見させられている、そんな心持ちだ。自分の一挙手一投足が、醜態をさらしていたのだなと、思われてならない。

・・・いけない。嘔吐感も出て来た。もう、この話はおしまいにした方が良さそうだ。さっさと次に移ろう。


【2】

「明け渡した愛に何の価値もないの?」

「明け渡した愛」という表現は、あまり聞き馴染みの無い言葉だ。コレをどう解釈するかによって、結論もまた、変わって来るのではなかろうか。

例えば、「無償の愛」だとすれば、相手に見返りを求めない愛情、というニュアンスで使われるイメージがある。そう考えると、価値の有る無し以前に、価値を見出そうとすること自体が誤りではないか、そんな視点が生まれて来る。そこから思考を深掘りすることも可能であろう。

しかし、「明け渡した愛」となると、話は別だ。

上手く考えがまとまらないので、辞書を引いてみた。

今まで住んでいた建物土地などを立ち退いて人の手に渡す。
「店を—・す」「城を—・す」

「なるほどなぁ・・・。」

確かにそうだ。「明け渡す」は「建物」や「土地」などに用いる言葉である。しかし今回は「愛」に用いている。両者の違いは何か。前者は「目に見えるもの」で、後者は「目に見えないもの」、そんな分け方が出来るのではないかしらと、思った。

それと、「人の手に渡す」という意味合いもまた、興味深い。「建物」や「土地」は、目に見えるからイメージしやすいが、「愛」を明け渡すとは、いったい、どういうことなんだろう。しばらく考えてみたが、上手くイメージすることが出来なかった。

「見える化」してみたら、もっとイメージしやすくなるんじゃないか、と思って、これまでの解釈をもとに、図式してみたら、こんなことになった。

「う~ん・・・。」(難しい顔)

イメージしやすくなったような、なってないような・・・。何とも言えないが、左図に書き記したように、一般的な「愛」のイメージと比較することで、見えて来るものはあるのかな、と思えた。それが唯一の収穫であろうか。それ以外は、書いた僕自身、良く分からない。

確かに、「愛」は、「人の手に渡す」ものではないと思う。僕の解釈では、一方が、愛をもって接することによって、もう一方に、「返報性の原理」が働いて、同じように、愛をもって接するようになり、お互いに、愛が絶えない、円満な人間関係を築いていく、そんなイメージがある。(現実問題、そう上手く行くものでもないが・・・。)

「愛を明け渡す」を、辞書の定義通りに解釈すると、人の手に渡した時点で、その愛は、渡された側のものとなり、渡した側は消滅してしまう、ということになる。それがいまいちピンと来ない。「愛ってそういうもんじゃなくね?」という疑念が拭えないのだ。

具体的な場面を想定して、考えてみよう。

AさんもBさんも、Cさんのことが好きだったとする。AさんとBさんは、仲が良い者同士。Aさんは、Bさんも、Cさんのことが好きだと気付いているが、Bさんは、Aさんも、Cさんのことが好きだと気付いていない。そこでAさんは、どんな行動を取るのが最適解なのか、熟考した。

熟考した末に、Aさんは、三角関係によって、BさんともCさんとも、関係をこじらせることだけは避けたい、と思い、Aさんは、自分の恋心(この文脈においては「愛」とニアリーイコールとする)を、そっと胸にしまって、Bさんが、Cさんに抱く恋心を、応援する側に回ると、一人、心に誓ったのだった・・・。

このシチュエーションならば、「明け渡した愛」という表現が、当てはまるのではないかしら、と思ったのだけど、う~ん・・・、まぁ、モヤモヤ感は残るけど、言いたいことは分からんでもない、って感じかな。もっと上手い例え方が有るだろうけど、イメージしやすくなった気はする。

あと、書きながら、こんな曲も、思い出した。

ねぇ いつか 笑い話にできるかな
「アタシ、同じ人が好きだった」って

「こっちの方がイメージしやすいかも・・・。」

つまり、親友のBさんに対する「愛」と、好意を寄せているCさんに対する「愛」は、言葉にすれば、同じ「愛」だけれども、中身は全く異なる。また、両立することは不可能である、と捉えたわけだ。

そこで、Aさんは、「Bさんへの愛 > Cさんへの愛」と、一度は決断したものの、だからといって、Cさんへの愛は、そう簡単に、消えては無くなるはずもなく、一人、葛藤状態に悩まされる・・・、そんな、複雑でありながらも、どこか愛おしさも感じる、繊細な心の揺れ動きを、巧みに描写しているわけだ。

ここまで考えて、一つ、気付いたことがある。

「明け渡した愛」は、実は、「明け渡し」ていないんじゃないか、と。事実に即して書くならば、「明け渡したと思い込もうとしている」と形容するべきではないか、と。そう考えれば、しっくりくる。「愛ってそういうもんじゃなくね?」という疑念も浮かんでこない。

今一度、フレーズに、目を通してみる。

▶「明け渡した愛に何の価値もないの?」

「何の価値もないの?」は、見返りがどうこう、というよりも、自分の愛情にフタをして過ごしている事実に誰も気づいてくれないことへの虚無感、とでも言うべき、やるせない想いを吐露したのかもしれないな、と思った。

僕の経験則でいけば、誰も知るはずのない「明け渡した愛」を、第六感で感じ取って、それとなく声をかけられると、コロッと、新たな恋に落ちてしまう、そんな気がする。

この人間社会は、誰かに見てもらいたいと、密かに期待していたら、誰も見てくれないんだな、と落胆するのが関の山だが、どうせ誰からも見てもらえないんだから好き放題やってしまえと、開き直っていたら、誰かに見てもらえていて、思いもよらない良縁に、恵まれることもある。

ここでまた、別の曲を思い出した。

僕等の期待を 世界はよく裏切るけれど
期待していなかった喜びに 時々出会えるんだ

「うん・・・。」(首肯)

収拾がつかなくなったので、ココで締めさせてもらう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?