【サムネで一言】人生がエラーです。やり直しますか? → エラーでもやり直さない
いつもの如く、鬱屈としたテーマで文章を書き綴ろうと思いながら(それもそれでどうかと思うが)、イメージに合致するサムネイル画像を探していたら、こんなのが出て来た。
なんだろう、妙に納得感があった。「人生がエラー」。心の中で、「確かにそうかもしれません」と同意する自分が居た。ただ、だからといって、「やり直しますか?」と聞かれたら、「いや、その気は特に無いんですけどね」と否定する自分も居た。
このアンビバレントな感情を言語化するならば、例えば、「もしもあの時に戻れるならば、今の僕は当時の僕よりも、もっと上手く立ち回ることが出来るはずだ」と思うことはあっても、「今の僕は当時の僕よりも、もっと上手く居立ち回ることが出来るはず。だからあの時に戻れるなら戻りたい」と思うことはない、多分、そんな感じ。言葉遊びのようだけど、僕の中では、この表現がしっくり来る。
ただ、会話の流れで、前者の言い回し、「今、同じ問題に直面したら、もっと上手くやれると思うけどなぁ」などと言えば、大抵の場合、後者の言い回し、「だからあの時に戻れるなら戻りたい」というニュアンスで受け取られてしまう。ソコに頭を悩ませた経験が結構ある。
それもあってか、「過去は振り返らない主義なんでね」と言い、へへーんと気取って見せるムーブを取ることも多い。実際はその対極に位置するような人間(隙あらばエンドレスに過去を振り返っている)なので、大嘘も大嘘である。この場をお借りしてお詫び申し上げます。誠に申し訳御座いません。
「嘘」は、僕の中で「OKライン」「NGライン」を設けた上で、ついたり、つかなかったりする。今回のケースはOKと思ったらしい。僕の中では。「そのラインって具体的に言うと?」と言われると、「その場その場で線引きを行なうので上手く言えないんです」としか言えないんだけどね。
ただ、ポイントを挙げるとするならば、相手を傷付けるような嘘は、やっぱり良くないな、とは思う。月並みな答えでアレだけど。それもあってか、「過去は振り返らない主義なんでね」という言い回しを用いるケースは、そこまで関係性が深くないコミュニティに限定している。これがもし、関係性が深いコミュニティになると、「いやいや、過去を振り返ってばっかやないかい!」と、猛ツッコミを受けることだろう。
要は、自分をどれだけさらけ出すか否か、ということだ。誰彼構わず、等身大の自分でぶつかることを、僕は良しとは思っていない。「この人とはAの自分で付き合おう」「あの人とはBの自分で付き合おう」などと、コミュニティによって、色んな自分を演じたってい。それがお互いにとってプラスに作用するならば。
【※】「分人主義」という考え方に影響を受けている面が多分にある。結構、この手の話をすると、共感の声をいただく機会も多いので、みんな無意識的に、色んな自分を演じているんじゃないかしら。
改めて、この一文と向き合ってみて、分かったことがある。
おそらく僕は、やり直した結果上手く行ったとしても、また別のところでつまずいて、同じように、「今の僕ならもっと上手く立ち回れるはず」と過去を振り返っているのが、やり直す前から目に見えているので、「だからやり直したい」とは思わないのだろう。
もう一つ、経験則から、痛切に感じることがある。
人間という生き物は、「最終的に上手く行きませんでした」という結果を受けてはじめて、「あの時、僕が、ああしていれば、こんな結果を招くことにはならなかったのに・・・。」などと、無数の「タラレバ」が、脳裏を駆け巡って来るのではないかしら。
もし仮に、「最終的に上手く行きました」という結果に終われば、自分の一つ一つの言動を省みることなど一切せずに、「イエーイ!ハッピー!ワンダフール!」などと、喜びの蛮声を張り上げて、飲めや歌えやの大騒ぎに興じているのではないかしら。
【※】「タラレバ」に苛まれる逆パターンの振る舞いがよく分からなくて、「ぼくのかんがえたパリピ」を元に描写してみたのだが、思った以上に「ぼくのかんがえた」だった。いわゆる「小並感」ってやつ。描写の拙さで、パーリーピーポーを経験してこなかったのがバレてしまう。ああ、恥ずかしい。
「だったら、その都度その都度、やり直せば済む話じゃないか?」という物言いもあるかもしれないが、僕の場合、生きる上で害悪でしかない「完璧主義」が邪魔をしてきて、「あっ、今のところ、もっと上手く出来る自信あるから、やり直そう・・・。」と、何度も何度も、同じところを行ったり来たりする自信がある。ちっとも人生が前に進んでいかない。
挙げ句の果てには、「あの時の結果は自分のベストを尽くした結果だと思っていたけど、今振り返ると、もっと上手く出来た気がするぞ・・・。」とかなんとか言い出すことだろう。実際に経験出来ないので想像の範疇を出ないが、そのように思われてならない。
「リセマラ」という言葉がある。「リセットを繰り返して自分が望む結果を得られるまで続ける。その光景はさながらマラソンのようだ」という意味合いを略して「リセマラ」と呼ばれていると僕は解釈している。おそらく僕はその属性を持っている。一度気にし出すと、もう、止まらなくなるのだ。
そういえば、気の置けない友人に、「ホンマ凝り性やなぁ(笑)」と言われたことがある。それに対して、僕は、「こだわりが強い性分は、自己研鑽の上ではプラスに作用しやすいが、良好な人間関係を築く上ではマイナスに作用しやすい」と、返答になってるんだかなってないんだか、よく分からない返し方をした。
そんな僕に対して、何を言うでもなく、温和な笑みを浮かべながら聞き流していた。それもそのはず。日頃から僕は、「つまり、どういうこと?」「結局、何が言いたいの?」と、会話相手を困惑させるようなコミュニケーションを取る傾向があるからだ。
要するに、気の置けない友人という立場からすると、僕の返答内容は「通常運転」に過ぎないわけだ。「またなんか言ってんなぁ(笑)」ぐらいにしか思っていないはず。それに対して深掘りしてくることもない。聞いたら聞いたで、更にわけが分からぬことを言い出すのが、目に見えているのだろう。
こうやって書いていると、しみじみと感じる。こんな僕と接してくれる友人を大切にしたい。心底そう思う。
僕は、気の置けないメンバーでお酒を飲んでいると、たびたび、言ってしまうセリフがある。
「よく俺なんかと付き合っていられるよな。もしも俺やったら、俺みたいなヤツと仲良くなろうなんて思わんで。口を開けば陰気臭いテーマをブツブツと語るし・・・。こんなヤツ、一緒に居てて楽しくないやんか」
僕の「酔いどれ自虐トーン」も、温和な笑みを浮かべながら聞き流してくれる、そんな友人達が大好きだ。あの笑顔は「アルカイックスマイル」と形容するに相応しい。
今度、お酒の席で、「酔いどれ自虐トーン」の気分になったら、「だから、こんな俺に対して、アルカイックスマイルをたたえて、仲良くしてくれるお前達は、俺にとっては仏みたいなもんだ」と言いながら、合掌してみよう。
「勢いとノリで書いてるだけでどうせやらないだろうな」と思っただろう。ところがどっこい、僕は割と躊躇無くやれちゃうんだよ。なんなら、個室じゃないお店でも、全然やれちゃうよ。恥も外聞もなくやれちゃうよ。条件が整ったらの話だけどね。
書いている間、脳内再生されていた曲を、エンディングテーマ代わりに載せておく。何度も繰り返し流れたフレーズも抜き出しておこう。
僕は「完璧主義は生きる上で害悪でしかない」と書いたが、それと同時に「人間は過去を美化する生き物である」とも強く思っている。そんな僕が「過去の汚点」に目を向けると、あら不思議、「失敗続きだったあの頃もまるごと愛おしい・・・。」と思えたりするものだ。
この文脈においては、「失敗は成功の母」だとか「人生に無駄なものは何一つ無い」などといったことが言いたいわけではない。ただただ、「あの時はあの時で一生懸命やった結果なんだよな」と思えて、自分の身に起きた全ての出来事を、ありのままに受け入れられる、そういう感覚が、僕にはある。
もう終わらせようと思っていたのだが、ここまで書いて、今度は、吉井理人さんの言葉を思い出したので、エンディングテーマ後の「あとがき」として、該当する記事と引用文を載せておく。
「コレだけはこだわりたい」「コレだけは譲れない」という観念が強く働けば働くほど、自分で自分の首を絞めることになるのが分かっていながらも、100点を追い求め続けて、やがて力尽きて、燃え尽き症候群を起こして、0点の日々が続いて、心がささくれる、そんな僕にとって、「これでいいのだ」は、魔法の言葉のように感ぜられる。
「これでいいんだよ」「それでいいんだよ」って言葉をかけてくれる恋人が居たから、持続可能な努力が実現出来ていたんだなぁって、ふと、思った。自分が自分に言えてあげられたらいいんだけど、どうも僕は、セルフコーチング能力が、未熟らしい。
「人の力を頼らないと頑張れないようではまだまだ半人前だ」と思う自分と、「人は『自分のために』よりも「誰かのために」の方が頑張れるのだ」と思う自分の狭間で揺れる思い。
確かなことはただ一つ。
人肌恋しい季節が近づいてきました。