2024年5月9日(木)|こどもの日に祖母からポチ袋を貰う三十路
“子供の日”
教育をかじったことがある人は「子供」ではなく「子ども」と書く傾向があると僕は思っている。「子供」の表記を見ると、どうしても「人身御供」など、マイナスなイメージを連想してしまうからだ。
また、これは僕だけかもしれないが、「子ども」よりも「子供」と書いた方が、“社会的弱者感”とでも言うべきか、「女子供」と一括りにされて語られるイメージも湧いて出て来てしまう。これは社会学部の名残なのだろうか。それとも、僕が拗らせすぎなのだろうか。
・・・そういう話じゃないんだよ、今回は。
僕は、今、実家暮らしで、両親、祖母、兄、僕、計5人で生活している。それもあってか、前述した「こどもの日」など、何かしらの記念行事の際は、お祝い事が催されたりすることが多い。
・・・さて、そろそろ、本題に移る。
「三十路の男」が「こどもの日」に「祖母」から「おめでとう」と金一封を手渡される。これいかに?(リュカルト)
密かにリュカルト気に入ってんじゃねえよ。
まぁ確かに、「親からすれば何歳になっても子どものままだ」と言われたりもする。それでいけば、「祖母からすれば何歳になっても孫のままだ」も成り立つのかもしれない。ソレに即せば、何ら問題無いとも言える。「三十路」がポイントなのではなく「祖母」がポイントだと解釈するのであれば、だ。
つまり、祖母の視点に立って考えれば、「こどもの日だから孫にお祝いとしてお金を渡した」ということになる。なるほど。確かに何もおかしな点は無い。
だが、僕の視点に立って考えれば、「こどもの日だから祖母からお祝いとしてお金を渡された」と、素直に思えないところが多分にある。
人によって個人差があるのかもしれないが、少なくとも僕は、昔の頃のように、「わあい、おばあちゃんありがとう〜♪」と返せないでいる。「あっ、わざわざ…。悪いね。ありがとう」と、半ば、しどろもどろになることが多い。今思い返しても、何をどう返したか、明瞭に思い出せないぐらいだ。おそらく、様々な考えが、瞬時に脳内を駆け巡っていたからであろう。
とにかく、「こどもの日」に限らず、「お正月」だとか「誕生日」などなど、節目節目の記念行事で、金一封が入ったポチ袋をいただくと、「ありがとう」の前に「わざわざありがとう」だとか「気を遣ってもらってごめんね、ありがとね」などと、遠回り的な言い方で、感謝の言葉を述べることが目立つようになった。それは間違いない。
多分、“後ろめたさ”が影響しているのだと思う。「三十路にもなってお金を貰う側に回ってていいのかな…。」みたいな。「こういう時ぐらい別にいいんじゃない?」という自分も居るのだけれど。僕が思うに、親孝行(祖母孝行)が十分に出来ていない感覚があるのが、申し訳なさに繋がっている気がする。祖父は既に亡くなってしまったという悔恨の念も、拍車をかけているような…。
“親孝行”
このぐらいの年齢(アラサー)になってくると、「手遅れになってはじめて『親孝行しておけば良かった〜』と後悔することになるからな。ちゃんとお父さんやお母さんを大切にしろよ」などといった説法をとかれることもある。話し相手によっては聞き流しているが、その類の話を聞くたびに、本当にそうだなぁと思う。年々、その気持ちが増していってる感もある。
そのたびに頭によぎるのが「孫(曽孫)」の存在だ。別に、一度たりとも、そういう話を振られたことはない。けれども、いや、だからこそ、“孫(曽孫)の顔を見せてあげたい”という思念が強まっているのかもしれない。
とりわけ、曽孫となると、不謹慎な話で恐縮だが、人間の寿命から逆算すると、もう、残された時間は、そう多くはないと覚悟するべきだろう。
“三十路 ✕ 未婚 ✕ 独身”
なるほど、世のアラサー達は、こうやって、強迫観念的な思いに駆られて、恋愛に焦りが生まれるのかもしれない。
もしかすると、僕のように、周りの人々から急かされているわけではないのだが、いや、急かされていないからこそ、自分自身で、(自分のことを気遣ってそっと見守ってくれていることに対して)“我が子の幸せを願う気持ちに報いるために”という思いが、逆に、気が急くことに繋がって、かえって何にも上手く行かず、ついには自己嫌悪に陥って・・・、そんな、悲しい末路を辿るケースも、珍しくないのかもしれない。
“三十にして立つ”
“自立”も“自律”も道半ばの僕には、あと数ヶ月もすれば“而立”と呼ばれる年齢に突入するという事実を、なかなか受け入れられていないのが、現状である。
我ながら、情けない話だ。