人生で一番大好きな人
「かなでって名前はどう?」
「えっ、かなで?」
「花に奏でるで花奏、良い名前じゃない?」
「良い名前だよ、めちゃくちゃね」
二人目を授かったと、医者から聞いた。まだそのレベル。女の子だとか、男の子だとか言われてもない。
「雨が降る気がする」
晴天の空。俺は、言葉を残して洗濯物をしまう。
「今日、そんな予報なかったよ?」
桜は首を傾げる。これで降ったら、天気予報士以上だねと微笑みながら。
そんなんじゃない。俺の脳の片隅にあった記憶のかけらが、予報しているだけだ。
「翔くんにはさ、もっと良い人いるよ。幸せになってね」
10年前の雨の日。俺は奏に振られた。その言葉に対して、別れも感謝も言えず、その場で呆然とする。気づいた時には、目の前に彼女の姿はなかった。
今でも覚えている10月26日。顔が濡れていたことも覚えている。それが雨かどうかは覚えていない。
俺は、振られた後、くしゃくしゃの顔でコンビニに寄った。何も持たず、レジに向かう。
「煙草を一つください」
「どの煙草ですか?」
脳が思考を辞めているせいで、気づいたら煙草を求めていた。今まで吸いたいと思ったことすらないのに。煙草に詳しくない俺は、咄嗟にpianissimoと答えていた。
彼女が吸っていた煙草。
「ありがとうございました」
店員の声なんて届いてこない。死んだ目だっただろう。
店を出た後、ライターを買っていないことに気づく。吸いたいと思っていなかったし、咥えればいいかと白い煙草を口に運ぶ。その時、あることを思い出した。
鞄の中を漁る。すると、Kの印が入っているライターが出てきた。刹那に浅草での会話が思い出される。
「私たち、どっちもKだから買おうよ」
「いや、俺は煙草吸わないし、持ち歩かないよ」
「お守りにすれば良いでしょ〜。私とお揃いだよ?いいの?」
別れてから思い出すなんてお守りになってねぇよ…。
雨風に包まれながら、白い煙草に火を灯す。
人生で初めて煙草を吸った日。それも10月26日になった。当然、煙を肺に入れることなんてできずに、咳き込む。
色も音も無くなった世界に、火だけが灯されている。俺にとっての良い人が奏なんだよときっと叫んだ。その声は、煙を借りて外の世界へ飛び出した。
そんな夜だった。それから、煙草を吸いたいとは思わないが、雨の日になると、白い煙草に火を灯した。
灰が落ちるように、思い出も消えていけば良いのに。そう煙草を吸いながら、奏との時間を思い出していた。
また来ようと約束した喫茶店。
一緒に時を刻んでいこうと買ったお揃いのネックレス。
旅館に泊まりたくて行った旅行の請求。
クリスマスのホテルのキャンセル。
そんな奏との時間はすぐに忘れられると思っていた。この状態のまま2年が経つ。白い煙草に火を灯すたび、世界が色づく。
外から見たら、ニコチン中毒なのかもしれない。しかし、雨の日以外吸ったことはない。ニコチンを求めているのではない。奏を求めているのだ。
雨に打たれながら、煙を吸い込む。あの日のように。
ある雨の冬の日だった。サークルの飲み会。煙草を吸おうと立ち上がると、桜に言われた。
「あれ、先輩ってタバコ吸ってましたっけ?」
他の喫煙者は、喫煙室で吸う。喫煙室で吸う煙草に価値はない。煙草を吸っていたことを隠していたわけではないのに嘘をついた。
「外の空気吸ってくるだけだよ」
そう言葉を残して、店を出た。知らない間に外は暗くなっていた。夜を照らすように白い煙草に火をつける。
空から降り注ぐ雨に目を向け、煙を吐き出す。吸い初めて間も無く、雨は火を消した。いつもこんな感じだ。
席に戻ると、桜が耳元で囁く。
「吸ってる時の横顔かっこ良すぎます」
「え?見てたの?」
桜は、舌を出した。俺と桜の出会いはその居酒屋になる。月日が流れた後、付き合った。付き合っていく中で、心から桜という人間を尊敬できた。人生で一番尊敬できる人が桜だった。この人とこれからの時間を共に過ごしたい。そう思って、付き合った時とは反対に、俺からプロポーズした。桜のことを好きになり、付き合ってから奏のことを思い出すことは無くなった。だから、付き合ってから煙草を吸ってない。桜には、辞めたことを伝えていた。桜は、悲しそうだった。
今でもその顔を鮮明に覚えている。
順調な新婚生活を迎えているところに、涼太が産まれた。
今思うと、人間って単純な生き物なんだなって。こんな形で奏のことを思い出すと思わなかった。
「涼太の迎えに行ってくるね」
「ありがとう。お風呂洗っとく、気をつけてね」
涼太を俺が迎えにいくと恥ずかしがるせいで、桜が迎えにいくことが多い。
俺は、あの雨の日を思い出しながら、お風呂を洗った。シャワーの音が心無しか雨音に聞こえる。さっきまでの快晴が嘘のように雲行きが怪しくなる。
奏は何してるんだろうな。元気にしてるのかな。俺は机の引き出しから、Kの印がついたライターとpianissimoが入ったポーチを取り出す。
湿気ってる煙草を吸うなんて、喫煙者からしたらあり得ないだろう。味なんて気にしたことがないから関係はない。
ベランダに出て、ライターを手にすると、あることをふと思い出す。Twitterで共有のアカウントがあったことを。
別れた雨の日。全てが嫌になって、カメラロールの写真を消し、Twitterからはログアウトした。別に他人に見せびらかすようなアカウントじゃない。共有の日記用に使っていただけ。こんなことをしても何もないと分かっていても、昔の記憶を辿り、ログインを試みる。
驚くことに、ログインできた。ただ、投稿は全て消えていた。そりゃそうだよなと少しだけ落ち込む。
白い煙草に火を灯す。適当に画面をいじっていると、下書きに残っている言葉に目を奪われた。
「翔くんへ。
急に別れ話を出してごめんね。この下書きも見られてるかはわからない。見られてほしくはないかな。
私にとって、翔くんは一番好きな人です。それは後にも先にもです。ただ、別れた一年後に私は死んでると思う。
ずっと隠してた。血液の病気なんだよね。翔くんは優しい人だから、それを聞いたら、私のことしか考えられなくなってしまうと思ったの。
自意識過剰すぎるかな?私の知ってる翔くんはそういう人だよ。買わないって言ってたライターもお揃いって言ったらすぐに買った人だもん笑。
もしかしたら、別れた日にpianissimo吸ってたりしてね。
また来ようって約束した喫茶店にも、時を刻んでいこうって買ったネックレスも、守れなくてごめんね。
けど、一番大好きな人には、幸せになってほしい。
喧嘩ばっかだった私たちじゃなくて、翔くんが心から尊敬できる人と結婚して、笑い合う人生を歩んでほしいの。
これが私の最後の願い。今までありがとう。人生で一番大好きな人」
言葉にならない感情が俺自身を包んでいた。なんだよこのサプライズ。涙で濡れた白い煙草を咥え、降り出した雨に煙を吐く。全てお見通しだったんだ。
どこに向かって良いのかわからない感情でぐちゃぐちゃになる。
「ただいま、翔さん。本当に雨降ってきちゃったよ。あれ?いない?あっ!タバコ吸ってる!!どうしたの?」
「パパが煙出してる〜」
「ごめんごめん、昔を思い出してね」
「ママはね、パパがタバコを吸ってる横顔が昔から好きだったんだよ〜。かっこいいでしょ〜」
「パパは、ママのどこが好きなの?」
「ママはね、パパの人生で一番尊敬できる人なんだ。
ママはすごい人なんだぞ〜。だから、結婚したんだ」
雨に濡れた二人は、お風呂に向かった。いや、桜は照れていただろう。それを隠すように、お風呂場に向かった。そんな不器用なところが人間味があって、好きだ。
俺は、一人になったベランダで空を見上げた。
いや、ずっと一人じゃなかったのかもしれない。
あの時、言えなかった言葉。さようなら。ありがとう。
俺の人生で一番大好きな人。
俺は、初めて煙草を捨てた。それは、10月26日になった。